第5話
その日から俺は、一人家に籠った。
配給手帳を持っていけば、定期的に配給の食事は貰えた。食事はそれだけを摂取して、無駄に生き永らえていた。
「おかあ……」
だが、あんな煮汁にどれだけの栄養があるのだろう。
俺の腕は痩せ細り骨が浮き出して。頬はこけて髪はバサバサになって。
「兄ぃ……」
母親の気持ちが今更になってよくわかった。
これは、離れられない。この住み慣れた家から出ていくなんて考えられない。
『みく、何を泣いているのですか?』
『ただいま、おかあ!! 帰ったぞ、みく!!』
ひょっこり、物腰柔らかな母が居間から顔を出すかもしれない。大声でただいまと叫ぶ、遊びにいった兄が戻ってくるかもしれない。
いや、そんな妄想に嫌らしいほど現実味があるのだ。誰もいないがらんどうの家だと言うのに、母や兄がそこに居そうな気配がするのだ。
「ひとりにしないで……」
辛い。こんなにも、家族を失うのは辛いものなのか。
父親には会ったことがないので気付かなかった。前世でも、親が死ぬ前に自殺したから知らなかった。
こんなにも、こんなにも────
「とうさん、かあさん、ごめんなさい……」
前世の両親の顔が浮かぶ。そうか、俺は自殺したのだ。
それはどれだけ重い罪だったのか。今更になって、身が引き裂かれるほどに後悔し始める。
「……うっ、うっ」
誰もいない一軒家に、小さな嗚咽だけが響いていた。
そして。空襲が始まった。
鳴り響くサイレン。人々の悲鳴、慟哭。
無数に降り注ぐ焼夷弾に、燃え広がる焔の嵐。
戦争はとうとう、東京にもやってきた。
「────おかあ。兄ぃ」
俺に避難などするつもりは無い。死に場所は、この家と決めていた。
生きる術がないのだ。5歳の女児が一人で何が出来よう。
行政の加護なぞ無い。孤児などそこらに溢れている。私は完全に見捨てられた存在だ。
ならばせめて。大好きだった家族との思い出と共に、俺は死んでいきたかった。
夜空に広がる阿鼻叫喚。
紅蓮を纏い燃え盛る家屋。
虫けらの様に燃え盛る人間。
「地獄……」
そう、ここはこの世の地獄。
俺は、地獄行きを命じられたあわれな囚人。
「そっか、俺が自殺なんてしたから」
これは俺への罰なのだろう。浅はかで愚鈍でどうしようもなかった俺が、安易に死を選んだことによる罰。
「ごめんなさい」
俺は居間で三角座りをして。痩せ細った太股に顔を埋めて泣いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
『堪え難きを堪え、忍び難きを忍び────』
生きている。
何故だ。
『朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し───』
もう、飯など殆ど食べていない。
空腹に耐えかね、家まで侵入してきた雑草や家に沸いたネズミにゴキブリを口にしたくらいだ。
『其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり───』
困った時に助けてくれた近所の住人は、大体焼夷弾に焼き殺された。なのに、俺の家に引火する前に隣家は焼け落ちてしまった。
見渡す限りの焼け野原。平然と残っている家なんて殆ど無い。
だと言うのに俺の家は。俺の思い出は、何故か焼け落ちることはなかった。
何だよ。無理におかあに疎開を勧めなくても、生き残ることができたんじゃないか。
……それとも。
「守ってくれたのかな、おかあ」
まだ、俺は死んじゃいけないのだろうか。
痩せ細った体躯を動かして、生きるために足掻かないといけないのだろうか。
そのために、おかあが守ってくれたのだろうか。
「……くそ、くそ」
戦争は終わった。もう、焼夷弾が降ってくることはない。
生きられる、生きねばならぬ。俺は、ゆっくり立ち上がった。
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