第4話 改革

「ディアラ」

 私は期待を籠めて振り返った。そしてガックリする。てっきりその声の主が“王水aqua regia”だと思っていたからだ。だが・・・・・・父だった。

「ーーー・・・」

 私は頭を抱える。

「・・・何を落ち込んでいるのだ我が娘よ。父は何だか哀しいぞ」

 思えばあれから、一度も名前を呼んで貰っていない。いえ、そもそもがあの日から彼には逢っていないのだけれども。

 今は取り敢えず学校中である。考えてみれば彼も物売りに出ている訳で、近隣にこそ居れど立ち寄っていくタイプではない。むしろ人見知りでもするタイプにも見えるがそれは黙っていればの話である。

「どうしてこんな処に居るの父さん・・・・・・」

 私はすなと量少なな水で練り上げた隙間だらけの垣に行って、其処から顔を突き出した。学校も一応教育機関だから、其こそ気軽に立ち寄る・・・なんて造りをしていないのだけれど。最近、父はこうってマリ周辺をうろついている。うろつく、という言い方だとまるで失業者か不審人物みたいだけれど、そういった意味も含め本当にうろついているのである。

 ・・・大体、今日は平日・学校の日。私が此処に居て“王水aqua regia”みたいな子供でも働きに出ているのに、此処へ父が来られるのがおかしい。

「父さんっ?何で・・・」

 当り前だがファサードも怪しがっている。私とファサードは目配せをし合って、父は解雇されたのかと目だけの姉弟談議に花を咲かす。勿論、父を知らない子達は居ないだろうけどクラスメイトは大抵他所の子だからやはり不思議がる。

 学校は日避けに丁度よい、垣にぐるりと囲まれた狭い円柱の内側だ。屋根は無く、雨の日は学校も休み。

 15人程度のジェンネ位から私より少し上の年齢の子供が仕事の忙しくない日に集って、読み・書き・計算を手取り足取り教え合いながら練習している。特に計算は、毎年コンテストが行なわれる位に盛んで、計算が出来ると商業発展にも役に立って尊敬される。

 自慢ではないが、父も非常に計算が速い。

 計算コンテストには母曰く面倒がって出場しなかったみたいだけれど、何と無く、速いのは数字の計算ばかりでない様な気がしていた。その父が、この“ガッコウ”に来るのだ。

「―――ちょいと、其方のお嬢さん達」

 父がちょちょいと、私より上の年齢の子達を手招きした。私より上の年齢と謂うと、年頃の女の子しかもう居ない。男の子は其こそ父の管轄で、年長者の手足として仕事一本に励んでいる。

「・・・・・・」

 ・・・父のその、胡散臭さ全開の風体にすぐには誰も来なかった。今度は私、父と顔を見合わせる。父はファサードとも顔を見合わせた。

「・・・おかしいなぁ」

 顎をさすり、父はぼやく。

「僕は、ディアラとファサードと、其処のジェンネの父親なんだがねぇ」

 父が垣の上にひょいと乗り、しゃがみ込んで私とファサードの肩に手を置いた。顎でジェンネをしゃくってみせる。

 ちなみに我家の該当年齢はあと二人―――ジェンノとカニャラがるのだが、今日は更に下の弟妹達の世話の為来ていない。5人で仕事をローテーションして、夜私達が明日通う学校の為に彼等に勉強を教える。何処の家もそんな感じで、実際マリの子供達は50人位はいるんじゃないかしら。

 其はそうと、母と愛し合い8人の子供を持つ父のそうとは思えない奇矯な行動に、周囲は中々信用してくれない。ジェンの!?とジェンネかジェンノの友達が声を上げて終りである。

 そうそうジェンノ。と父は適当に返事をして之叉これまた胡散臭い笑みを浮べる。

「ディアラより上の年齢の子達って、〆て何人位いる?」

「・・・・・・単純に、今居る人数の3倍ってところかしら」

 へぇ・・・と父は納得し、年上の少女達を興味深そうに一瞥した。・・・・・・何を考えているのだろう。我が父ながら、本当に変態に見えてきた。

「・・・・・・」

 ファサードも若干引いている。実の子に引かれる親というのも何だろう。

 父は力仕事の向いているがっしりとした体躯の男性が多いこの地域では余り見ない身軽さで垣を乗り越え、私達が普段使っている塗り壁の前に立った。

「君達ぃ」

 父は口説く様に言った。

「高等教育を受けたくはないか」

 少女達は唖然とした。父のつくったディアラ(わたし)という境界線はドンピシャリだったのか、其より下の年齢の子達は明らかに理解していなかった。境界にいる私は、高等教育が一体何であるか、分る様な分らない様な、でも話は通じた。

「例えば」

 識字率はこの地域に限って言えばそう低くはない。父は尖った石を拾い上げ、最早もはや伝統と謂える先輩達がならした壁にガリガリと文字を刻んでいった。其はいつも、私達が沙絵すなえの如く濡らして壁に振り掛けて使っていた物だ。

「ちょっと・・・!次が書けなくなります」

 ディアラ・・・!先輩に当る少女達がざわざわし出し、私に父を止めるよう訴える。父はガリガリ手を止めず、此方も見ない侭に

「いいんだよ」

 と、言った。

「次なんて無くていい。消費すればいいんだよ。さらさら零れる字をわざわざ形作る時間が勿体無い。君達は」

 バン!と叩いても文字が崩れる事の無い壁から手を離し父は向き直った。

「―――この先が解る様になれば、皆が病気にならずに済むんだったら、どうする?」

 壁一面にびっしりと刻まれた文字を、私を含めた少女達は食入る様に見た。誰も傷つけられた壁に関する文句は言わなくなった。

 何故ならば、刻まれていた内容は彼女等の興味を惹いたのと同時に、誰も答える事が出来なかったからである。

 振り返れば、父はやはり巧みだったのだと思う。と同時に、この地域の教育レベルの低さとベルベリー人の出現に誰よりも早く危機感を懐いたに違い無い。キャラバンが水を運び、売り物とした事で共生への均衡が崩れ、自由人・粗野・好戦的な民族で知られるベルベリー―――いや、この地域に住む者は知らないが父だけは、どういう訳か知っていた―――を前に、マリはこの侭では生き残れない事を察したのだろう。その為にはまだ頭の軟らかい若者の内から、応用力を持たせる多彩な選択、或いは発想、計算では導かれない沢山の答えを提示し、理に沿い利用する教育の改革の必要性を説いたのだ。

「ディアラ。学校に先生を用意しよう」

 父にはカリスマ性があったのだと思う。あっという間に皆を呑み込んでしまい、父の刻んだ壁はマリのソリッド・ファクツ《根拠ある事実》となり、そののちマリの遺産となった。そして遺産の一部が喪われた現在、其は世界のソリッド・ファクツとなっている。

 父は弁舌が優位か奇矯さが優位か少女のみならず子供達全体をあっと言わせた後、悠々と垣から飛び降りる。ムードは暫く続いていた。父は垣の隙間から手を伸ばし、ぴっぴっ、と私の服を引っ張った。私はあっとは言わなかった。代りに

「行くぞ」

「・・・・・・え!?今から!?」

 当り前だろうと父は言った。

「・・・・・・今、学校よ」

 そう言うと、父は話を聴いていなかったのかと呆れた声で言った。

「言ったろう、時間の無駄だって。同じ事を毎日何回遣ったところで道理が変るものではないぞ。変るならば猶更無駄だ。柔軟な思考が出来なくなる」

 だからと言って、其と之とは話が違うと思うのだけれど。其に何故、私がついて行かなければならないのかしら。

「父に付き合うのは娘の務めだよ。父が息子連れたところで見映えも良くないし、何しろ僕がたのしくない。父は娘に甘く、母は息子に甘いとよく言うではないか。ファサードに意味も無く厳しく接したら可哀想だろう?君達」

 何やらよく解らない意味不明な動機だが、非常に正直。私は大人びている方だからいいけれど、同年齢の大半が反抗期である女の子が相手だったらどうなっている事だろう。・・・・・・少なくとも目の前に居る女の子達は引いている。

 父の唯一の救いはそんな彼女等を見ても然して気に留めない事だ。ここでおどおどし始めると、逆に不審感を募らせるだろうから。

 父は全く節穴の様な眼で、垣の隙間から彼女等に言った。

「もうじきカミ職人がこのマリに訪れる。カミとは薄っぺらく持ち運びが出来て、版の様に一度刻むと消せない物じゃあない。形に遺せるから各自勉強が出来る。書くのに時間も掛らないから有意義に使える」

 勉強・・・未開の地に住む者達にとって、勉強は非常に憧れでもあった。先進国の学問は、真理に差し迫る勢いだって、云うじゃない?この台詞には、私のみならず早者わさもので理解の追い着く子供全員が眼を輝かせた。・・・やっぱり父は、その処が巧いのだと思う。

「だからこの壁は無くていいと言ったのだ。上級生、君達全員この壁の答えを出せる様に何れしてあげよう。その前に先ず教えてくれる人探しだ。先生探しだ。ディアラ、行くぞ」

 父が垣から身を乗り出して私の腕を引っ張る。

「・・・・・・はいはいわかった」

 半ば吊り上げられる様にして垣の上に立つ。口をあんぐりと開けているファサードや、訳の解っていないジェンネをいて

「・・・じゃ;」

 更にはのちに私が民衆と呼ぶ様になる級友を見下ろして、父について飛び下りて駆けた。


 まるで風の様だ。


「・・・・・・」

 ・・・・・・飛び下りた垣の向う側の垣。父は文字を刻む時、集中している様でいて頻りに均した壁を気にしていた。私達に語り掛ける時も壁に目配りを時折しては笑みを浮べて、其が益々ますます不審者を漂わせたものだ。

 父の野望か、はたまたマリの改革とも謂える大胆な案は、他の民族にとってとても都合の良くないものだ。表面だけでもそうとは解る。併し、其でも聞き手が子供なら、其さえも屹度きっと解らないだろう。

 併し私は一人だけ、恐ろしく理解力に長けている子供を知っている。生れながらにして大人の心を持った、と謂うべきか。風采こそ子供だが、驚く程にシビアな考えを持っている。

 何を考えているのかは父とは違う意味で判らないし、その年齢にしては異様な程に語彙が多い。一言えば十返ってくる位に頭の回転も口も速く、縦に長いその瞳孔は凡てを悟り尽した様に心を射貫く。

 彼は父を射貫いただろうか。黒い影が向う側の壁から出で現れる。黒いベールを被り直す微かな合間から、マリの美しい沙の色と同じ金の髪が覗かせた。眼は混血の、環境に縁って変化する色(淡褐色)。肌の色は顔さえも、ベールの影に遮られ視られない。


 ―――“王水aqua regia”が、商品を持って立ち上がり学校とは謂えぬ学校を一瞥し、消える。

 そしてその年、私が“王水aqua regia”に出逢う事は無かった―――

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