第3話 僕はただ逡巡する

 佐倉の予想通り、学校に到着したのは4限の数学が始まって10分ほど経った頃だった。


 遅刻して教室に入るのは、それが誰であってもある程度目を引くものだ。


 なるべく音をたてぬようゆっくりと戸を開くが、教室を包む静寂もあり、何人かのクラスメイトからの視線を感じる。


 当然教師からは遅刻の理由について説明を求められたが、ありのまま起こったことを伝えるとおとがめなしということになった。


 窓側の席、後ろから二番目の自席に座る。


「このように、ある事象が起こったことを前提として算出した確率を、条件付き確率という」


 今日の授業も、退屈だ。


 机に肘を突いて、手に顎をのせながら周りを見渡してみる。みんな熱心に机に向かい、手元のノートと黒板に繰り返し目をやっている。


 高校受験が終わったばかりだというのに、みんな熱心に授業を聞いている。


 私立白羽(はくばね)高校。


 千葉県内で最も偏差値の高い学校で、東京の超進学校に唯一肩を並べている。


 中高一貫校だが、僕が所属するF組は高校受験を経て入学した生徒のみで構成されている。


 すでに高2の範囲を取り扱っている内部進学組との差を埋めるべく、授業は超スピードで進む。


 そんな誰もが勉学にいそしむこの学校、このクラスで、僕はノートを机に出すことすらせず、ただ茫然と窓の外を眺めていた。


 どうしてそんなに頑張れるのだろうか。


 誰も文句を言わず、むしろ食い入るように先生の話に耳を傾ける生徒であふれたこの教室が、僕にはどうしても異様な光景に見える。


 どうしても就きたい職業や達成したい目標が明確に定まっていて、その実現のためにこんなにも頑張っているのだろうか?


 五十にして天命を知るなんて言葉もあるくらいだから、たかだか15歳で、この道しかない、と決められる人はそう多くないはずだ。


 親の仕事や家庭の圧力で勉強せざるを得ない人はいるだろう。最近までの自分がそうだったから、その心情も含めてよく理解できる。


 でもここにいる大部分の人は多分、なんで勉強するのかなんて疑問すら持たないまま、なんとなく机に向かっているだけなんじゃないだろうか。


 将来が不安だけど、取り立ててやりたいこともない。


 だから、いつか「本当にやりたいこと」なるものが見つかったときにその選択を取れるように。


 もし見つからなかったとしても、勉強して、良い大学に入って、良い会社に入れば、幸せになれる。


 そんな一般に広く普及した神話を信じて勉強することで、自分を安心させているのだ。


 自分は正しい道を歩んでいる、と。


 僕にはそれが、自分で自分の人生を築く責任を放棄しているように思えた。



 

 じゃあ、僕は? 


 偉そうに講釈を垂れる資格はあるのか?




 無論、あるわけがない。


 目標なんて何もない。


 ありがたいことに今はもう、勉強を強要してくるような外部からの圧力もない。


 そのうえで、こうしてただ周りを否定しているだけの天邪鬼な存在。


 それが今の僕だ。




 ……このまま、なんとなく三年間が終わっていくのだろうか。


 正しそうなレールを歩くことも、自分でレールを敷くこともせずに。


 僕は少しだけ、焦燥感に駆られた。


 僕は僕の、僕だけの人生を歩みたい。


 でも、何をすればよいのかわからない。


 わかったところで、意気揚々と行動に移せるような性格でもない。


 永遠にくよくよする自分に、少しづつ憤りを感じ始める。


(僕はこれから、どうしたらいいんだろう……)


 考えを巡らせるのに少し疲れた僕は、顔を窓の方に向けたまま目を閉じる。


 見えるのは瞼の裏だけだが、全体的に白く明るい、太陽の光を感じることはできた。


 ……佐倉も、このクラスの生徒と同じなのだろうか。


 何を考えて、この三年間を過ごそうとしているのだろうか。


 気づかぬうちに太陽から連想して佐倉を思い出すように学習された僕のニューラルネットワークを、少しだけ恥ずかしく思った。


 ……確かに、太陽みたいな子だったな。


 はじけるようなみずみずしい笑顔、まっすぐな声を思い出す。


 ……佐倉は、他の人とは違うといいな。


 あまりに独善的なことを考えていることを自覚する。


 しかしこの感情もまた、僕の本当の思いなんだ。

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