第11話



「終わりましたね」

「……」


 そして。子供部屋二つが空っぽになり、広い自宅に老いた夫婦だけが残された。


「久次郎の奴は、まだ終わっとらん。あの男が改心して頭を下げに来るまで、親であることを止められん」

「雪次郎様も強情ですね。……ふふ、お爺様を思い出します」

「……僕は、義祖父の様にはなれなかった。みくをこんな素晴らしい女性に育て上げたあの人こそ、僕の目標だった人だ」

「そうでしたの。……ふふ、ちょっと似てきたと思いますよ。私は」

「そう、かな」


 思えば、長いようで短かった。


 30年弱。雪次郎様と結婚してから、そんな莫大な年月が流れたと言うのに。


 お爺様に話し方を怒られたのが、つい昨日の出来事の様に思い出される。


「久次郎も、きっと上手くやりますよ。貴方の子ですもの」

「……だと、良いが」

「ええ、きっと」


 そんな、静かになった我が家の庭で。


 私と雪次郎様は二人並んで座り、体を寄せあった。


「お疲れ様でした、雪次郎様」

「今まで僕について来てくれてありがとう、みく」


 久方ぶりの。老いた恋人との、二人きりの生活が始まった。


















 だけど。


 私達は、もう老いていた。人間は、歳に勝てる存在ではない。


 美雪が出ていって、1年ほど。雪次郎様は、唐突にバタリと仕事中に気を失って倒れてしまった。病院に駆けつけて話しかけてみるも、うんともすんとも反応がない。



 ────脳卒中。それが、医者の診断だった。



 それは本当に、唐突だった。子育てが終わってやっと余生だと言うタイミングで、病魔が雪次郎を襲ったのである。


「貴方、貴方。聞こえますか?」


 口の中に管を突っ込まれ、ピーピーとうるさい機械に囲まれた雪次郎様。私の声に反応することもなく、彼は黙ったまま。


 医者によると、意識が戻るかは半々だと言う。そして、意識が戻らなければ私の最愛の人は死ぬと言う。


 ……そう。このままだと私は齢50半ばにして、また家族を皆失ってしまうのだ。


「雪次郎様。雪次郎様」


 皺が寄った手で、真っ白な雪次郎様の顔を撫でる。


 こんな別れ方は嫌だ。貴方にはもっと、もっと幸せな日々を過ごしてもらいたい。


 お爺様から私を託された日からずっと。ずっと私を幸せな女でいさせてくれた、雪次郎様にはまだ伝えきれてない感謝の言葉があるのだ。 


「私を一人にしないでくださいまし……」


 その日私は病院に泊まり込み、一晩中ハンカチを濡らし続けた。




 翌日。雪次郎様は目を覚まさなかった。


 雪次郎の会社の社員達が、揃って見舞いに来た。誰も彼もが雪次郎様を慕っており、老いてなお彼が傑物だった事を伺わせた。


 明くる日も、明くる日も。私は微動だにしない雪次郎様の手を握り、目を覚ます日を今か今かと待ち続けた。


 雪次郎様の人望は凄まじい。友人を名乗る商談相手が見舞いに来たり、行きつけの酒場の店主が見舞いに来たりと妻としては慌ただしい日々だった。


「お父さん!」

「美雪。到着したのですね」


 雪次郎様が倒れてから、二日。知らせを聞いた美雪が、遙々大阪からやって来た。


「あぁ、まだこれからでっしゃろに……」


 義息子の大阪弁も、一緒に到着。彼は雪次郎様との接点はあまり無かったというのに、美雪と並び雪次郎様の手を握って涙を流している。


 案外、情に脆い男らしい。


「お母さんも、無理してない? だいぶやつれてるよ」

「私は何ともありません。今大変なのは、雪次郎様なのですから」

「いやいやいや。義母さん、あんたも相当キテますって。こんな大変な事態やからこそ、しっかり休む時間も作りなさいよ」

「そうよ。……今は私がお父さんの傍に居るからさ、ちょっと寝とけば?」

「妻として。雪次郎様が目を覚ました時に、最初に声をかけるのは私であるべきなのです」

「……んー。お母さんらしいけどさぁ」


 娘夫婦は、雪次郎様の心配だけでなく私の心配までしてきた。


 舐めて貰っちゃ困る。私は東京大空襲を一人で生き延びた女だぞ。2、3日眠らないくらい、どうってことはない。


「────っ」

「……あっ!?」


 私に休むよう説得している娘夫婦を、捌いていると。ふと、病室の外に見知った顔があった。


「親父……、本当に倒れたのか」

「久次郎……」


 それは。数年前に勘当した、バカ息子の久次郎だった。

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