【第1章】大熊蟷螂の密やかな愉しみ
第1話:不死身の辰風
夜の城下町には、春の
深夜となっても、日中の陽気を残したように、辺りはどこか暖かい。冬の名残を感じさせない穏やかな夜だった。
しかしそんな平穏な夜の中で、人知れず脅威が息を立てていた。
ぐちゅ…ぐちゅ……。
腐った果実を潰すような、湿った音が、城下町の奥で静かに鳴っている。入り組んだ細道の奥で、誰にも悟られように——静かに、ただ静かに鳴っている。
「はぁぁあぁあぁあ………」
そして時折混じる吐息は、まるで地獄の底から聞こえるような重低音だった。そしてしばらくすると、堅木のような硬い何かを砕くような音が響いた。
決して、この先を覗いてはならない——。
耳を這いずるような音は、まるでそのように本能に直接訴えかけるような、脅威を孕んでいた。もしも覗いたとしたら……その後の凄惨な結末を想像するだけで、身の毛がよだつ。
ごきゅ…、ばきばき、ぐちゅ……ぐちゅ…ぱき、ぱき…ぐちゅぐちゅ………くふふふっふ……ずるっ…ぐちゅ……っ。
どれほどの時間が過ぎたことだろうか。
春の夜に似合わない寒気は落ち着いて、何事もなかったように、辺りには静かな夜が流れ始めていた。
そんな時である。細道から1人の武士が出てきた。
精悍な顔付きをして、上質な
「良い夜だ…」
口角が額に付きそうな程ほど奇妙に笑って、唇を舌なめずりした。舌には血液が付着しており、口角が赤黒く染まっていた。
男は、風に乗る僅かな鉄の臭いに気が付くと「いかんいかん」と呟きながら、袖で血を拭った。しかし相も変わらず、口角は異様なほどに上がっていて、込み上げる笑い声を抑えられない様子だった。
「くふふ…ふふっ。やはり気娘は極上……」
男は、袖に付いた血痕を笑いながら眺めていると、
「随分とお楽しみのようだったな」
先程まで虚空と思っていた背から、低音の男の声が聞こえた。武士は、虚を突かれたように「何奴!?」と声を荒げて音源へ振り返る。
音源の先では、月光の淡い光に照らされて、黒い
武士の眼前に佇む男は、6尺3寸(約190cm)ほどの恰幅の良い背丈である。衣服を通した状態であっても、筋骨隆々の逞しい体付きが伺えるほどだった。左肩を覆うように装着された鉄製の
しかし彼の一番の特徴は、背負った大剣かもしれない。
背から覗かせる剣の柄は、一般的な日本刀の
只者ではない——そう感じられずにはいられない威圧感が、辺りに重く圧し掛かる。武士は、
「…知らぬ顔だ。貴様、何者だ?」
「別に俺のことを知る必要はねぇよ。それに、これから死ぬ奴が——」
語りながら、男は静かに大剣の
「——殺す相手を、気にする余裕があるのか?」
月明りの
そして、ぶんっと、切り裂くような風切り音と共に重厚な大剣が姿をみせた。荒く削られた無骨な刀身は、剣の範疇からはあまりにも懸け離れていた。
黒い外套の男の背丈ほどの長さがあり、厚みも従来の日本刀とはまるで異なる。その重厚さは、まるで——。
「まるで…鉄の塊だな。剣と呼ぶにはあまりに不格好。遠目でみれば、ただの石斧にも見えるぞ。しかし、よくぞそんな扱い辛そうな大きい荷物を背負うものだ…ふふふ。一応褒めておいてやろう」
武士は、嘲笑にも似た声掛けを黒い外套の男へ投げ掛ける。しかし男は、眉根を動かさず、一点に武士を睨むだけだった。
「ふふふ…どこぞの愚か者か知らぬが、闇討ちを悔いて命乞いをするならば今の内だぞ。例えその大剣を扱えたとしても、この
真壁と名乗る武士は、勝気な口調で不敵な笑みを浮かべた。
日本刀と大剣。
真壁と男には戦力的には圧倒的な差にも思えるが、その差を感じさせないほどの覇気を放っていた。
真壁は、じりっと砂利を踏み拉いて、眼光を鋭くする。
今、まさに戦いの火蓋が切って落とされようとしていた。その時である。
「くく……く…」
男は大剣を携えたまま、場には似合わない笑い声を、溢れ出していた。
「貴様。何が可笑しい…」
「くく…」
笑い声に合わせて、大剣の銀の煌めきが、小刻みに揺れる。
「何が可笑しい!」
真壁は、一種の苛立ちを覚えて声を荒げた。男は、大剣の陰に隠れて、言葉を紡ぐ。
「くく、可笑しいに決まってんだろ。元人間の化け物が、今更人間様を気取って、名前なんざ名乗ってんじゃねぇよ」
男が発した言葉に、真壁は眼を見開いた。
しかしその驚いた表情からは、確信を突かれたような迫真さが伺えた。男は、大剣を地面と水平になるように構えると、返す言葉に詰まった様子の真壁に向かって、
「こっちは最初からすべて知った上で、こうやって話しかけてやってんだぜ。真壁徳之進——いや、
「き、貴様!なぜその名を知って…!何奴!?」
「だからすべて知った上だと……言ってんだろうがぁ!!」
男は、言葉を言い終わると同時に地面を蹴って駆け出した。重厚な大剣を握ったままとは思えない俊敏な速さで、真壁との距離を詰める。
時間に当てはめると、瞬き程度の一瞬だろう。しかし真壁が、気付いた時には、剛腕を振り上げて、歯を食い縛った男の鬼気迫る表情が眼前に迫っていた。
「おおおぉぉおぉおおぉぁぁぁぁあぁああああああああああああ—————!!!」
雲を突くような男の怒声が上がる。そして大きな弧を描いた一閃が振り下ろされた。
どん———!
大剣の切っ先が、地面にぶつかると爆発にも似た衝撃音が辺りに響き渡った。地面は大剣の切っ先を中心に地割れを起こしており、大量の砂埃が舞い上がっていた。
男は小さく「ちっ」と舌打ちを鳴らすと、視線を砂埃の外へと移す。すると砂埃の濃霧の中、月光に映えて、真壁の影が不気味に揺らめいていた。
「今の一太刀で理解した…そうか。貴様が最近、我々——
真壁の口調は、どこか腑に落ちたような、ひどく冷めた落ち着きようがみられた。そして記憶を掘り起こすように、確かめながら問いかける。
「確か…不死身の
不死身の辰風と呼ばれた男は、薄れゆく砂埃の中で、不敵に笑ってみせた。
「…はっ。そこまで名が知れ渡っているようで光栄だぜ。これまで血反吐を吐きながら、てめぇら
「不死身などと、ふざけたことを抜かしおる……ただの人間風情が…」
夜風が、春の匂いと共に砂埃を霧散させてゆく。
すると砂埃に映った真壁の影が、パキパキと関節が鳴るような奇妙な音が鳴り響いていく。同時に、影が変則的な動きをしながら、風船のように膨張していった。
影は、辰風と呼ばれる男の目線を越えて、さらに巨大化をしていく。
「どうやら、久方振りに本気を出さざるを得ないようだ…」
真壁の声は、膨張していく身体に合わせて、地獄の底から響く重低音へと変化していった。言葉に表せない異様な雰囲気が漂い出す。
しかし辰風と呼ばれる男は、膨張に合わせて睨み続けていた。包帯で巻かれた柄をぎゅっと、固く握り締める。
「小僧、存分に悔いるが良い。この真壁徳之進……いや
今、砂埃は完全に散って、脅威が姿を現した。
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