第6話 くすんだ宝石
少女は、名をミドリ、と言いました。翠の少女にぴったりな名前です。ミドリは女の子を『フィリア』と名づけましたが、相変わらず、人間が与えてくれる名前にしっくりきません。
しかし、『フィリア』というような意味も分からない名前の響きは初めてです。
なので、女の子はミドリに名前の由来を尋ねます。
「フィリアって外国語で『友情』とか『愛』とかを表す言葉なんだって。貴女にぴったりな名前な気がして」
ミドリはふわふわのお布団のように柔らかい笑顔で答えてくれました。女の子は眉をひそめます。
友情、愛。そんな言葉では女の子のさみしさは満たされません。
このときの女の子は、ミドリも他の子達と同じように地上へと戻り、最後には女の子を一人にするのだ、と決めつけていましたから、ミドリの付けてくれた名前がどうにも皮肉的な気がして、とても不愉快な気持ちになりました。
何度も何度も人間と別れを繰り返しているうちに、女の子の心に黒いモヤが現れるようになりました。
そのモヤは心の中のお鍋にグツグツと湧き立っています。人間の言葉や行動が原因で、その鍋はぐちゃぐちゃにかき乱され、紫や、藍、黒などの寒色に染まります。お鍋の中が黒くなればなるほど、女の子は苛立ち、そして、意地悪になってしまうのです。
「名前をつけてくれて、ありがとう」
女の子は無理やり笑顔を作りました。前のように名前をつけてもらっても嬉しくありません。どうせ、この名前もなくなってしまうのですら。
「どういたしまして!」
ミドリは屈託のない笑顔で笑います。ミドリの明るい笑顔が眩しくて、痛くて、女の子は目を逸らしました。純粋なミドリの顔を直視できないほどに、女の子の心は渇いて、荒れていたのです。
「ここは本当にステキな場所ね」
ミドリがその場でくるりと回り、海の中を見渡して言いました。
「そう……かしら……」
女の子はうつむいて答えます。昔、女の子は海が大好きで、ステキな場所だと信じていました。ですが、今は自信がありません。人間は誰も海で生きることを選ばなかったのです。誰にも選ばれない海に、なんの価値があるのでしょうか。
「そうよ。こんなにステキな場所を私は今まで見たことがないわ。海は澄んでて呼吸はしやすいし、広々として何にも縛られない。そして、きらめく宝石のかけらと幻想的な蒼の世界。ほら、すごくステキな場所じゃない!」
ミドリはとびっきりの笑顔で答えました。女の子の心はグゥという鈍い音を立ててきしみます。
「なら、ずっと、この海にいてくれる?」
女の子はずいっとミドリに詰め寄ります。ミドリは何を言われたのか理解していないような顔で、パチリと一回まばたきをしました。
ミドリの淀みのない目が、女の子を捉えています。
女の子はなんだか決まりが悪くなって、一歩後退りました。女の子は自分がものすごく卑しい存在になったように感じたのです。
曇りのないミドリと、澱んだ女の子。無邪気なミドリと、希望を失った女の子。
ミドリの目を見ていると自分がいかに汚れているかがわかるような気がして、呼吸がしづらくなりました。
「……いきなり近寄って、ごめんなさい」
女の子はミドリとさらに距離をとって、謝りました。女の子は自分の感情の不安定さに嫌になります。それほどまでに、女の子の心はさみしさに蝕まれてしまっていたのです。
「平気よ。それにしても、あなた、美しい瞳をしているのね」
ミドリが目尻に皺を作って笑いました。
この優しげな笑顔を見たとき、ふと、女の子は違和感を覚えます。どこかでこの笑顔を見たことがあるような気がするのです。
けれども、今まで訪れた少年少女の中に、翠色の少女などいません。きっと、他人の空似なのでしょう。
「ねぇ、一緒に遊ばない?」
女の子の意識を現実に連れ戻したのは、ミドリの声でした。ミドリは女の子に右手を差し出しています。女の子は妙な気分になりました。
いつも、遊ぼうと誘うのは女の子の役目でしたので、こうして人間から誘導されるのはおかしいような感じがしたのです。
女の子はミドリの顔と手を交互に見たあと、おずおずと手を取ります。とても不思議な心持ちです。
ですが、こんな不思議な夜も一夜限りで終わってしまうのでしょう。
そう思った途端に、真っ黒な感情が女の子の心に影を落としました。それは今まで感じたことのない黒い黒い感情でした。
(そうだ……。ミドリをこの海に閉じ込めてしまおう。そうすれば、この海から出られないはずだわ。そうすれば、私はひとりぼっちでなくなるわ)
女の子の心の中にそんな声が響きます。自分の中にこんなに真っ黒な感情が渦巻いていたのかと、女の子は戸惑いました。戸惑いましたが、ミドリをこの海から出したくないという思いは変わりません。
人間に触れた宝石はキレイなままでいられないのかもしれませんね。
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