第2話 白井君と佐倉さん
男を担ぎながら、僕たちは幕張本郷駅で降りた。
結局、警察の取り調べやらなんやらで二時間ほど拘束されてしまった。男は罪を認めたので一件落着ではあるのだが、被害者からしたらただ迷惑なだけだ。
……結局、何もできなかったな。僕にできたことは、男の足を踏みつけることだけ。何の解決にもなっていなかったことは明らかだ。
あの時、彼女が泣いていた時。少しだけ、何者かになれる気がした。
意味なんてないと思っていた自分の人生に、色を付けられる気がしたんだ。
でも、そんな思いが幻想だってことはすぐにわかった。蓋を開けてみれば、彼女はすべてを自力で解決した。
自分が助ける必要なんて、これっぽっちもなかった。
……まぁ、こんなもんだろ。
少し前の記憶に情けない終止符を打つと、長時間続いた緊張から解放されて身体が安堵したのか、今まで無理やり押し込めていた吐き気が突然こみあげてくる。
さすがにこれ以上女の子の前で醜態をさらすわけにはいかず、急いでトイレへ向かおうとした。しかし既に胃液は喉元まで上がってきており、そのまま口外へ流れ出してしまう。
「え、ちょ、ちょっと! 大丈夫!?」
自分を心配してくれいるようだが、さすがにダサすぎるので、彼女の方を向くことはできない。
「雑巾とトイレットペーパー、急いで借りてくるね!」
そう言って彼女は勢いよく飛び出し、改札前にいる駅員のもとへ向かう。
「はーいお待たせ。……どう? 楽になった?」
戻ってきた彼女は、教室を掃き掃除するかのようになんでもない表情で、僕の嘔吐物を拭き取る。
「うん……もう大丈夫。てか、ほんとごめんね」
「いいのいいの! 先に助けてもらったの、こっちなんだから」
「でも、手とか汚れちゃったし」
「後で洗えばいいんだから気にしないで! あの男の近くにいた時の方が全然無理だったから! ほら、落ち着いて」
彼女が気を遣ってくれているのを肌で感じる。
思えば、彼女は僕の何倍もしんどかったはずだ。いくら強くたって、泣いていたんだ。
今まで彼女の身を案じる思考が走らなかったことに恥ずかしくなる。
隣にいる可憐な少女は、自分で逆境をはねのける力を持っている。
こんなどうしようもない僕のために、汚れ仕事も快く引き受けてくれる。
それに、自分がつらい時でも人にやさしくできる器も持ち合わせている。
吐き気はとうに収まっていたが、どんな表情で顔をあげれば良いかわからず、そのまま地面を見つめていた。
大勢の革靴がうごめく朝の光景を思い出す。
(僕って、本当に下見てばっかりなんだな)
なんのプラスにもならない習慣に今更気づいたとき、石鹸と柑橘類が入り混じったような、自分の身体からは到底発生しえないさわやかな香りが鼻孔を刺激した。
「ねぇキミ、ホント大丈夫?」
どうやらこの匂いは、彼女の麗しい髪の毛から放たれているようだ。
ただ酸っぱいだけの自分の身体とは異なる甘酸っぱい香りに少しだけうっとりしていると、背中に温かい何かが優しく触れるのを感じた。
その何かは、ゆったりした速度で、僕の背中に触れながら上下運動を繰り返す。
「ゆーっくり、ゆーっくり息を吸うんだよ。急がなくていいからさ」
彼女は手で僕の背中をさすり続けながら、優しくつぶやいた。
言われたとおり、彼女の手に合わせて呼吸をすると、少し落ち着いてきた。同時に、視界が少しづつ霞んでくる。
さらに目頭が熱くなり、気づくと僕は涙をこぼしていた。
「大丈夫でず……もう、大丈夫だがら……」
「いや全然大丈夫じゃないって! ほら、ティッシュ使って! 水も飲みな」
ポケットティッシュを丸ごともらい、涙と鼻水をふき取る。続いて、流れ出た水分を補給する。
胃の中が空っぽなためか、みずみずしい流体が身体を勢いよく駆け巡る。
涙が収まると、僕は下を向いたまま彼女に話しかける。
「水ごめん、飲めなくなっちゃったね。お金渡すよ」
「いいよ全然。ていうか飲めるし。貸して」
そういって、嘔吐直後に口をつけたペットボトルを、何食わぬ顔で口につける。
目を疑った僕は、それまでずっと床とにらめっこをしていたのに、無意識に彼女の方に顔を向けていた。
すっきりとしたフェイスラインと長いまつげに思わず見とれる。
「ほらね!」
大粒の目が丸ごとなくなるほど目を細めて、彼女は笑った。
お互いトイレで手を洗った後、ようやく学校へ向かうために、駅のホームで次の電車が来るのを待つ。
「ねね、同じ学校だよね。名前教えてよ。 あたしは一年A組の佐倉!」
「F組の白井。一年」
「お、タメじゃん! よろしくね、白井」
「うん」
僕が先輩である可能性も考慮していたはずなのになぜタメ口なのかは気にしないことにする。そういった距離の近さも、彼女らしさなのだろう。
「ほーら、こっち見て!」
そういうと佐倉は立ち止まって僕の両肩を手でがっしりと掴み、互いが向き合うようにぐいっと、僕の身体を回転させる。
突然のことに驚いた僕は、目線よりも少し下にある彼女の大粒な瞳と目を合わせる。
「これからあたしと話すときは、下を向かないこと! 目を見て話した方が、楽しいんだよ! ほら!」
もう十センチほど、僕の方に顔を近づける佐倉。
「っ……!」
二人の間のスペースは、20センチほど。
急に静かになり少しだけ頬を赤らめた佐倉は、僕と目を合わせることをやめて下を見る。
僕の肩から手を離すと、そのまま腰元まで腕を下ろした。スカートを意味もなく一定のリズムで軽く叩く。
急に借りてきた猫のように大人しくなった佐倉を見て少しだけ気の抜けた僕は、初めて佐倉の方を見ながら話しかける。
「下は向かないんじゃなかったの?」
「……うるさい、いまそれ禁止」
佐倉は下を向いたまま続ける。
「……でもF組か。クラス遠いし、あんまりよく知らないなぁ……」
「俺もまだよく知らない」
「おーうそっか。ま、まだ一か月も経ってないしね。 それに白井、恥ずかしがり屋そうだし!」
ケタケタと笑う佐倉。
「きっと、仲良くなれるよ、みんなと。白井のことまだよく知らないけど、絶対良いやつだもん」
「え、なんで?」
今日の自分の言動に良いやつとみなされるポイントなど皆無だと思っていたので、その言葉に驚く。
「あの時の白井、身体震えてた。それでも、あたしのために行動してくれた。優しくなきゃ、できないことだよ」
不思議な人だと思った。
一見すると、明るく元気で可憐な、いわゆる人気者という言葉がふさわしいように見える。
でも時々、心の奥を見透かすような、冷やっとする雰囲気をまとうことがある。
この人には、いろんな温度があるんだ。いろんな色があるんだ。
「……でも、結局犯人を撃退したのは君だ」
「細かいことはいいんだって」
自分のことを、ほんの一部分でも、認めてくれる人がいる。
こんな感覚は久しぶりだ。
なぜかはわからないけれど、佐倉との出会い。この出会いは、大切にしなくちゃいけない気がする。感謝しなくちゃいけない気がする。
「なぁ、佐倉」
僕は佐倉の目を見る。
「なぁに、白井」
佐倉は僕の目を見る。
「……ありがとうな」
少しだけ佐倉の瞳孔が大きく開く。
「こちらこそありがと。……もういいって、律儀だね佐倉は」
「いや、言えてなかったから、ありがとうって」
「え、何回も言ってなかった?」
「うん。あんなにいろいろしてくれたのに、俺、ごめんしか言ってなかった」
「そっか。じゃ、これでおあいこね! 貸し借りなし!」
「うん」
「てかうっわ、四限間に合っちゃいそう、昼休みにぬるっと行こうと思ってたのに。絶対たらたら怒られるわぁ。あ、電車来た! 白井、乗るよ!」
思いっきり笑ったと思えば、眉間にしわを寄せたりして。
ころころと変わる佐倉の表情を、なぜか少しだけ早口で話す君のことを、僕はもう少し見ていたいと思った。
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