フィルム
落差
ラストシーン
「アイスコーヒー二つで、お願いします」
これが、私たちの「映画感想会」の始まりの合図。同じ店、同じ席、同じ飲み物で。といっても、そんなかしこまったものではないけれど。
正面に座る高校二年生の男、通称マナベ。私の一個下である彼は、私の彼氏となって一年たった今でも、会話の主導権を握ることはそうそうない。
「ま、案の定面白くはなかったね」
頬杖をつきながら呟く。マナベの表情はどことなく暗い。私はそれに、気がついていないふりをする。
「二回目だからあんまり話すことないけど、本当に終わりよければすべてよしなんだとわかる映画だよね」
「どうして、」
マナベがやっと口を開く、と思いきやまたすぐ閉じてしまう。私は意味ありげにマナベを見上げる。
わかっている。今日見た映画は、私たちが付き合ってから初めて見た映画と同じもの。
でもさ、マナベ。本当はどうしてなのか、わかってるでしょ。
マナベが息を吸って、吐く。
「いや、やっぱなんでもない。俺は好きだよ、今日の映画」
「まーね、マナベ好きそう。途中途中はおもろいとこ結構あるし」
「あそこ好き、滑り台滑るとこ」
「それはめっちゃわかる。あそこ風景の使い方まじでうますぎる」
「お待たせしました、アイスコーヒーお二つです」
「あ、ありがとうございます」
マナベはぺこりと頭だけ下げる。この仕草ももう飽きるほど見たな、と思う。そんでもってやっぱ好きだなー、とも思う。
マナベはいつもアイスコーヒーにガムシロップを入れる。付き合いたての頃はいっつも開けるときにちょっとこぼして、学べよマナベ、って笑った。
もうこぼすこともないくらい、たくさん来て、たくさん開けて、たくさん話した。
「学んだなマナベ」
ふふふ、とマナベが笑う。
しばらく話すと映画の話は本当に尽きてきて、内容薄めの話をダラダラ話す時間になる。これもまた楽しいのだけれど。
「マナベ、同い年の友達いんの?」
「流石にいるよ、俺のこと舐めてる?」
「あらそう、でもどーせ同じクラスだけでしょ」
「…そりゃま、チサセンには敵わないけど」
マナベは私のことをチサセンと呼ぶ。付き合う前までの「ちさ先輩」は距離ありそうだから嫌、と言った私に、呼び捨ては無理だからひとまず「チサセン」で、と言ったマナベ。何それ、と笑ったけど、マナベらしくて今では気に入っている。
「高三でも同じクラスになれると良いね、仲良い子たちと」
「…うん」
マナベの返答が遅くて、私はやらかしたことに気がつく。自責の念が生まれる。
しまった。
これからの話を、してしまった。
もとより今日の本題ではあったけど、だからといって、触れにくさは変わらず存在する。
触れたくなさが、存在する。
「…私、大学生になるよ」
「…うん」
「東京に行くよ」
「…」
黙らないでよ。
喧嘩も割と多かった。理由はいつも、自己主張が弱めなマナベに私がイラついてしまうこと。マナベは、大事なときであればあるほど、唇が重たくなる。言葉を選んでいることはわかるけど、言いたいこと言ってよ、と思ってしまう。
それでも結局、マナベが好き。
でも、
「会えないよ」
学生である私たちには、実際の距離はすぐ心の距離になる。
だから、言わなきゃいけない。
重たくて、ドロドロして、これからずっと取れない汚れになる前に。
年上の私が、言わなきゃいけない。
意思に反して、口は頑なに動いてくれない。
「チサセン」
マナベは私を見ない。私も、マナベを見れない。
「…無理なの、かな」
アイスコーヒーの結露の水が、机の上に溜まりだす。
「そうだね」
ほとんど溶けた氷みたいに、声が空気と同化しかける。
「…マな」
「チサセン」
マナベが声を張る。驚いてマナベに目を向ける。
マナベは今にも泣きそうだけど、泣いてなかった。泣かずに、まっすぐ私を見ていた。
だから、私もギリギリを耐えていた目尻を拭って、まっすぐマナベを見る。
「うん」
「俺たちさ」
「…」
「別れよう」
「…うん」
机上の結露の水たまりの横に、水たまりが並ぶ。
鼻をすする音がやけに響いて聞こえる。
二人で無言で泣いているのがなんだか変で、気持ちはぐちゃぐちゃのまま、少しだけ笑い声を上げる。
「マナベの泣き顔っていつ見てもブサイク」
もう見れないけど。
「チサセンは目の充血治るの本当遅いよね」
もう君の前で泣かないけど。
「マナベ」
「?」
「言ってくれてありがとう」
「…終わりよければすべてよし、になったかな」
そう言ってくしゃっと笑うマナベに触れたくて、でも触れてはいけなくて、もう私のものではなくて、それがこんなにももどかしくて嫌だ。
「ずっと、ずっーと、今まで観たどんな映画にも負けない一年だったよ」
「…うん」
「大好きだったよ」
「俺も大好きだったよ」
二人して誤魔化しあう。本当の気持ちは、涙に乗せて流した。
もう本当に、お別れ。
「ありがとう」
手を差し出す。別にこんなの一回もしたことないけど、こんくらいしか区切らせ方が思い浮かばなかった。
マナベとしっかりと握手する。ゴツゴツとしたこの手も、もう触れない。
「じゃあ」
「うん」
できるだけ後を引かないように手を離した。
荷物をまとめて立ち上がる。幾度となく座ってきた席を見つめなおしてみる。
今まで巻かれたどのフィルムよりも、拙くて美しいフィルムがあった。窓から入った光に反射してキラキラと光る。
椅子を押して、机の下に入れる。
この椅子を引くことは、もうない。
フィルム 落差 @rakusa
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