第7話 想いのカケラ


 それから、女の子とミドリは海の中をたくさん泳ぎました。海底遺跡にも、沈没船にも、行きました。幻の世界で二人で踊り、二人で探検し、二人でごっこ遊びをしました。それはそれはとても楽しい時間でした。


 ミドリと過ごす時間が増えることに比例して、女の子はミドリと離れたくないと強く思うようになります。ずっとずっと一緒にいたいという気持ちが大きくなっていくのです。


 そうして、女の子とミドリが遊んでいるうちに、たいていの少年少女たちが地上へ帰る時刻になりました。地上に住む子達は長くても一晩ほどしか海の中にいないものですから、女の子はこの時刻が近づくと、とても憂鬱な気持ちになるのです。


「ミドリちゃんも、地上に、帰るの……?」


 海底遺跡の神殿前の広場で女の子はとうとう聞いてしまいました。追いかけっこをしていましたが、ミドリを追いかける気持ちがしゅるしゅると萎んでいってしまったのです。ちょうど女の子が鬼であるときでした。


「えっ?」


 ミドリも女の子の言葉に合わせて、立ち止まります。振り向くミドリの翠色の髪がふわりと海中で舞います。それはとても優美で、海の中の美しいものに見慣れている女の子ですら、目を奪われるほどでした。


「帰らないで……」


「えっ、なんて言ったの?聞こえないわ」


「だから、帰らないで!」


 女の子は手のひらを握り締め、叫びました。とても力強い声でした。女の子とミドリの距離はそれなりに離れていましたから、声を張り上げなければならなかったのです。それに、女の子は叫びたい気分でもありました。ミドリが地上に帰ることを考えると、胸の奥がジンジンと痛むのです。


 ミドリは女の子を見つめます。どんな表情をしているのか、うつむいて足先を見つめる女の子には分かりませんでした。


 水中が揺れます。深海魚があまりいないからか、海中はぼんやりとした心許ない明るさしかありませんでした。その中をゆったりと泳ぎながら、ミドリが近づいてきているのが分かります。


 ミドリの影が目の前で揺れた瞬間、女の子は顔を上げました。そして、思いっきりミドリにしがみつきます。


「嫌だ。帰らないで。嫌だ! ずっとここにいましょう。ずっとずっと海にいましょう。地上よりも海の方が幸せだわ。私と一緒にいる方が幸せだわ。私が、幸せだわ……」


 女の子はミドリを力の限り抱きしめます。この腕を絶対に離したくありません。ひとりぼっちは、もう嫌なのです。ずっと一緒にいたいのです。


「痛い、痛いわ、フィリア。離してちょうだい」


 女の子の切望の声とは裏腹に、ミドリの声はとても爽やかで、朝起きて飲むスープのようにあっさりしたものでした。


 女の子は何かを悟ったかのように、ふっと力を緩めます。


「あぁ……。やっぱりミドリも海よりも地上がいいって言うのね。地上に帰ってしまうのね。そんなに地上っていいところなの?そんなに楽しいところなの?どうしてみんな、私を置いていってしまうの」


 それは絶望でした。無気力感と同時に、抑えることのできない恨みや羨望が湧き起こるのを感じます。まともにミドリの顔を見ることができません。


「さっきから、何を言っているの?私のお家はここよ。一体、どこに帰るというの?」


「えっ……。それはどういうこと……?」


「私のお家はここなの」


 女の子は話をうまく飲み込めません。ミドリは一体何を言っているのでしょう。人間が海にお家を作ったのでしょうか。ですが、そんなもの、これっぽちも聞いたことも、見たこともありません。


「全然わからないわ。どういうことなの?」


 女の子はたじろぎ、おろおろとします。ミドリは眉尻をほんの少しだけ下げて、


「覚えてない?」


 と、髪をかきあげ、女の子を見つめました。なめらかな曲線を描くミドリの輪郭は優しげで、触れたらふわふわと柔らかい心地がしそうです。


 女の子は柔らかな顔の隅々まで見るように、まじまじとミドリの顔を観察します。


「あっ……」


 その時、女の子の頭の中に一筋の稲妻の閃きが走りました。


 女の子はミドリを知っていたのです。


 あれはいつのことだったのでしょう。すごく最近な気もするし、すごく昔のような気もします。そんな時分に、ミドリは海に訪れていたのです。


 女の子がミドリが一度海に来ていたことを思い出せなかったのは、ミドリの容姿があまりにも違うからでした。


 以前、出会ったミドリは黒髪で赤縁の眼鏡をしていて、地味でどこか陰のある少女でした。今目の前にいるミドリは、翠色の髪と瞳をきらめかせ、華やかで美しい少女なのです。


 これだけ見た目が違っていれば、女の子が気がつかないのも無理もありませんでした。


「思い出した?」


「……うん。もしかして、地上が嫌になって、海に戻ってきてくれたの?」


 女の子は一抹の期待を込めて、ミドリに聞きます。しかし、ミドリは女の子の気持ちに反して、首を横に振ったのでした。


「いいえ。私はミドリだけれど、ミドリではないの」


 一体どういうことなのでしょうか。女の子は皆目見当がつきません。


 以前のミドリと、今のミドリの相違点と言えば、見た目と、女の子の呼び方です。以前のミドリは女の子のことを『モモ』と名付けていました


「ミドリとモモで『色色同盟』だ!」


 なんて、笑い合ったことを女の子は思い出します。以前のミドリと過ごした時間も、とても楽しいものでした。


「ミドリだけど、ミドリじゃない……。それって一体どういうこと……?」


 女の子は尋ねます。ミドリは優しく女の子の頬に触れました。そして、答えました。


「私は、ミドリが置いて行った宝石のかけら。実体化した宝石のかけら。かけらの中の『思い』が強すぎて、溢れ出てしまったの」


 女の子は理解ができませんでした。今までいろんな少年少女から、たくさんの宝石のかけらをもらいましたが、実体化したかけらは初めてです。


「きっと、私はフィリアに共鳴しすぎてしまったのね。私、貴女のさみしさが痛いようにわかってしまったの。貴女を一人にしたくないって、本気で思っているの」


 ミドリの言っていることを、女の子は半分もわかりません。女の子は顔を歪めます。


「一人にしたくないって言ったって、ミドリは地上に帰ってしまったわ。私を一人にして、去ってしまったわ」


「ええ。本物のミドリのお家はここではないから、地上に帰るしかなかったのよ。でも、その代わりに私を残していった。それがあの子なりの気遣いだったのね」


 ミドリが遥か彼方に目をやります。女の子はじれったい気持ちでした。もう少しわかりやすく言って欲しいものです。


「わけがわからないわ。だって、ミドリだけじゃなくて、この海にきたみんなかけらを置いていくのよ。どうしてミドリだけが実体化したの?」


「それは……。私にもわからない」


 首を振るミドリの細く不安げな声が耳に届きます。ですが、女の子を見つめる瞳はとても柔らかでした。


「わからないけれど、私が実体化できたのは『思いの力』だと思うの。私、本気でモモちゃんが……、フィリアが大好きだったの。一日だけしか一緒にはいられなかったけど、本当の友達だって思っていたの。それほど、貴女が大好きだったのよ。……貴女といつまでも友達でいたいって思ってた。その願いが叶って、私は実体化したのだと思っているわ」


 女の子は胸の奥がムズムズとした心地を感じました。背筋がシャンっと伸びてしまいます。ミドリの顔は引き締まり、女の子を射止める瞳はとても熱いものでした。真剣そのものです。真剣で本気の大好きは、こんなにもむずがゆいのだと、女の子は初めて知りました。


「でも、どうしてそこまで私を大好きになったの?」


「……それを説明するには、海に来るまでの私の物語を聞いてもらわないといけないの。……ねぇ、フィリア。私の昔話を聞いてもらってもいい?」


 女の子は真剣にうなずきます。そうして、ミドリは昔の自分の話をし始めたのでした。

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