第155話 挿話 正教会の話
教皇であるジョエルが卓也と出逢ってからの正教会は、表向きの動きとは別に水面下の動きも活発になっていた。
正教会の運営費は、基本的には信徒の寄付金により賄われている。その主な活動は宣教と布教、啓蒙活動ではあるが、各地の教会を通じて孤児院の運営を行ったり、娼館の運営も行っていたりする。
卓也のネット知識では、昔の神殿では神と人とを繋ぐ活動の一環として神聖売春が行われていたとされる話もあるが、真偽の程は定かでは無い。だが、この世界では男女の人数比は女性に偏っていて、尚且つ女性の未亡人が多い。女性の再婚は許されていない為、教会がその受け皿として機能をしている。修道女として迎え入れて孤児院で子供達の世話をお願いしたり、娼館を通して生活基盤を支えたり、新たな子供を迎える事を奨励したり。聖女の教育法を継承する為に修行を課した者の中から男娼を排出したり。
生存圏の維持をその活動の一環としている正教会は、そうしたセーフティーネットとして機能している側面が強く、性の問題もまた切っても切り離せなかった。
娼館は犯罪の温床になり易かったから、通常は行政により厳しく管理されている。ただ行政だけでは充分な管理が出来なかったり、そのノウハウが無い事があったりするので、そうした場合は正教会が管理、運営を請け負うのだ。
この世界では魔物の襲撃により国が滅んで知識や技術の継承が途絶えてしまう事が往々にしてある。魔物狩りギルドもそうだが、歴史ある機関である正教会は、そうした断絶した知識や技術を継承する役割も担っていた。
それには戦闘技術も含まれている。効率的な魔力や身体能力の鍛え方、スキルの使用方法等を継承していて、有望な子供には積極的な教育と訓練を行っていた。そうした英才教育により組織された教会直属の武装組織は、大陸でも有数の戦力を有している
ギルドと同じく、その戦力の矛先は魔物に向かっていた。それが、帝国の台頭により人に向けざるを得ない状況へと変わろうとしていた。
表向きにはギルドと足並みを合わせて、対帝国戦線の構築を模索している。だが、正教会は非常に大きな組織だ。内側に目を向ければ決して一枚岩という訳でも無い。
長い歴史の中では、教皇が実権を握る事の方が少なく、通常は12人の枢機卿がお互いに牽制し合いながら実権を握っていた。
また、同じ神を信仰する正教会にあっても幾つもの教派があり、どの教派が枢機卿の席を奪うかでも、正教会の方向性は大きく変わっていた。
例えば200年前は強硬派が最も勢力を強めていた。冥王の軍勢により大陸に深い爪痕が刻まれていて、神の威光を知らしめるべしと強硬派が支持を得たのだ。
その結果、長らく強硬派と対立関係にあった異端派は正式に教会から追放される憂き目にあった。
それが遠因となって帝国が誕生をしたと言っても過言では無い。それ故に、その後の正教会と帝国との対立が明確になるにつれ、強硬派はその実権を失った。
現在正教会の主流は表向きには正統派である。だが教皇自身は聖女派だ。元々聖女こそを神の地上代行者として敬う勢力には、大陸でも歴史が有る有数の国の国主が名前を連ねていた。また、聖女派は秘密結社としての側面が有り、表向きには喧伝をされていない。脈々と聖女への信仰を繋いできたのだ。その為、聖女派は表向きには正統派を名乗っている。崇める対象が違うとは言え、聖女不在の間ならその活動自体には差が無かったからだ。
だが、現在は聖女が居る。一方で卓也の存在も問題になっていた。
聖女派の中でも聖女こそを崇めるべしとする者と、卓也こそが神の現身であるとする者と真っ二つに別れたのだ。だが、卓也の神性を否定すると、聖女の神託を疑うこととなり、聖女そのものを否定すると事になってしまう。つまりは、聖女が本物か否かで、意見が真っ二つに別れていたのだ。
もっとも、聖女が偽物と真っ向から否定をする訳では無い。あくまでも当代の聖女として、本物か否かを問うているのだ。聖女が本物で有るなら、聖女が神から授かった神託も真実で有る筈だ。ならば伴侶として定めた卓也こそが神の現身で間違いは無い。
だが、卓也が神では無いのなら神託は誤りであった事になり、フランシーヌは当代の聖女では無かった事になる。
今までも聖女と目された候補は何度も世に現れた。中には歴代の聖女に近しい程、神の寵愛を受け、奇跡の力を奮う者も居た。だが、そうした候補が候補止まりだったのは、世界が神の救けを必要とする程の災厄に見舞われなかったからだ。
恐らくは聖女とは特定の個人を意味するものでは無い。神の声を受け取るだけの資質を持つ者が、世界に危機が訪れ時に神の選ばれ、聖女となるのだ。英雄の存在はその証左でも有る。
だが、現在は神の救けを必要とする程の災厄がまだ発生していない。卓也が英雄で有るかも疑わしい。ならば、何を持ってフランシーヌが聖女で有ると言うその正当性を証明できるのか。
この点については、フランシーヌが授かった奇跡が神託であった事から、早くから疑問視をされていた。その状況で教皇が独断でフランシーヌを聖女認定した事で、議論が再燃をしたのである。
そもそも教皇には独断で正教会全体に声を発する権利があるが、その権利は長らく行使をされずに居た。教皇とはあくまでも宗教上の象徴としての存在で有り、実権は枢機卿が握っていたからだ。勿論、長い歴史を紐解けば教皇が実権を握った時期もある。だが、教皇とは慣例的に魔力に秀でた者が選ばれるが、その人物が人格者とは限らない。
それに、教皇の座に着くのは厳しい修行を経て才能を開花された人物だ。幼少の頃より特に魔力に秀でた者が選ばれ、厳しい修行による魔力強化と信仰とが刷り込まれる。言い方は悪いがやっている事は洗脳にも近いから、ほとんどの教皇は誰よりも敬虔な信徒で有り、自身で何かを考え、判断する事をしなかった。歴代の枢機卿の操り人形とされてきたのである。
にも関わらずジョエルが自ら判断をするに至ったのは、ジョエルもまた類稀な天才だったからだろう。彼は後天的に刷り込まれた信仰では無く、自身の魔眼に根差した価値観で神を信仰している。それだけに、彼の価値観は枢機卿がどうにか出来る様なものでは無かったのだ。そして政治的なセンスも持ち合わせて居た。
聖女派に接触して第一席に収まった事もそうだし、ニコラを見出して枢機卿の地位の就けたり、オーギュストを見出して聖堂騎士の筆頭にまで押し上げたのも彼の才だった。
それでも、今までは表立っては正教会内の政治には関わらない様にしていた。その必要性を感じなかったからだ。だが、そうも言ってはいられない状況になりつつあった。
枢機卿であるニコラは教皇の信任が厚くNo2と目されてはいるが、政治的な実権は無いに等しい。そうした状況にあって、ジョエルとニコラは自分達の地盤を盤石な物にするべく奮闘をしていた。卓也が現れた事で真の信仰を教会に齎さんが為であるし、帝国関連の情勢がきな臭くなって来たからでもあった。
ジョエルが最初に行ったのは聖堂騎士団の取り込みである。
聖堂騎士団はいずれも魔力が高く、神との親和性が高い。それ故に信仰心も篤いのだが、その中にあっても世俗的な人間は居て、枢機卿の息が掛かった者も少なくは無かった。その聖堂騎士団の中から特に信仰に篤い者を選りすぐり、秘密裏に卓也と謁見の機会を設けて卓也に忠誠を誓わせる事に成功した。
ジョエルは、卓也に直接謁見を賜れば、信仰心が篤い者ならば例外無く忠誠を誓うと確信をしていた。こうして聖堂騎士団の中に、教皇派と呼ばれる派閥を形成する。まずは自身の周囲から枢機卿の影響力を削ぐ事に成功したのである。中には枢機卿の息が掛かっていたが、鞍替えをした者もいた。
次に枢機卿の多数派工作だ。枢機卿もまた、その多くは神の恩寵の強さ、即ち魔力の強さが基準に選出されるが、それだけでは無い。教会に対する献身や功績、政治的な駆け引きもあって枢機卿の地位に選出されるのである。
各教区を束ねる枢機卿は、教区内の大司教による投票により選出される。正教会内部の要職にある枢機卿は、前任者からの指名と、在任の枢機卿による信任投票により選出される。
魔力の高さ、使いこなせる神聖魔術の実力で信仰を推し量れる訳では無いが、基本的にその両者が両立している者は神の気配を身近に感じる事が出来るので、高い信仰心を持っていた。
現職の枢機卿の内、ジョエルから見ても神への信仰に篤いと言えるものはニコラを含めて6人。その全てに卓也との縁を結ぶ事が出来れば、少なくとも評議会の半数を取り込む事が出来ると考えていた。
正教会の行く末を左右する様な重大な決め事は、枢機卿の多数決で決定される。教皇はその結果に追認するだけの立場だが、票が割れた場合に限り、最後の一票を投じる事が可能だった。つまり半数を取り込む事が出来れば、少なくとも卓也の不利になる様な決定を下す事は無くなる。ジョエルは、まずはそこを目指す事にしたのだ。
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