第2話:瑠璃猫

 とても静かな夜である。

 月も美しく、遠くでは夜風に合わせて花々が揺れている。見紛うことなく、穏やかな春の一時だった。


 ただ一点の違和感を除けば——ではあるが。


 薫風と共に咽るような、鉄の異臭が辺りを包んでいた。

 鼻孔を刺激するような違和感は、獣が放つ野生的な匂いと、血液が混雑したような刺激臭だった。幸いなことに誰もが寝静まった夜半よわであることが、せめてもの救いなのかもしれない。


 異臭の現場を言い表すならば、「凄惨」の一言に尽きるだろう。


「はぁ…はぁ……く、はは」


 大量の返り血を浴びて、赤黒く光沢する大剣を地面に突き刺して、男は笑ってみせた。顔中には汗を蓄えて、肩で息を整えながら、辺りを見回す。


 地割れした地面。

 えぐれた岩。

 不自然に裂けた木々。

 そして幾重にも飛び散った血飛沫ちしぶき、血飛沫、血飛沫——。


 その血溜まりの中心で、10尺(約3m)にも及ぶ茶褐色の獣毛に覆われたが、両腕を広げて仰向けに横たわっていた。熊を想起させるような巨躯だが、決して同様のものではない。


 口腔は腹まで伸びており、丸太のような太さの牙が顔を覗かせている。そして胸には大人の人間ほどの大きさをした眼球が携わっていた。しかし深い刀傷が縦一閃に走行しており、裂け目から血液と体液が溢れていた。もはや原型を確認することが出来そうにもない。


 それはまさに、この世ならならざる者——異形そのものである。


「ふ…不死身の……辰…風……」


 異形は、天を仰いだ状態のまま腹まで伸びた口腔から、絞り出すように掠れ声を漏らした。もはや、隣で大剣に身体をもたれかけた男へ視線を向ける余力すら残っていない様子だった。


 不死身の辰風と呼ばれる男は、額から流れる汗を手で拭いながら、


大熊蟷螂おおくまかまきり。言い残したことがあるなら言いな。俺の救いの手を払い除けたのは、てめぇ自身だ。だけどな、最期の言葉を聞くぐらいの慈悲は、持ち合わせているつもりだぜ」


「……何…故……我ら…はなを…狙…………」


 もはや最後まで言葉を言い切る命すらない。異形が、絶命したことを確認すると、男は吐き捨てるように返答をする。


「愚問だな。この天ヶ斎辰風てんがさいたつかぜ以外に居るかよ——」


 咽返るような血生臭さを孕んだ夜風が、特徴的な黒い外套がいとうを、はためかせる。


「——てめぇらはなを、ここまで憎む人間がよ」


 辰風は、ひどく静かな口調で答えてみせた。

 すると異形は、形を保つことが出来なくかったかのように、末端から粉々に崩れていった。まるで砂で出来た城のように、呆気も無く、そして儚く…。


 そして心地の良い夜風に乗って、身体は次第に飛ばされていった。辰風は夜風と共に去る異形の身体を穏やかな視線で眺めていく。


「人間を捨ててまで転生した成れの果てが、夜な夜な女子おなごを喰うことかよ…」


 辰風は、地面に突き刺した大剣を引っ張ると、刀身と身体を簡易的に革を括り付けて再び背負った。ずっしりとした重厚な鉄の軋む音が、小さく鳴る。


 そして最初からそこに存在していなかったかのように、跡形もなく姿を消した異形の散り際を見届けると、


「でも案外、てめぇみたいな下衆げすも嫌いじゃねぇんだぜ」


 辰風は、口腔に溜まった血を勢い良く唾棄すると、


「俺の中で滾る黒い感情を、躊躇することなく、すべて叩き付けることが出来るからなぁ…!」


 天ヶ斎辰風。そして、またの名を不死身の辰風。

 自身の背丈ほどの大きさを誇る重厚な大剣を携えた彼の根源が語られるのは、まだ先の話である——。




 ◇◆◇◆




瑠璃猫るりねこ。もう出てきて良いぞ」


 辰風は、残りの汗と返り血を簡易的に拭き取ると、茂みに向かって声を投げ掛けた。しばらくすると沈黙を破るように、雪駄のかたかたと鳴る軽快な音が近付いてきた。


 すると茂みから、緩慢な動作で小柄な少女が現れた。

 紺色を基調した布地に花柄の刺繍を纏った着物を身に着けている。下半身は、可動性を重視したように丈が短く、白く細い肌をした脚がすーっと伸びていた。

 

 月光に照らされた白皙はくせきの少女は、毛髪、眉毛、睫毛まつげ…あらゆる毛が銀髪だった。

 そして足首に到達するほどの長髪を揺らしながら闊歩していた。生涯で一度も散髪をしたことが無いのではないか、と思わざるを得ないほどの長髪であるが、不潔さは皆無である。むしろ銀髪の光沢も合わさって、上質な錦糸を想起させるほどの、美しい頭髪だった。


 白皙、銀髪。

 その点だけを鑑みれば、触れれば折れるような儚げな印象を与えるが、それは異なる。


 心許ない月明りの下に晒された少女は、遠くを見つめるような虚ろな視線で佇んでいた。しかしその瞳は、人間とは掛け離れたの色に染まっていた——。


 目線が合えば飲み込まれそうになるような、禍々しい色味である。しかし辰風は、気にも留めない様子で言葉の続きを重ねていく。


「大熊蟷螂は終わった。次のはなの所へ行くぞ。次のはなは、三ツ上村みつかみむら鉄鋼黒蟻てっこうくろありだ。北の方角だな」


 少女は、伸びた前髪の間隙から虚ろな視線を投げたまま、何も微動だにしない。特徴的な姿も相まって、まるで人間の形をした粘土のように生気が乏しい。


「…どうした瑠璃猫。体調でも悪いのか?」


 気を遣うような言葉とは裏腹に、口調はどこか冷めている。そのまま瑠璃猫と呼ぶ少女の横を通り過ぎると、袖が掴まれるような感触が、彼の歩を止めた。


 身長差を埋めるように目線を大きく下げると、少女が親指と人差し指で、袖を小さく掴んでいた。そして更に彼の目線を誘導するように、先程の戦いの地を指差した。


「…さっき大熊蟷螂と戦っていた場所だろ。それがどうした」


 頭部に疑問符を乗せていると、瑠璃猫が緩慢に言葉を紡ぐ。


「地割れ。亀裂。血飛沫。複数」


 彼女は、単語をぶつ切りにしたような独特の口調で話し出した。


「…それがどうした」


「辰風……粗暴」


 粗暴。確かにそれは、ぐうの音も出ないような事実を表しているようだった。

 城下町から外れた場所とはいえ、地形が変形するほどの凄惨な現場を見事に表現したような言葉だった。


 きっと夜明けと共に、活動し始めた民草が何事かと騒ぎ立てるだろう。混乱を招いて狼狽える民草の顔色が眼に浮かぶ。


「あー…。うん、まぁな」


「草木。花々。無惨」


「あー…花かぁ…」


 辰風は、ばつが悪そうに、人差し指で頬を引っ掻きながら、次の言葉を模索した。瑠璃猫は、変わらず生気の乏しい虚ろな視線だったが、深紅の瞳はどこか怒気が見え隠れしているようだった。


「瑠璃猫は、花が好きだもんな。えっと、あーうん……悪かったな。次はもっと上手く戦ってやるよ」


 彼はどこか軽くあしらうように、平謝りをした。しかし心の中では「まぁ無理だけどな」と囁いているような雰囲気が醸し出されていた。


 そして足早に振り返って、歩き出した時、


「…次回。鉄鋼黒蟻てっこうくろあり。戦闘。希望」


 彼女は、小さく呟いた。

 すると辰風は、ぴたりと歩を止めた。そして先程の穏やかな口調は一変して、重く低い声色で「駄目だ!」と声を荒げてみせた。


 振り返った彼の眉間には、縦皺が寄せられ、威圧のある眼光が胸を貫くようだった。


「何度も言わせんじゃねぇ!瑠璃猫、お前は戦いに出るんじゃねぇ…!」


 どこか血走った眼光が、真剣さを物語っているようだった。

 しかし彼女は、相も変わらず眉根一つ動かすことはなく、辰風を見つめていた。そして一呼吸置いた後に「承知」と無機質な返事を投げた。


 相も変わらず、生気が乏しく、感情の伴わない空返事だった。表情が隠れるように伸びた銀髪からは、不気味な深紅の瞳が顔を覗かせていた。

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