第3話
「引っ越し? いけませんよ、私達はおとうの帰る場所に居なければなりません」
「ひっこしー!」
「それに、引っ越しなんてするお金の余裕は有りませんよ。余り親を困らせないでください」
「ふえぇ……」
駄目でした。
そりゃそうだ、2歳の子供のワガママで引っ越しをする親がいるものか。
母の言うことは正論だ。俺はまだ会ったことがないが、母にとって何より大事なのは父親の帰る場所を守ることだろう。
……そういや、俺まだ父親を見たことないな。
「おとうってどんなひとー?」
「おとうはちょっと怖い」
「そーなのー?」
「厳しいけど誠実な人ですよ」
どうやら、兄は父に会ったことがあるらしい。怖い系の父親か、戦前は何処もそんなもんとは聞いていたが。
地震雷火事親父、と親父は天災と並べられる恐怖対象だからな。正直あんまり会いたくないかも。
「みくも、きっとおとうに会うと好きになりますよ」
「ほんとぉ?」
俺は甘やかしてくれる父親の方がいいなぁ。ワガママを聞いて引っ越してくれる系の。
「男親は、いつだって娘には甘いんです。あの人も、みくを溺愛すると思いますよ」
「あー」
成る程。
そういや、おかあは確かに甘やかされて育ったオーラが有るな。きっと祖父は、娘に激甘な父親だったのだろう。
────娘、か。
そうなのよね。ずっとずっと生まれて物心ついてきた時から目を背けていたけど……、みくって女の名前よね。
て言うか最近おまるに乗ったとき、ついてないのも見えてしまったからね。
あー。
「わたし、おとこのこがよかったー」
「女性と言うものも悪く有りませんよ、みく」
「えー……」
戦時中に生まれ変わってそれどころじゃなかったからスルーしてたけど、こっちも結構な大問題だよな。俺、将来的に男と結婚する羽目になるじゃん。
だって、この時代ってあれだろ? 自由恋愛とか何それふざけてんのって時代だろ?
俺にチンコくれねぇかなぁ、兄貴。
開戦から2年ほど経った。東京は、存外に平和だった。
強いて事件を挙げるとすれば、うちに届けられていた新聞が「東京新聞」に名前が変わってここが東京だと確定したくらいか。いやまぁ、知ってたけど。
毎日のように空襲警報が鳴り響き、焼夷弾に恐れ戦き布団を被る様な日々はまだ来ていない。強いて言えば、ちょっと食量に難があるくらい。
だが俺は4歳の女児である。そんなに沢山の量は要らないので、この一年あまり空腹は感じなかった。
兄はすくすく成長しでっかくなり、近所の悪ガキと連るむようになった。母は時々届く父からの手紙に一喜一憂して過ごしている。両親の仲が睦まじいことで何より。
戦時中ってもっと過酷なイメージだったけど……、案外のんびりしているな。まだ戦争序盤だからだとは思うけど。
「軍艦ごっこで、雄太郎の奴が卑怯な真似をしたんだぜおかあ」
「てつは卑怯な真似をしちゃダメですよ」
「あたぼぅよ!!」
わんぱく盛りなのだろう。同い年くらいの子供と楽しげに遊んでいる兄は、妹の立場から見ても可愛かった。
俺は少しでも母の家事が楽になるよう、炊事洗濯を4歳児なりにお手伝いしている。母からしたら、家事にかこつけて俺と遊んでいるつもりかもしれない。
そんな、平和な毎日。少し海を越えた所に有るのだろう戦争と言う地獄を、俺達は実感できない。この目で何も見ていないからだ。
戦争と言う闇は、ゆっくりゆっくりと俺達のすぐ後ろまで迫ってきていると言うのに。俺は呑気に、東京空襲が始まったら大騒ぎして田舎に逃げようと叫ぶ予定を立てていただけだった。
山に赤みがかかり、紅葉が伺える涼やかな朝。
「死亡告知書」
紅葉狩りにでも行こうかと、楽しげな予定を立てていた俺達の家に1枚の紙が届けられた。
「昭和18年5月25日」
その紙を見て、母の顔色が変わる。
「時刻不明」
ああ、察した。察してしまった。その紙は、つまりそういうことなのだろう。
「右は、アッツ島にて戦死させられたことをここに御通知致します」
手紙に目を通した瞬間、母は泣き崩れた。どうやら数か月前に、俺の父親は戦死していたらしい。
一度も娘の顔を見ることなく。俺の父は、帰らぬ人となってしまったのだ。
嗚咽にまみれ、その場でしゃがみこんで動かなくなってしまった母親。俺はそんな彼女を前に、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
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