第12話:瑠璃猫の秘密

 かたかた、ことこと——。

 壱吉は、暗転していた視界の中で、突如聞こえた音に意識を取り戻した。そして瞼を開けると、見慣れた天井が視界に飛び込んできた。


 今は朝方だろうか。斜めから差す陽光が、少々眩しさを覚える。視界を良好になってくるにつれて、環境音も聞こえ出した。


 かたかた、ことこと、がちゃん!あ、手滑らせちまった。かたかた。辰風。粗暴。かたかた。


 聞き慣れた我が家の器を扱う音だ。途中、不穏な音も聞こえたが、同時に知っている人の名前も聞こえた。


 初対面だが、心強くもあり、懐かしくもある名前だ。


「…辰風さんと瑠璃猫さん?」


 壱吉は、眠気眼で音源に向かって身体を起そうとした時に、腹部から走る疼痛に思わずうめき声を出す。全身を駆け巡るような痛みだった。そして同時に、芯から燃えるような熱さすら感じていた。


「おー。やっと目覚ましたか」


 壱吉の呻き声に気付いたように、奥から声が投げ掛けられる。そして両の袖を捲り、家事に勤しんでいる様子の辰風が顔を出した。晒された両腕は筋肉質で逞しく、思わず眼を逸らしたくなるほどの古傷ばかりだった。

 

 そして手には、先程割れたばかりであろう茶碗を持ったまま、


「まだ身体は動かさない方が良いぜ。何せ2日間ずっと寝込んでいたんだからな。家事ならご覧の通りだ。心配すんな」


 …割れた茶碗に発語機能があれば、鋭い突っ込みが飛んできそうな状況である。


「辰風…家事。下手」


 すると辰風の後方から、一回り小柄な瑠璃猫が顔を覗かせた。辰風同様に、家事をしやすいように袖を捲り、足首まで伸ばしていた髪の毛を束ねるように頭巾を装着している。


 頭部には猫を想起させる愛らしい耳が付属されており、彼女の持参による物と思われた。


 鉤爪を装備した手甲といい、猫耳を付けた頭巾といい、細部に彼女なりのこだわりを感じられずにはいられない。しかしそんな年頃の少女らしい一面に反して、変わらず生気乏しく振舞う様相は、何度見ても不気味なものである。


 だが、壱吉にとって、彼女の最も不可解な点を挙げるとするならば、


「首の傷…」


 壱吉は、寝たままの状態で言葉を漏らした。

 頭巾の装着により、彼女の細く白い首がすべて露呈している。辰風の言う通り、2日間寝込んだというならば、彼女が氷川暁に頸部を斬り付けられた事実も僅か2日前の出来事ということである。


 しかし辰風の全身に散ばった古傷とは異なり、何も形跡がみられない。何事もなかったかのように、美しい肌だった。


「…瑠璃猫のことが、随分と不思議そうだな」


 虚ろではあるが、訝しそうな眼差しで見つめる壱吉に、辰風はふぅと一呼吸置く。そして壱吉の枕元で胡座あぐらを掻くと、瑠璃猫を手招きした。彼女もまた緩やかな足取りで近づくと、壱吉の枕元で正座をする。


 そして手に持っていた割れた茶碗を床に置いて、


「事実を見ておいて、隠す道理はねぇ。況してや、自分自身の怨敵が、氷川暁と分かったんだ。気になることも山ほどあるだろう」


 壱吉は逡巡した様子だったが、小さく頷いた。辰風は「まず瑠璃猫についてだが」と言葉を紡ぎ出す。


「瑠璃猫が戦闘において、死ぬことはない。いや…と言った方が正しいかな」


「し、死ねない…!?」


 思わず声が跳ね上がり、腹部に痛みが走った。苦虫を噛んだ表情をすると「落ち着きな」と諭された。


「そう声を荒げるな。腹に響いちまうぞ」


「痛たた…す、すみません。どうぞ続けてください」


 力が籠ると額から汗が流れ出す。横になったまま、布団の中で腹部を摩っていると、瑠璃猫が額の汗を拭い出した。

 感情の伴わない無機質な印象の彼女だが、時折人間らしさを感じる。それが意識的な行動なのか定かではないが、彼女が持つ優しさであることには変わりない。同じ年頃の少女の何気ない優しさに、僅かに紅潮した。


 そんな壱吉の様子を見ながら、辰風は言葉を続ける。


「瑠璃猫の首は、あの時確かに斬られた。常人なら、とっくに失血死するほど深々とな。それは、異形たちと戦っている最中、俺も見ている」


 壱吉の脳裏に、噴水のように噴き出す血飛沫の光景が去来する。そしてそのまま糸が切れた人形のように、ぐったりと地面に倒れた光景まで、思い出していた。


「だが、それでも瑠璃猫が、戦闘中に死ぬことは決してない。なぜなら、瞬時に傷口が再生しまうんだよ」


 瞬時に傷口が再生してしまう——辰風が当然のように口にした言葉は、日常的な表現とは言い難い。しかし現実的に、氷川暁との剣戟後、すぐに傷は塞がって峻烈な回し蹴りを彼女に与えたのだがら、事実と頷く以外に他はないだろう。


 壱吉にとって、それはにわかには信じ難い。しかし人外へ変貌した11人のはなもどきや、首が折れて垂れ下がった状態で会話する氷川暁など、非現実な光景を繰り返してみていれば、瑠璃猫の再生能力はあり得ると思える。


「再生かぁ…」


 壱吉は、深手を深手を負った腹部を摩りながら、少し羨ましいと思った。しかし瞬時に傷口が再生するということは、利点にも思える。だが辰風は、という悲観的な表現を使うことから、何かしらの不都合が垣間見れた。


「傷口が、すぐに再生するって良いことなんじゃないですか?現に僕は今、その能力が欲しかったり…ははは」


 場を和ませるような軽い冗談のつもりであったが、辰風の表情に翳りが浮かぶ。


「いや…こう言っちゃなんだが、辞めておいた方が良いぜ。傷口が再生すると言えば確かに聞こえは良いが、何事にも良い点と悪い点は、表裏一体だ」


 そして彼は、若干憂いのある瞳で、瑠璃猫を見つめると、


「再生ってのは、言わばだ。本来ならば瘡蓋かさぶたとなって、傷口をゆっくりと修復させていくものだが、瑠璃猫に関してはそれらの過程を飛ばして、瞬時に細胞を再構築してしまうんだ。そして人間の細胞分裂の回数は、生涯で回数は決まっているという。つまり——」


 辰風の拳に、ぎゅっと力が籠る。


「——つまり、急速な細胞分裂による肉体の再生は、寿命を縮めることに等しいんだよ」


 彼が語る神妙な口調に、事の重大さが孕んでいるようだった。

 

 ヘイフリックの限界——という言葉がある。

 これは生物学的にヒトの寿命は、120歳までしか生きられないという説である。これを限界とする理由として、身体の細胞分裂および増殖の回数制限が挙げられる。


 胎児から採取した細胞分裂の限界は、約50回である。つまりこの回数を寿命に換算すると120年になり、細胞分裂と寿命は密接な関係性であると言えるのだ。


 人間は、怪我や病気をすることなく過ごすことが出来れば、本来ならば120歳まで生きることが出来る。だが、瑠璃猫のように、斬首されても何事もなかったと見紛うほどの人智を越えた再生能力は、大幅な寿命の削減に通ずるということになるのだ。


「そして瑠璃猫の再生能力は、肉体、臓器だけではなく頭髪の1本まで即座に対応することが出来る。かすり傷だけでなく、髪が切れるだけでも、急速に寿命を縮めることに繋がるんだよ」


 だからこそ特徴的な長髪なのか、と壱吉は心の中で納得をした。足首まで伸びるほどの長髪は、日常生活にも支障を来たしそうだが、散髪することが出来ない理由が理解出来た。


「瑠璃猫の再生能力は、もはや呪いと断言してしまっても良い。だから俺は、再生能力が生じないように、戦闘の一切に関わらせないようにしていたんだが…な。だが、困ったことにこいつは、見た目に反して好戦的でな。ったく、さすが兄弟だ。嫌な部分が似ちまったもんだぜ」


 辰風は、鋭い眼光で彼女を睨んだが、相変わらず遠い視線で壱吉を見つめたまま佇んでいた。


 屈強な体付きの辰風に反して、線の細い瑠璃猫が隣同士で座ると、兄弟であることが俄かには信じ難い。しかし血筋には、逆らえないといった所だろう。確かに氷川暁との一戦では、辰風に負けず劣らず加速的な攻防をみせていた。


 好戦的な様子は、まるで鏡に映る自分を突き付けられているような感覚なのか、辰風は、やや辟易した様子で、


「さらにたちが悪いのが、この再生能力を駆使して不意打ちを得意としている所なんだよ」


「不意打ちが得意、ということは…?」


「言葉通りの意味だ。瑠璃猫は、わざと氷川暁に首を斬らせて、油断させた所に一撃を喰らわせたんだよ。肉を切らせて骨を断つ――って奴だ」


 辰風は「そうだろ?」と瑠璃猫に声を掛けると、彼女は小さく頷いて反応をした。確かに暁を蹴り飛ばした時に「不意打ち。成功」と呟いていたが…。それは、あまりにも自身の生命を没却ぼっきゃくした戦い方のようにも思える。


 だが、前提としてそんな無謀な戦い方が出来る再生能力が備わっている点が、すでに不可解である。


 同じ兄弟でも、辰風は生傷が絶えない状態であり、片や瑠璃猫は瘡蓋の1つも見当たらない。つまり再生能力は、妹である瑠璃猫の固有の能力ということである。


「…薄々気付いているんじゃないか?」


 辰風は、そんな壱吉に対して、言葉を投げ掛ける。

 再生能力が、人智を越えた力という枠組みに当てはまるならば…もはや考える余地もない。


 望月堂山の右腕。

 黒光りの人外へ変貌する11人。

 頸部が折れた状態で会話する氷川暁。


 それらすべてが、瑠璃猫の再生能力同様に、人智を越えただと言うならば——。


「…考えている通りだよ」


 壱吉の脳裏に過った言葉を後押しするように、辰風が言葉を添える。


「再生は、言わずもがな人外の能力だ。人外と言えば、はなだ。つまり瑠璃猫は——はなの能力を持った人間でもあるということだ」


 瑠璃猫は、彼の言葉に対して、感情を揺さぶることなく、じっと深紅の瞳で壱吉を見つめていた。

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