第9話
翌年。
私は男児を出生し、名を久次郎と名付けてしまった。
伊勢久次郎。私の記憶が妄想でなければ、前世の『俺』の生みの親である。
その生みの親は、一心不乱に私の乳房に吸い付いて授乳されていた。
「可愛い坊や、たんと吸いなさい」
母性本能刺激されるわぁ。前世の父親と思うと思うところがないでもないが、私の目の前に居るのはひ弱で可愛い新生児である。
こんなの愛でるに決まっている。可愛すぎるだろう。
「かかぁー」
「はいはい」
そして、美雪もすくすくと成長し最近では言葉をしゃべるようになった。簡単な言葉だけではあるが、我が子が喋っている姿ほど愛おしいものはない。
育児は女の仕事、と言う時代背景なので雪次郎様に子育ての助けを求めることはせず。代わりに我が家に転居してきた家事師匠の婆様の力を借り、育児や家事をこなしていった。
一人で子育てと家事を両立するの、物理的に無理だわコレ。成程、昔は祖父母同居が多かったから父親は育児に参加せずに済んでたのね。数十年後、父親が育児を手伝わされるのが当然な世論になる理由が分かった。
「いないいない、ばー」
だが、やりがいもある。我が子と言うのが此処まで可愛いとは知らなかった。どれだけ苦労をさせられても、笑顔を向けられたらついつい許してしまいそうになる。
「べろべろべろ……」
きゃっきゃ、とあやされて嬉しそうに笑う久次郎。私は今、最高に満ち足りていた。
……の、だが。
「これはどういう事でしょうか雪次郎様?」
「違うんだ。それは誘われて、断れる相手では無くてだね……」
それは、夜遅く酔っぱらって帰ってきた雪次郎様を出迎えた時。
なんと雪次郎様の上着から、エッチなお店の割引券がポロリしたのだ。ああ、昭和の男はそういう店に行くのが付き合いとは聞いた事が有ったけど。
まさか雪次郎様まで利用しているとは思わなかった。
「私は雪次郎様を信用しております。何か、やむにやまれぬ事情が有ったのであろうと」
「そ、そうなんだ。実は、その、提携相手の社長がどうしてもと─────」
「ですが。どうか私の器量が狭いとお笑いください、雪次郎様がこのようなお店を利用されると知って、胸が張り裂けんばかりに痛いのです。まさに、死ぬより辛い苦痛を感じております」
「……うっ。それは、その。本当に申し訳なかったと」
顔を蒼白にして、平謝りをする雪次郎様。うーん、彼が不倫をしたりする人間でないのはよく知っている。本当に、誘われて断り切れずに行ってしまっただけだろう。
とはいえこの雰囲気だと、あっさり許したりしたら誘われてまた行きそうだな。ここは、きつめに脅しをかけておくか。
「次にそのようなお店に行ったことを知ってしまえば、私はきっと耐えられません」
「わ、分かった。気を付ける……」
「それに気づいてしまった時は。私は夜にひっそりと、自刃して果てる覚悟にございます」
「え、ええええ!?」
こんくらいでいいか。
「ゆめ、お忘れなきよう……」
「は、ははは、絶対にもう行きません……」
よし、雪次郎様の顔が引きつった。これは勝ちだな、少なくとも暫くは自重するだろう。
何なんだろうな、この『浮気は男の甲斐性』とか言って許される風潮。私は許さんからな。
そして、私と雪次郎様が結婚して十年ほどの月日が経った。
「久次郎! どうだ、野球しないか」
「分かった、父さん」
私もついに、三十路の大台に乗る。この時期になると、大分前世の日本に近い文化水準になって来た。
テレビ、冷蔵庫、洗濯機。いわゆる三種の神器が世に出回り始めた頃である。
そして、東京もだいぶ近代化した。東京オリンピックを契機に道路がほぼ舗装され、ビルが乱立し始めた。
また今まで超高価だったカラーTVが普及し始めたり、日本はまさに文明の過渡期と言える混沌を見せていた。
「またお父さん、久次郎と野球してる。何が楽しいんだか」
「あの人は、休日に子供とキャッチボールするのが夢と言っていましたからね」
雪次郎様と相談し、子供は久次郎と美雪の二人だけで止めることにした。敏腕社長たる我が夫のお陰で沢山の子供を育てられる程に裕福だったが、単純に3人の子供を育てるだけのマンパワーが足りなかった。
と言うのも、私が久次郎を産んでから婆様が年で弱って来て育児が厳しくなってきたのだ。
そしてとうとう婆様は、3年前に孫と私達夫婦に囲まれ老衰で自宅の布団の中で亡くなった。享年74歳、婆様も大往生と言えるだろう。だけどこれで、私の家族は雪次郎様と子供たちだけになってしまった。
実は雪次郎様の実家のご両親に『自宅に来ないか』と誘われたのが、雪次郎様がかなり嫌がったためにご破算となった。どうやら、雪次郎様は親と仲が悪いらしい。
「次男坊だからって散々な扱いをした癖に、いざ僕の方が出世したらすり寄ってくるんだから」
との事。向こうの跡取りさんは両親の後を継いで小売り業者を営んでいるらしいが、雪次郎様は一人実家を飛び出して戦後の荒波のなか起業し成功したのだ。
やはり、雪次郎様はすさまじい。
「痛っ。母さん、指切った……」
「あらあら。救急箱を持ってきますね、水で傷口を洗い流しておきなさい」
「はーい……」
そして。私は美雪に、婆様から教わった通り花嫁修業を課していた。
私には、爺様の様な見合い相手を探し出してやるパワフルさはないけれど。この娘の未来のため、炊事洗濯を仕込んでやるくらいの事は出来る。
雪次郎様の様に強く戦後を生き抜く能力は無いけれど。雪次郎の様な男と結婚できるように、娘を育て上げるのが私の仕事である。
そして気づけば。私はもう、おかあの死んだ年齢を超えてしまっていた。
私はおかあより年上なのだ。それはとても、不思議な気分だった。
私はおかあの様な、子供に慕われる母親になれているだろうか? 爺様の様な、子供に感謝される親でいてるだろうか。
それは分からないけれど。ただ、目の前の日々を駆け抜けるように生きていく大変さを私は実感していた。
子供達は素直で、いい子だ。美雪はすこしおしゃまだし、久次郎は頭が悪いけどどちらも心優しい子に育ってくれている。
ああ、幸せだ。今の私が有るのは、間違いなく爺様と婆様のおかげだ。
あの日、私を引き取って育て上げてくれたからこそ、今の私の幸せが有る。その恩を、私はこの子供たちに返さねばならない。
親への恩は子に継がせ。子は孫に、その恩を紡ぐ。
そうやって、人間は子孫へ代々と命の脈を紡いでいるのである。
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