第8話 ミドリの過去

 

 ミドリは小学五年生の女の子でした。山の奥でお母さんとおじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らしていたミドリは、たくさんの友達たちに囲まれて、海とは無縁な生活を送っていました。


 冬休み中のある日のこと。単身赴任をしていたミドリのお父さんが大喜びで家に帰ってきました。いつものように、お父さんの転勤が決まったのです。お父さんは大企業のビール工場の技術者として働いていました。頻繁に転勤をしているため、今どこで働いているのかミドリは知りません。そして、どんな仕事をしているのかもよくわかりませんでした。ですが、責任のある仕事であることは、お父さんの口ぶりからうかがい知ることができたのです。


 お父さんはいつもに増して嬉々と、転勤が決まったことを話します。転勤先はミドリが住んでいる場所からはるかに遠くの、海岸沿いの大きな工場でした。栄転です。この工場で勤めた人は、最終的に本社に勤務することができる、ということらしいのです。


 夕食時にお茶碗を片手に話すお父さんの顔が明るく華やいでいます。お母さんも嬉しそうに笑っています。きっと、本当にいい転勤なのでしょう。


 ミドリには難しい話はよくわかりませんでしたが、転勤はいつものことでしたので、あまり気に留めていませんでした。


 ですが、すぐさま状況は一変します。お父さんが、


「というわけで、来年の春、家族みんなで引っ越すぞ」


 と、唐突に言ったのです。


「えっ」


 思わず、私もお母さんも聞き返しました。一体どういうことなのでしょう。


「あなた、ちょっと待ってください。そんな、いきなり引っ越すだなんて……。ミドリも来年で卒業なんですよ。卒業前に引っ越すだなんて、ミドリが可哀想だわ。ミドリが中学生に上がってから引っ越すんじゃダメなのかしら」


「それは俺も考えたんだがなぁ。学校云々よりもなるべく早く家族一緒に住んだほうがいいだろう。ずっと、離れて暮らしてたからな。ミドリも父親が必要な年頃だろう」


「でも、五年間も同じ小学校に通ったのよ? あと一年くらい、待ってくれてもいいじゃない。ね、ミドリもみんなと卒業式に出たいよね?」


「うん。みんなと離れるの嫌だ。さっちゃんと、よっちゃんと、卒業式に出たいよ」


 ミドリはお父さんの目を見て、真剣に訴えました。そうすると、どうでしょう。お父さんは顔を真っ赤にして、ふるふると震え出します。


「何? ミドリも母さんも家族よりも赤の他人である友達を取るっていうのか?」


「そうは言ってないわ。ただ……ミドリの気持ちの話を……」


「同じことだろう!」


 バンッという大きな音が部屋に響きました。お父さんが強い力で机を叩いたのです。食器が浮かぶほど強い力でした。


「いきなり中学で知らない人に囲まれるよりも、小学校の頃から新しいところに通って、馴染んでから中学に進学するほうがいいに決まってるんだ。どっちにしろ、ここを離れるんだったら、いつ離れたってかまわないだろう? 卒業式なんて単なる形式的な物で、やってもやらなくても変わらないんだから」


 ミドリの胸がギュウっと締め付けられます。


 嫌だ。私、お父さんについて行きたくない。ここでお母さんとおばあちゃんとおじいちゃんと四人で暮らしたい。


 そう言いたかったのに、ミドリは何も言えませんでした。


 ミドリのお父さんは頭の硬い頑固な人でしたので、一度こうと決めると絶対に曲げないのです。ここでミドリの気持ちを伝えたら、もっとひどく怒鳴られることをミドリは知っていました。それはミドリだけでなく、ここにいるみんなが知っていました。


 もしかしたら、お父さんはプライドが高くて、自分の決定が間違っていると思いたくなかったのかもしれません。


 冬の冷たい風が窓の隙間から入ってきて、ヒューヒュー音を立てています。


 誰も言葉を発しません。ミドリの気分は最悪でした。食欲は失せ、お父さんの顔を見ると、お父さんの身勝手さに、お腹の底から怒りが湧いてくるようでした。なので、黙ってうつむくことしかできません。


「……お前たち、俺の気遣いをわかってくれ。これがミドリにとっても、家族にとっても、最善なんだ」


 お父さんは打って変わって、優しげな声でそう言うと、再び自分の食事へと戻ったのです。


 そして、次の春休み。ミドリは友達や先生たちに別れを告げて、海沿いの街へと旅立ちました。


 それからの日々はミドリにとって良いものとは言えないものでした。

 まず、授業がミドリの通っていた学校よりスピードが速く、ミドリは皆の勉強についていけずに、成績が落ちてしまいました。それ以上に最悪だったのが、友達関係です。クラスの友達たちに馴染めなかったのです。最初こそ転校生という珍しい存在にクラスメイトたちの興味をひいていましたが、次第にその関心も薄れ、ミドリは孤立しました。


 陰で、


「あの子田舎くさいよね」

「鈍くさいしお話もつまらないし、一緒にいたくないよね」

「顔もブッサイクだし」


 と笑いのタネにされていることも知ってしまいました。偶然、トイレにいるときに、聞いてしまったのです。


 孤立するということは、とてもさみしいことでした。学校に行っても誰も話しかけてはくれないですし、休み時間も一人でいるしかなかったのです。山の奥の方に住んでいた時は、こんなにさみしい思いをするなんて、考えられないことでした。


 ミドリはさっちゃんとよっちゃんが恋しくなります。さっちゃんとよっちゃんもそう感じてくれていたのか、時折、二人から、お母さんの携帯電話に電話がかかってきました。まだ小学生でしたので、ミドリたちは自分の携帯電話を持っていなかったのです。


「みっちゃん、元気?わたしもよっちゃんも、みっちゃんがいなくて、毎日すごくさみしいよ」


 泣きそうな声でそういうのは、さっちゃんでした。みっちゃんとはミドリのことです。三人は『っちゃん同盟』を組んでいて、名前の頭文字を取って『みっちゃん』、『さっちゃん』、『よっちゃん』と呼び合っていました。


「私も、すごくすごくさみしい。二人に会いたいよ……」


 さっちゃんの声を聞いて、ミドリは泣き出してしまいました。さっちゃんもそれにつられて、泣きだします。二人は電話越しに泣き合いました。置いていった方も、置いていかれた方も、心に傷がつき、苦しかったのです。さみしかったのです。


 ある日のよく晴れたお休みの日の夕方、ミドリはさみしさを胸に抱えて、一人で海にお散歩に行きました。海の音が乾いた心に染み入ってきます。


 ミドリの瞳に映る海はとても広く、この広い世界で自分だけがひとりぼっちなような気がしました。


 心の渇きを潤すために、ミドリは海に足をつけます。


 その瞬間。想像もできないような大きな大きな波がやってきて、ミドリのことを飲み込んでしまいました。そうして、ミドリは海の世界にやってきたのです。そこで宝石の女の子に出会い、友達になったのでした。


 宝石の女の子はとても美しい桃色をしていましたので、ミドリは女の子を『モモ』と名づけました。ミドリとモモ。二人とも色の名前でおそろいなことに、ミドリは大変満足していました。


 二人はいろいろなことをして遊びました。追いかけっこや海底探索、砂の上でお絵描きをしたり、たくさんのおしゃべりをしたり。こんなに楽しい気持ちになったのは、本当に久しぶりです。


 ミドリはずっと海の中にいたいと思いました。この子と一緒にずっと……。


 けれど、面白いことに、海に惹かれれば惹かれるほど、なぜか地上での楽しかった思い出が胸の内から湧き出てくるのです。前向きな気持ちになっていくのです。


 海の中にさみしい気持ちが溶け、心の砂漠に水が注がれているような感じがしました。モモと触れ合うほどに、心の中が満ち足りていきます。


 夜も更けた頃、ミドリにはモモが必要なくなっていました。だから、ミドリは海ではなく、地上を選ぶことにしたのです。地上を選ぶことがモモを傷つけることになるとは知らずに。


 ミドリがモモに地上へ帰ると言った時、モモはひどく傷ついたような、苦しいような表情をしたことを、ミドリは忘れられないでいました。


「行って……しまうの……?」


 掠れる声で言ったモモは唇を強く噛んで、今にも泣きそうな顔をしています。


「地上は、暗くて、辛くて、さみしいって、言っていたのに、帰ってしまうの……?」


 ミドリは何も言えませんでした。だって、ミドリの気持ちはもう、海にはなかったのですから。

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