狭間の章1
大軍の余裕
サウスキア辺境伯領を囲む険しい山脈。それを遠くに望むとある街で、イズミア軍約2万の軍勢が束の間の休息をとっている。
軍勢の中心に作られた簡素なテント内では、十数人の部下たちを従えたイズミア伯ムスタフが、サウスキアを滅亡させるための軍議を開いていた。
そんな彼のもとに、引き攣った表情の使者がやってくる。
「ミンリー様がご帰還なされました」
「ふむ、そうかそうか、すぐに通してやってくれ」
本来ミンリーは先行部隊としてヤーウッドを襲撃、サウスキア軍を混乱させ、ヤーウッドにてイズミア軍本隊と合流する予定のはずだ。
予定外のミンリーの帰還に、軍議に参加するイズミアの将軍たちは使者と同じく表情を引き攣らせる。
だがムスタフは余裕のある表情を変えることはなかった。
しばらくして、ムスタフたちの前に汚れた鎧姿のミンリーが現れる。彼女は使者以上に引き攣った死人のような表情を浮かべ、崩れ落ちるようにひざまずいた。
対してムスタフは、普段通りに口を開く。
「ミンリーよ、ご苦労。して、何かあったか?」
尋ねられ、ミンリーは忠実に、しかし力なく答えた。
「……先行部隊、ライナー率いるサウスキア軍の反撃に遭い敗北しました」
素直で簡素な答えだ。
この簡素な答えひとつに、イズミア軍の将軍たちは一様に大きな衝撃を受ける。
「なんだと!?」
「ウソではないのか!?」
あり得ない、信じられない。けれどもミンリーの報告は事実。
困惑は悔しさへ。悔しさは怒りへ。怒りは軽蔑へ。将軍たちは肩を落とし、ひざまずくミンリーに白い目を向けた。
「あれだけ優位な戦に負けるとは……指揮官は戦の素人であったのだろうかな」
「ムスタフ様の期待を裏切る結果。よくもムスタフ様の前に生きて立てるものだ」
「所詮はエリートの小娘であったか」
堂々と投げつけられる嫌味に、ミンリーは唇を強く噛んだ。
いつもならば、ミンリーは将軍たちに数十倍の毒気に満ちた嫌味を返していただろう。だが、今は目前にムスタフがいる。
ムスタフへの忠誠心を示すため、ミンリーはひざまずいたまま声を張り上げた。
「申し訳ございませんでした! 私は……私は、今回の敗戦でムスタフ様の名声に傷をつけてしまった! 私の身がどうなろうと構いませんが、ムスタフ様の名声に傷をつけたとなれば、これは許されざる罪! 私は大罪を犯してしまった!」
本心からの言葉とはいえ、少々わざとらしくらいの謝罪だ。
ゆえに将軍たちの嫌味は強まるばかり。
「ならば敗戦時に命を散らせればよかったであろう。おめおめ帰ってきておいて、何を言う」
「まったくですな。これだから口先ばかりのエリートは」
有象無象の嫌味など、ミンリーの耳には届かない。彼女はただひたすらに、ムスタフだけに謝罪する。
「たとえ死罪であろうと、受け入れる覚悟はできています! 大罪人である私に――」
「サウスキアへの道、雄大な景色ばかりであったろう」
「……は?」
のんきなムスタフの言葉に、ミンリーは思わず呆けてしまった。
ムスタフは気にすることなく、朗らかな口調で〝雑談〟を続ける。
「あれは、そうじゃな、ノーラン様にイズミア伯を与えられる前のことじゃな。人使いの荒いノーラン様に言いつけられて、わしはノーラン様とグランツの間を何度も行き来した。その度に、わしはサウスキアへと続くあの雄大な景色を眺めておったのじゃ」
懐かしい過去に想いを馳せ、ムスタフは目つきを鋭くした。
「いい景色であっただろう! わしはあの景色が好きじゃ! まるでわしらの前にそびえ立つ壁のよう! それも、わしらが乗り越えなければならぬ壁! 乗り越えるのは大変じゃろうが、乗り越えた先に新たな世界が広がっている! そう思わせてくれる景色じゃ!」
敗北の報告など微塵も気にしない、豪快な声がテントに響き渡った。
将軍たちは悟る。ムスタフにとって局地的な敗北など、〝雑談〟のネタでしかないのだ。
大軍を率いる人間は、この程度では動じない。
ゆえにムスタフは、〝雑談〟の延長線上で言い放つ。
「ミンリーよ、お主は小石につまずいたようだが、気にするでない。本番はこれからじゃ。わし自らが率いる2万の兵、そして諸侯の兵を集めた大軍ならば、あの雄大な景色をいとも容易く越えられよう」
あまりにあっさりとした余裕の言葉だ。
ポカンとしたミンリーは思わず聞き返してしまう。
「……では、私への罰は?」
「なしじゃ。小石につつまずいた者をいちいち処罰していれば、この世に将軍など一人もいなくなってしまうからの。どうしても罪の償いがしたいというなら、次の戦で活躍せよ。それで充分じゃ」
余裕に満ちた笑みと、迫力のある口調。
ミンリーは震え上がり、感謝と恐怖と敬愛の気持ちに溺れ、その場で頭を下げ続ける。
あれほどミンリーに嫌味をぶつけていた将軍たちも、ムスタフの余裕に呑まれ、敗北のことなど忘れてしまっていた。
たった一度の敗北など気にせずとも訪れる勝利が、目の前に待ち構えている。ムスタフの余裕が、将軍たちにそんな想いを抱かせたのだ。
そうやって敗北での士気低下と軍の動揺を回避したムスタフは、仕上げとして口を開く。
「ヤツらの抵抗など、所詮は小手先。まもなく集まるであろう諸侯の軍勢を加えれば、わしらとサウスキアの戦力差は圧倒的じゃ。途中で捕らえたウーゴ=チュニらグランツの残党も、命を助ける代わりにわしらの軍に加えてやろう。もはや逆賊どもに勝ち目はない」
そしてムスタフは不敵に笑う。
「逆賊の領主め、今頃は大喜びしておるのだろうが、ぬか喜びよ。足掻けるだけ足掻き、わしの天下の糧となるが良い」
イズミアの軍勢は、壁を乗り越え新たな世界を切り開くため、奇跡を踏み潰すため、サウスキアへの攻勢を続けるのだった。
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