【第2章】鉄鋼黒蟻が流した涙の行方を誰も知らない
第1話:退屈な日々
人間は、何かしらの苦難を背負って生きている。
残念ながら一切の難を持たない者など、この世に存在しないだろう。
愛する者を守れなかった者。
努力虚しく夢破れた者。
道半ばで想いを託して果てた者…全て列挙していけば際限がないほどだ。
酷なことを言うが、現世を一切の後悔なく、天寿を全した者は居ないだろう。
苦難とは、人の数だけ存在する。つまり我々、生きとし生ける物の数だけ叶えられなかった想いが存在するのである——。
こんな話の後だが、一つ問いたい。
もしも現世で
願いを掴み取るだろうか?
それがたとえ、人間を捨てなければならないと理解していても————…。
はてさて…本日の一幕に現れたる
業火の奥底で佇む
愛情か?
殺意か?
それとも——。
◇◆◇◆
鉄鋼黒蟻が流した涙の行方を誰も知らない
◇◆◇◆
この世には、逆らうことの出来ない絶対的な服従が存在する。
それは、一概に権力によって得られるものだけとは限らない。時には、暴力で成り立つ服従も存在している。
…
しかし人は、圧倒的な力の前では無力に等しい。仮にそれが人知を超えた異形による力であれば、もはや抵抗する気力すら削がれてしまうだろう。
しかしそれは、異形というものが、この世に実際に存在していれば——の話であるが…。
「望月様が通られる!虫共、道を開けろ!」
冬は過ぎ去り、春の陽気が辺りを暖める季節。三ツ
そんな昼下がりの午後――沖天に上った太陽を背に、腕に刺青を彫った若い男たちの怒号が、空を突いた。すると辺りには緊張感が走り、季節に似合わない寒気を孕んだ汗が、じわりと額から垂れだしていた。
三ツ上村の中央には、辺鄙な殺風景に紛れて、立派な城が建てられていた。
その城下へと続く橋の上には、半裸に金色の刺繍を施した派手な
しかしその光景は、異様と表さずにはいられない。
何故ならば列の両端では、老若男女を問わず、列が過ぎ去るまで正座をして待機をさせられているからである。正座をする者の中には、状況を理解し難い幼児も含まれていた。
かたん、かたん。
半裸に、金色の襦袢を羽織っただけの男は、高下駄の軽快な音が鳴らしながら、両端の正座の行列を
そして、ひどく冷めた視線を送りながら、
「何か、
首を傾げて、大きな溜息を吐きながら、青空を見上げた。その表情は、ひどくつまらそうに曇っていた。
彼の名は——
この混沌の中心を闊歩する彼は、今年48歳となる。年齢に反比例して、派手な金色の襦袢から覗かせる褐色の上半身は、無駄な贅肉が無く、引き締まっていた。
さらに年齢を感じさせない風格の一つに、六尺(約180cm)の身長も影響をしている。雑踏の若者よりも屈強な肉体と、身長の高さも相まって、六尺以上の威圧感を放っていた。
そんな一言を
「ん?急に呼んでどうした。
堂山は、暁と呼ぶ女性へ、言葉を投げた。女性は、凛とした視線を送りながらも不可思議な表情で、
「いえ。ひどくつまらそうな表情をしていましたので」
「…そりゃそうだ。実際つまんねぇからな」
暁と呼ばれた女性は、堂山の発言に言及することなく「左様ですか」と軽く返す。その返しに「それだけかよ」と笑いながら答えるところに、2人の関係性が合間見えた。
彼女の名は——
凛とした佇まいの彼女は、今年24歳になる。しかしその芯の通った姿は、年齢以上の落ち着きようを感じさせていた。
全身を紫一色で統一した装束を纏っていることも、彼女の大人びた雰囲気を乗算しているかもしれない。下半身は、脚絆を身に着けて、動きやすさを重視しているようだった。
しかしその良い点も、たった1点の違和感で覆る。
彼女には、右腕が無いのである。右肩から先に腕はなく、右側には袖が無かった。物騒な違和感が彼女の凛とした雰囲気に、翳りを含ませていた。
暁は、1本に束ねて腰まで伸ばした黒髪を揺らしながら、
「望月様。一体何がご不満です?あなたほどの富と権力を持ち合わせていながら、これ以上を望んでは天罰が下りますよ」
「富と権力以外にも、こんな美人な妻も居るしな。はっはっは!」
暁は眉根1つ動かすことなく、堂山を見つめていた。そんな冷めた暁に対して堂山は、慣れた様子で、すぐに話題を切り返す。
「…と、まぁ冗談はさておき。富や権力など、持ち過ぎる人生もつまらねぇってことだ。誰も俺に逆らってこねぇからな」
堂山は、村長である。
だが現在のように民草に土下座をさせて、中心を闊歩する光景からも良い
しかし誰も彼に対して反抗はしなかった。いや出来ないと断言した方が正しいだろうか。
権力者という立場もそうだが、一番の理由は——隣で不敵に笑う暁がよく知っている。
「ふふ。誰も逆らいません。それに逆らいたくても、その気力すら削ぎ落とします」
暁は表情に影を含ませて、小さく笑う。そして残された左腕で、堂山の右腕の袖を
袖の下からは、包帯に巻かれただけの右腕があった。外見からは何も変哲のない、ただの包帯だ。
しかし暁は、左手で包帯を摩りながら、
「この右腕には、誰も勝てませんよ。この右腕には……ね」
堂山の包帯に巻かれた右腕を摩りながら、暁は視線を見上げた。その視線には、どこか狂信者にも似た邪悪な盲信が息を潜ませていた。
「くくく…」
「ふふふ…」
2人は見つめ合いながら、狂気の渦中で笑う。その微笑みは、両端で土下座する民草にも伝わっていて、嫌な汗が滝のように噴き出していた。
望月堂山の右腕——。
その右腕を見たことのある者は、より深々と頭を下げてみせた。脳裏にこびり付く記憶が、より一層土下座を深くさせていた。
しかしその狂気の渦中の最中。2人の後ろを闊歩する刺青の若い男衆から「ぐぁ」と叫ぶ声が響いた。堂山と暁が振り向くと、血を噴き出しながら卒倒する男衆の光景が見えた。
「望月の兄貴、氷川の姐さん!お逃げ下さ……うっ!」
男衆の断末魔の奥へ視線を動かすと、笠を深く被り表情を悟られないようにした1名の刺客が日本刀の銀の煌めきが輝いていた。この日のために幾重にも研いだのだろう。その光沢を放つ切っ先には、鮮血が生々しく流れていた。
「ふーっ!ふーっ!ふーっ!」
刺客の背丈は小柄であり、どうやら女性のようである。刺客は歯を食い縛って、肩で大きく呼吸をしながら、
「ふーっ!望月堂山…お前の数々の悪行も今日までだ!今まで我々が、どれだけ悔し涙を流してきたのか分かるまい!」
刺客たちの表情は、笠で隠れていたが頬には涙が伝っていた。血管が浮かぶほど、柄を握っているのか日本刀は小刻みに震えていた。
しかし堂山は見下したような口調で、
「はっ。わざわざ白昼堂々にご苦労なこった。虫が泣きながら刀を構えても、何も怖くねぇんだよ。それとも、これが本当の泣き虫って洒落でも言いに来たってか?はっはっは!」
「いつもいつも、我々を虫扱いして…!我らも血の通った人間だぞ!」
「くく。よく喋る虫だねぇ…」
どう見ても暗殺の現場である。しかし堂山は、この期に及んでも見下す姿勢を崩さなかった。
「どこの誰がか知らねぇが、この望月堂山様に刃を向けたんだ。この無礼、どう落とし前を付けるつもりだ?」
「どこの誰かだと…。この顔を見ても、まだ同じことが言えるか!?」
すると刺客は、深く被っていた笠を払い除けてみせた。
白昼に晒された女性の顔面には、幾重にも火傷の傷が走行していた。若い頃は、さぞ端正な顔立ちだったことだろう。直視を避けたくなるような痛々しい顔面だが、隠しきれない艶が、彼女にはあった。
その顔には、覚えがある。
堂山は、懐かしそうに「これはこれは」と呟きながら顎髭を撫でて、
「これはこれは…元村長の
堂山の口角を上げながら語る口振りは、刺客を逆撫でするには十分だった。
「白々しく言いやがって…!源斎様を殺し、私たちからすべてを奪った張本人が何を言うか!貴様は、血に汚れた地位と名誉に
「くくく。それはそれは可哀想に。しかし残念ながら、俺が源斎を殺したという証拠は、どこにも無いはずだが?」
刺客は「黙れ黙れ黙れ」と声を荒げる。そして切先を、堂山に向けて、
「この剣は、正義の剣!皆の想いが、お前を殺すのだ!天誅ぅうぁぁぁあぁあ————!!」
刺客は涙声ではあるが、怒声を上げながら、堂山へと走り出した。
それが合図でもあるように、暁は半身を切って、堂山の前に一歩踏み出す。そして重心を下げて、腰に携えていた日本刀へ手を伸ばす——が、堂山がその手を止めた。
「堂山様?」
不可解とも思える堂山の行動に、暁は動揺した。思わず後ろを振り返ると、堂山の嬉々とした表情が、視界に飛び込んできた。
「これだよ、こういうことなんだよ…!」
腹の底から湧き上がる歓喜に、武者震いをさせていた。眼を見開いて、口角を上げる表情は、底の無い狂気に満ち溢れていた。
しかし状況は火急である。すでに眼前で日本刀を振りかぶった刺客を確認すると、堂山は咄嗟に左腕で暁を抱き寄せた。そして振り下ろされる刃に合わせて、包帯で巻かれた右手を翳した。
日本刀は、吸い込まれるように右の掌に衝突していく。
「死ねぇ!堂山————っ!」
刺客の怒声が、空にまで駆け抜けた瞬間。
訪れた堂山の暗殺という絶好の瞬間は、瞬時に絶望へと塗り潰された。
かぁぁ————…ん。
日本刀と掌。
その2つが衝突した瞬間、鉄同士が衝突したような重々しい重低音が辺りを震わせた。肌まで伝わるような、重い衝撃音だった。
頭の上に疑問符が浮かんだのは民草だけではない。それは、刺客もまた例外ではなかった。
「な、何なんだ。その右手は…」
鋭利に研がれた日本刀は、堂山の掌で止まっていた。
刺客の日本刀からは、刃を通して、奇妙な違和感が反動となって指に伝わっていく。掌は肉の感触ではなく、鋼のような強固な物質のようだった。
刺客は、今にも逃げ出したい想いが駆け抜けていた。本能を刺激するような、底の見えない違和感が、冷や汗となって噴き出す。
「…逃げられると思ってんの?」
堂山は、嘲笑うかのように、指を1本1本ゆっくりと閉じるように、刺客の日本刀を掴んでみせた。
かたかたかたかた…。
堂山の武者震いは、掴まれた日本刀を通して、刺客の腕に伝わった。そして堂山は、不敵に笑いながら、
「俺、殺されそうだよなぁ。素手だから、抵抗しないと殺されるよなぁ…!」
狂気は、加速的に増していく。
「すでに部下も斬られて危険だよなぁ。暁も守らなくちゃいけないよなぁ。正当防衛しないと不味いよなぁぁ、ははは……!」
誰もが、刺客の死が頭を過っていった。と同時に、堂山から発せられる殺気が、この世ならざる人外の脅威を孕んでいることも、直感的に悟った。
堂山の懐に包まれた暁は「くすくす」と笑ってみせる。そして無邪気な表情で、
「ふふ。ただの人間が——
氷川暁は、堂山の左腕の中で、確かにそう呟いた。
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