第2話 害虫とギャル

 昔から毛虫が好きだった。

 

 うねうねした動きが好きで、一生懸命動かしている足が可愛くて、時折寂しそうに頭をあげて辺りを見渡すところが愛らしい。触るとぷにぷにしていて、びっしりと生えた毛はもふもふしていて、なんだかタワシみたい。指を近づけると足をちょこちょこ動かして、おっかなびっくり乗ってくれる。


 こんな可愛い虫がいるなんて! 初めて見たときはものすごい感動だった。


 小学校の中庭に毛虫がたくさんいたので、私は家へと持ち帰って部屋に住まわせていた。


 毎日のように校庭から毛虫を家へと持って帰っていたけど、十匹ほど部屋に這わせていたあたりで、お母さんに見つかってしまった。


 クラスの子がこっそり猫を飼っていたら、親に見つかって逃がされたという話をしていたのを覚えていたので、きっとこの毛虫たちも逃がされちゃうんだろうなと思っていた。


 だけど、お母さんは逃がそうとはせず、私の目の前で毛虫たちを殺しはじめた。血相を変えて殺虫スプレーをまき散らすお母さんは、私の知っている優しいお母さんではなかった。


 動かなくなった毛虫をかき集めて、私は泣き叫んだ。だけど、今でも覚えている。


 あのとき、一番悲しそうな顔をしていたのは、お母さんだった。


 その後知ったのだけど、あの毛虫はアメリカシロヒトリという蛾の幼虫らしい。


 日本で初めて発見されたのは1945年で、以降は害虫として扱われている。


 世界に馴染めないその生態も、ヒトリという名前も、なんだか私に似ていて親近感を覚えた。


「蝶だったらよかったのかな」


 ぼそっと、寝起きの頭で答えに辿り着く。


 なんで今、昔のことなんか思い出したんだろう。


「お姉ちゃん、朝ご飯食べないのー?」


 ドアの向こうから胡桃くるみの声がして、私はのっそりとベッドから起き上がった。


 リビングに降りると、エッグトーストと、たまごスープがテーブルの上で湯気を立てていた。


「おはよう佐凪さなぎ。ご飯の前に顔洗ってらっしゃい、ひどい顔よ」


 新聞を読んでいたお母さんから声をかけられて、私はビクッと肩を震わせた。


「お」


 はよう、まで出かかって、俯いたまま洗面所に向かう。口元に、よだれの痕がついていた。


「新しいクラスはどう?」


 お母さんの着ているスーツはシワどころか、糸ぼこり一つなく、いかにも仕事ができそうな風貌だ。そんなお母さんは、近くの市役所で働いている。


 なんとなく、そんなお母さんの顔を見ることができずに私は首を斜めに振った。


「まだまだこれからだって。友達って、数より質だしね」


 胡桃が助け船を出してくれる。


 お母さんも納得した様子だったので、私もホッと息を吐いて朝食に手を付けた。


「それじゃあ、行ってきまーす」


 胡桃は私の通う光陽高校の新入生だ。今日から私と一緒に登校する。


 玄関まで見送りに来ていたお母さんは「車に気をつけなさいね」と言って、私を見た。


 その目は、また私が毛虫を持ってくるんじゃないかと、監視しているような目でもあった。けど、どこか怯えているようでもあって、私は申し訳なさに押し潰されそうになりながら、俯いたまま通学路を歩きはじめた。


「わたしが入学したっていうのに、お母さんったら昨日からお姉ちゃんの話ばっかりしてるんだよ? 友達できてるかーとか、いじめられたりしてないかーとか」

「い、いじめなんかされてないよ……そもそも、眼中にないだろうし」

「……お母さんのこと、苦手なのは分かるけどさ。お姉ちゃんのこと心配なんだよ」


 フォローするように、胡桃がぼそっと呟く。


 私だって、お母さんのことが嫌いなわけじゃない。


 だって、私が今も大好きなあのゲームを買ってくれたのは、お母さんだ。 


 お母さんは昔からすごくマジメな人だったみたいで、アニメとか、漫画とか、ゲームとかの文化に疎い。だからテレビでオタク向けの番組がやっていると、いつも眉間にシワを寄せている。


 そんなお母さんが、誕生日だからとはいえ私にゲームを買ってくれるなんて、今考えても奇跡としか思えない。


 当時流行っていた魔法少女のアニメのゲームが出ていて、これが欲しいと言うと、お母さんは黙ってそれをレジに持って行ってくれた。


 アメリカシロヒトリを家で飼えなかったあの日から、私の好きなものはこの世界から外れているのだと思っていた。


 だけど、お母さんが私にゲームを買ってくれたその日。


 初めて私は、誰かに許された気がしたんだ。


 その日以降、私は毎日そのゲームをプレイしている。


 そもそも作品自体が好きというのもあるけど、なにより。


 お母さんが、世界が、初めて許してくれた私の『好き』に、浸っていたいのだ。


 いつしか私の人生は、誰かに許されることが目的となっていた。


「それじゃあねお姉ちゃん。放課後はどうする? 一緒に帰る?」

「う、うん。帰ろ」


 私が頷くと、胡桃はちょっとだけ嬉しそうな顔をして一年生の教室に向かっていった。


 私も自分の教室に入る。


「あ、おはよう村崎むらさきさん! 昨日は大丈夫だった?」


 ドアを開けて入った瞬間、クラスメイトが話しかけてくる。名前はまだ、分からない。


「急に走って行っちゃったから、何か用事でもあったのかなって思って。ムリに誘っちゃってごめんね」


 なんで謝るんだろう。私が悪いのに。でも、用事は、なかったわけじゃないし。


 頭の中でぐるぐる、言葉を探す。


 そうしている間に、そのクラスメイトはニコッと笑って友達の元へと駆けていった。


 私は深く息を吐いて、自分の席に座る。


「ぎゃあ!」


 その瞬間、椅子が傾いて、思わず大きな声をあげてしまった。バランスをとるために足をあげた拍子に、隣の机にかけられたカバンを思い切り蹴ってしまう。


 や、やっちゃった。


 こ、こういうときは謝らなきゃ……。


「ご、ごめんなさい」


 ふと、隣の席に座っている人の顔を見る。


 そして私は、ギョッとした。


 クリームのような色の髪。散りばめられた星みたいに光るまつ毛。エメラルドグリーンの長い爪。白い肌に浮かぶ赤い頬と唇。耳にぶら下がる星形のピアス。


「ひ、ひえ……」


 ぎゃ、ギャルだ。


 絶対ギャル。だって、そういう格好と、そういうメイクをしている。ギャルであることを証明するかのように、着飾った、派手な女の子。


 私とは、正反対の存在。  


 私がペンギンだとしたら、ギャルはライオン。いや、住んでる場所が違うか。うん、住んでる場所が違う。


 そんな人のカバンを、私は思い切り蹴ってしまったのだ。


 こ、殺される……!


 なんとか命乞いを……と思って言い訳を考える。


 だけど、彼女が眺めていたスマホの画面を見て、それまで考えていた命乞いのセリフが全部すっ飛んでいった。


「え、そ、それ」


 わ、私の配信アーカイブだ。


 な、なんで!?


「ん? あー、ごめん! イヤホン付けてて聞こえなかった。なんて?」


 彼女は私の存在に気付いて、顔をあげる。


 真正面から見合うとより一層、彼女の顔の造形が際立つ。


 き、キラキラしてる……モデルさんみたい……。


「そ、それ」

「あ、これ? あたしの好きなvtuberさんの配信アーカイブ見返してるんだー。村崎さんはvtuberとか知ってる?」


 コクコクと頷くと、嬉しかったのか「ほんと!? うわー、ねぇねぇ好きなライバーさん誰? 箱推しだったりする?」と興奮気味に喋りながら顔を寄せてくる。


 ち、近い……!


 しかも、なんかいい匂いがする。


「あたしの推しはね、雨白あめしろさんっていうの。個人勢の人なんだけどね、毎日四時間くらい配信してくれるんだけど、なんていうかね、配信の空気がすごく独特で、黙々とゲームをしてるだけなんだけどたまに嬉しそうな息遣いとか、ストーリーパートで聞こえてくるすすり泣く音とか、すごく、素のままで配信してるんだなーって感じがして。なんだかこっちまで、好きなものを好きなようにって思えちゃうんだ。そういうところが好きなの」

「あ、雨白」


 聞き覚えのある名前、どころの話じゃない。だってそれは、vtuberとしての私の名前だ。


「しかも! 一年前からずっと同じゲームしかしてないの! そのゲームも八年くらい前に発売したやつでさー、それなのにずっとやってるんだよ? ほんとに好きなんだなーって、なんか感動しちゃって。その人、結構寡黙なんだけど、たまーに喋ってくれるの。その声がまた可愛くて、一生懸命伝えようとしてくれてる感じが伝わってくるっていうかね! 初めて声聞いたときは、え! 喋るんだ! と思ったし、その声の可愛さに撃ち抜かれたなぁ」


 教室の中に人が集まり始めているというのに、彼女は構わず話し続ける。


「でね! そんな雨白さんが、昨日あたしのコメントに返事をしてくれたの! 初めてだよこんなこと。あたし、嬉しくってさー! 思わず泣いちゃって、昨日は全然眠れなくって、それで今朝も見返してたんだ。はー、何回聞いても泣きそうになっちゃうよ。あたしの人生の宝すぎる……!」


 き、昨日……?


 コメントに返事って、もしかして。


「って、ごめん。喋りまくっちゃった。えーっと、あ、そっか、村崎さん昨日の親睦会いなかったから」


 彼女は、私なんかじゃ到底作れないようなキラキラとした表情で笑った。


「そんじゃ改めまして、あたし柚木ゆずきみかん! よろしくね、村崎さん!」


 ど、どうしよう。


 隣の席のギャルが。


 私のことめちゃくちゃ推してるんですけど……!

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