第24話 鋭利な言葉

 どんな怒号が飛んでくるのかと身構えたが、お母さんは表情を変えずに、視線は洗い終わった皿に向いていた。


胡桃くるみへは謝ったの?」

「え、ま、まだだけど」

「あれは元々胡桃が友達から貰い受けたものでしょう? 故意じゃないのは分かるけれど、壊した責任は佐凪にあるのだからまずはきちんと謝りなさい」

「胡桃、怒ってなかったよ。そ、それに、あのパソコンはほとんど私しか使ってなかったから」


 洗面所から戻ってすぐにお母さんと対峙したから、私はドアの前に立ちすくむしかなかった。まるで蛇に睨まれたカエルのように、身動きが取れない。


 お母さんはお皿を拭き終わると、コップにミルクを注いで電子レンジに入れた。


「職場で使っていないパソコンがいくつかあるから、それを貰ってきてあげるわ」

「ほ、本当!?」

「元々古い方で、役所で使っているパソコンを一新したのよ。リサイクルショップの業者さんに引き取りをお願いしたのだけれど、渡しそびれたのが倉庫にあってね、それでよければ明日持ってくるわ」


 こんなトントン拍子で話が進むなんて思わなかった。


 だけど、古い、パソコンか……。


「それって、ノートパソコン?」

「そうだけれど、ノートだといけないの?」

「う、うん……で、できれば、もっと、いいやつ」


 配信をする上で、ノートパソコンではやはりスペックが足りない。よほど良い物なら問題はないのかもしれないけど、古いノートパソコンでは、スペックに関しては期待できないだろう。


 ゲーム配信をやりながら、遅延もないようにと考えると、やはりそこそこの機能を持ったデスクトップが望ましい。


 電子レンジが鳴っても、お母さんは扉を開けない。腰に手を当てて、探るように私を睨んでいる。


「何に使うの?」

「い、いろいろ」


 配信、とは言えなかった。お母さんはゲームとかアニメとか、そういうものに疎いし、毛嫌いしている面もある。ましてやvtuberなんて、まだ世間から奇異の目で見られる存在だ。


「言えないようなことに使うなら、あげられないわね」


 お母さんはホットミルクを取り出して、ソファに腰掛けた。


 テレビのチャンネルはいつだって教育番組か報道番組で、我が家のお茶の間でバラエティが流れた瞬間なんて、大晦日くらいしかない。たまにクイズ番組は許されたくらいで、それ以外はずっとこの調子だ。


 お母さんは文句も言わないし愚痴も言わない。だけど、その冷めた目の奥に軽蔑の色が光っているのが分かる。


「は、配信、したくて」


 実際、口に出して本当に声になっているかが分からなかった。耳の中に水が入り込んだかのように世界から音が消える。ゆっくりとお母さんが振り返ったのが見えた。


「配信?」

「う、うん。実は、一年前くらいからやってて、ゲームとか配信してるの。げ、ゲームを出力するとなると、相応のスペックが必要で、だから、ふ、古いのだと、できないかも」

「顔を出しているの?」

「い、いや、vtuberっていって、イラストを、動かして、る。だから顔は出てない……」 

 

 話していて分かる。


 お母さんが、悲しんでいる。私が理解に及ばない趣味に手を出していたと知って、嘆いている。困ったような眉、距離を置くように引いた顎、言葉を選ぶために閉じられた唇。その全てが、昔から何も変わらない状態で今、突きつけられている。


「そんなものはやめなさい」

「で、でも……」

「顔も名前も知らない人たちに見られるということでしょう? 最近、ニュースでもインターネット上で知り合った人同士が、トラブルを起こして傷害事件にまで発展していると報道されていたわ」


 テレビの音量を落とすお母さんは、身体ごと向き直って、私を睨む。


「そういった事件に巻き込まれる可能性だってあるし、巻き込むことだってあるかもしれない」

「り、リスナーさんは、みんな、良い人たちだよ」

「そのリスナーさんというのは誰? 名前は? 出身地は? 年齢は? どこで何をしている人なの? 本当に信頼できる人たちなの? 中には誹謗中傷で追い込まれて……痛ましい事件になることだってあるんじゃないの?」


 それについては、否定できなかった。私は以前、誹謗中傷ほどではないけれど、他人からの評価とか、伸びない数字とかに悩まされて、自暴自棄になってしまった。あのときはこの世の全部が私の敵に見えたし、こんな自分この世に存在していても意味がないと思ってしまっていた。


 劣等感を泥水のように被る毎日は、確かに、人を絶望に追い詰めることができるほどの代物だ。


「せ、せっかくここまで続けてきたのに、今更やめるなんてできないよ」

「別に禁止しているわけじゃないわ。ただね、今はやめなさい」

「ど、どうして?」

佐凪さなぎはまだ高校生じゃない。何かトラブルを起こしたり巻き込まれたりして、責任を取れるの? 配信というものを否定するわけではないけれど、せめて自分の行動すべてに責任を負えるようになってからにしなさい」

「それって、いつ?」


 聞いただけなのに、お母さんは深くため息を吐いた。


「時間が経てば解決する問題じゃない。佐凪、ただ歳を取ることを成長とは言わないのよ。あなたはいつもそう。昔から物忘れが多いから、気をつけなさいって言っているのに、全然治らないじゃない」

「そ、そんなの今は関係ないじゃん」

「三者面談の紙だって、提出期限を過ぎてもお母さんに見せなかった」

「あ、あれは、カバンの奥から、出てきて、気付かなくて」

「期限を過ぎたのは、良くはないけれど仕方がない。だけどね、そのあと佐凪は何をしたの? ずっと知らんぷりをしていたでしょう。あのあと、お母さんね、先生に電話して、わざわざ学校に出向いて手続きをしてきたのよ」


 無意識に奥歯を噛み締めていた。


 だって私は、先送りにしていた事態が、音もなく収束したことに安堵していた。だけどそれは、私の知らない場所で、鳴っていたのだ。


「そもそもパソコンだって、そんなに必要ならアルバイトでもすればいいでしょう? どんなものにも、我慢と計画というのは付いて回るのよ。お母さんだってね、欲しいのはたくさんあるけど、先のことを考えて――」

「お母さんが欲しかったのは、胡桃みたいな出来のいい娘でしょ」


 全部上手くいくと思っていた。


 こうして真剣に向き合って、私なりの気持ちを伝えれば、お母さんだって分かってくれると思っていた。それなのに、お母さんは全然分かってくれない。


 私の毛虫を殺したあの日から、止まったままだ。私はこんなにも、進もうとしているのに。


 皿に載ったじゃがいもに、箸を突き刺す。


「……箸はきちんと使いなさい」

「話を逸らさないでよ。いっつもいっつも、お母さんはあれはダメそれもダメばっかりで、全然私のお願いを聞いてくれない」


 手が震えていた。


 怖いのと、なんだろう、この感情は。ずっと怯えて、顔色を窺っていたお母さんに立ち向かい、反抗するのは、恐怖とは少し違ったものが付随する。舌の奥からじっとりとした泡ぶくがせり上がってくる。


「正しいことを押しつけて、言い聞かせて、説教みたいに」


 お母さんはきっと、生まれてから今まで、間違いを犯したことがないのだろう。頭もよく、仕事もこなして、シワ一つない服を着こなして家に帰ってくる。そんな毎日を、淡々と、整然と続けている。


 オシャレよりも礼儀、口にする話題はいつも政治や情勢ばかり。


 だけど、そんなお母さんが唯一、人生に残した汚点。


 私はそれを知っている。それが一番、お母さんの言われたくないことだと、知っていながら。


「だ、だから……離婚なんてするんだよ」


 言ってしまったと、心の中でつぶやいた。


 お母さんは一瞬目を見開いて、テレビの電源を消した。


 私は箸をテーブルに置いて、席を立つ。


「佐凪、ご飯はどうするの」

「い、いらない」


 ダメだった。


 私の気持ちは、お母さんに届かなかった。パソコンどころか、配信するこまで否定されるとは思わなくて、ムキになった。


 なぜだか分からないけど、悔しかったのだ。私の中で唯一、今、燃えているもの。一生懸命になれるもの。やると決めたもの。


 そして、みかんさんが、応援してくれているもの。


 それを否定されたら、まるでみかんさんまで否定されているみたいに感じて、心の奥が沸騰して仕方がない。


 振り返ると、お母さんは電源の消えたテレビを、ジッと見つめていた。太ももに両手を置く、上品な姿勢のまま、固まっている。


「ご、ごめんなさい……」


 自分の言ったことが、お母さんにとってどれだけのものだったのか想像はできない。


 ただ、力なく虚空を見つめるお母さんの背中が、とても小さく見えてしまい、その原因が私にあるという事実が、この喉を鳴らしたのだ。


 お母さんは返事をしなかった。


 私は部屋に戻り、深夜一時頃になってから、リビングに降りて、冷蔵庫からご飯を出した。レンジで温めて口にすると、なぜだか涙が出そうになる。


 いつも時間というものに追われて、言葉を失うのに。


 言葉だけが先行して、気持ちが追いつかなかった。


 こんなことは初めてだ。


 友達やクラスメイト、リスナーさんとは違う。


 親への言葉というのは、どうしてこんなにも、軽薄で、先細るのだろう。

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