学校で一番かわいいあの子と、日本一の大学を目指す
桜賀北
第1話 あってもなくても良かったあの日、君と出会った
高校に入学してから約三週間。電車の窓ガラス越しに外を見ると、桜はとうに散り散りになっていて、木々が深緑に色づきだしている。
今日もまた、朝が終わり、昼が終わり、そして夜が終わる。誰かにとってはかけがえのない一日なのだとしても。僕にとっては、あってもなくてもどっちだっていい、きっとそんな一日だ。
「緊急停車します! 手すりにおつかまりください!」
車掌の鬼気迫るアナウンスがあったころ、すでにこの電車には全力でブレーキがかかっていた。
どちらかといえばほっそりした体つきの僕は、慣性力に従って思いっきり進行方向へと身体を放り出される。
「っ! 痛ってぇなおい! ガキ!」
「……すみません」
乗車率150%といったところだろうか。運悪く、いかにも不機嫌そうな中年の男に身体が当たってしまった。
「……謝るときは人の顔見て謝れよ。 そんなことも教わってねぇのか? ……なんだよ。辛気くせぇ雰囲気がこっちにまで移るわ」
「……すみません」
視界中に、乗客の膝、アキレス腱、革靴がうごめいている。男の顔は、そこにはない。
うつむいたまま窓に視線を向けると、緑であふれた世界から一変、中途半端な高さのビルと家が立ち並ぶのが見えた。学校の最寄り駅まで、あと二十分といったところか。
僕の一日を彩るには、ふさわしい朝だ。
「この先、電車が揺れます。手すりにおつかまりください」
今度のアナウンスは緊急停車ではないため、余裕をもって手すりに身を預けることができた。
何千人もの乗客を乗せた車体と車線の摩擦が急激に大きくなり、ギギーっと大きな擦れ音が鳴り響く。普通の鉄道路線ではちょっと珍しいくらいの急カーブを通り抜けた。
今回はおっさんにぶつからずに済んだ、そう安堵して顔を上げると、そこにいたのは予想とは異なる景色だった。
僕よりも十センチほど背の低い女子高生が、肩よりも少し長い髪を小刻みに震わせているのだ。
制服を見るに、同じ学校の生徒のようだ。
彼女の背後には、額に脂汗を浮かべて鼻呼吸するさっきのおっさんの姿が見える。
良く見ると男の右太ももは、スカート越しに女子高生の臀部と重ねられ、上下左右にゆっくりと揺れている。
人が邪魔で全貌を観察できるわけではないが、おそらく彼女はいま痴漢を受けているのだ。
急激に心拍数が跳ね上がるのを感じた。
男の周囲を見渡してみても、みんな手元のスマートフォンに夢中で、今起きている犯罪行為には気づいていないようだ。
助けたほうが良いだろうか。でも、このおっさんが痴漢をしているという確たる証拠はつかめていない。冤罪だった場合、その鼻息をさらに荒げて暴力的行為に及ぶことは想像に難くない。少し体が当たっただけで怒鳴ってくるような奴だ、何をされるかわからない。でも、助けたほうが良いに決まっている。今すぐ助けねば。でも……。
都合の良い言い訳が脳をぐるぐると逡巡するばかりで、いつまで経っても僕の身体に「動け」の指令は行き届かない。
ああ、そうだ。
僕は、こういうやつだった。
大事な時に、何もできない。
人の期待に、答えられない。
いてもいなくても、どっちでもいいんだった。
僕の根っこにこびりついたヘドロ。
何をしたって、その悪臭は消えないどころか、一層心を腐敗させていく。
僕が干渉することなんか、この世界は微塵も期待していない。
そう思うと、不思議なことに動悸が少しづつ収まっていく。
僕は安心して、また少しづつ視線を下に向けていく。
やがて、女子高生と目が合った。
くりっとした大きな瞳。黒目は大きくも少し茶色がかっていて、これまたブラウニーな彼女の髪色と見事に調和している。
そして、まだ少しだけ肌寒さの残るこの季節にはそぐわず、その瞳は必要以上に潤っている。
ああ、僕はなんてやつだ。
こんな状況なのに。
うるんだ瞳の彼女を、僕は少しだけ、可憐だと思ってしまった。
でもごめん、僕には何もできないから。
つい意識を引き寄せられるその瞳から何とか視線をそらして、そのまま床へと視線を落とす。
すると、降るはずのない雨粒が、ぽつぽつと床を湿らす。
ドクン。
少し上から強烈な視線を感じた僕は、顔を上げて再び彼女と目を合わせる。
「たすけて」
彼女は声も出さず、唇をふるふると震わせながら、ただ泣いていた。
……なんでだろう。
なんで僕は、こんなことをしているんだ?
気づけば、それまで突っ立っていた場所から1メートルほど前進し、男の足を踏みつけていた。
「てめぇ! わざとやってんだろ! 大人なめてんのか!?」
男は脂汗をまき散らしながらこちらを向く。
そのまま強く握りしめた拳を突き上げ、勢いよくこちらの頭めがけて振り下ろそうとする。
僕は衝撃に備えることもせず、声も発さず、ただじっと男の目を見ていた。
ただ、あぁ、あの子が少しでも恐怖心から逃れられるなら、僕がいる意味も、ほんの一ミクロンくらいはあったのかな。そんなことを考えていた。
しかし、予測していた痛みが訪れることはなかった。
男が殴ろうとするまさにその瞬間、彼は膝から崩れ落ちて床に倒れたのだ。
「きもいんだよ、この変態! そういう店に行く金がないからって、私で発散すんな!」
声の主を見やると、その内容にはとても似つかわしくない、均整の取れた彼女の顔があった。
そして彼女のすらりとした脚は、男の急所につながっている。
もう一度、二度、三度と蹴りを入れる。
「あがっ……」
男は痛みのあまり気絶してしまったようだ。
さすがの彼女もこれ以上制裁を加えるつもりはないらしい。
「ねぇ、キミ」
その声は、透き通る川のように滑らかで、桜の華やかさと可憐さを入り交ぜたようだった。彼女の波動が、まっすぐ僕の身体に到達する。
「次の駅でこの痴漢親父突き出すから、運ぶの手伝ってくれない?」
「え、うん……」
「あ、あとさ!」
「え、……なに?」
「あんがとね、助けてくれて。カッコよかった! キミがいなかったら、あたし、何もできなかったからさ」
それが、僕と彼女の出会い。これからの三年間、いや、僕のこれまでとこれからの人生、すべてを変えるきっかけをくれた、君との出会い。
そしてこれは、僕と彼女が紡ぎだす、勇気の物語だ。
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