2日目
1
翌朝、ショウは冷水でシャワーを浴びた。シャンプーを使って頭を洗うとすっきりして、落ち着いた暮らしにありつけたことを夢のようだと感じる。そもそも水が使えることが奇跡的だ。
かつての住人が残していったタオルで体を拭き、マヒロからもらった服に着替えた。リュウセイから借りた服はとりあえず椅子の上へ置いておいた。
洗面所の棚に
冷たい粥で食事を済ませて窓の外を見ると、まだ強い風雨が続いていた。
ずっと部屋の中にいてもやることがなくて退屈だ。とりあえずマンションの中がどうなっているのか把握しておこうと立ち上がる。
玄関へ向かってみて気付いたのは、内側から鍵をかけられることだ。しかし外側から開けるための鍵がないため、結果的には開きっぱなしにしておくしかないようだ。
U字型のドアガードも付いてはいるが使うことはないだろう。
ランタンを手に廊下へ出ると階上が騒がしいことに気付いた。正面よりわずかに左にタケフミらしき背中があり、何やら騒いでいる様子だ。
気になって三階へ上がってみると、三〇七号室の前でタケフミとサクラが叫んでいた。
「おい、キリ! いるなら返事しろ!」
「キリさん!」
そちらへ歩いて行きながらショウは二人へたずねる。
「何かあったのか?」
はっとして彼らが振り返った。
「ああ、お前か。キリの様子が変なんだ」
「普段は開けっ放しになってるのに、何故かドアガードがかかってるんです。しかも、呼んでも返事がなくて」
サクラは昨日と違って落ち着きがなく、どこか焦ったような口調だった。
ショウはぴんと来て二人の間へ割って入った。開いたドアには確かにドアガードがかかっていた。
「このタイプのガードならすぐ開けられるぞ。ビニール紐、あるか?」
「探してくる!」
と、タケフミが急いで隣の部屋へ向かって行き、ショウはサクラへたずねた。
「キリは普段ならもう起きてる頃なのか?」
「はい。キリさんは生活リズムがちゃんとしてる人なので」
「で、そいつが起きてこない。呼んでも返事がない、と」
ショウは嫌な予感を覚えた。残念ながら、この時代にはありがちだとも言える展開だ。
いつの間にか他の住人たちも集まって来ていた。昨夜から引き続いての異常事態だ。気にならないはずがなかった。
「これでいいか?」
と、タケフミが白いビニール紐とハサミを持って戻って来た。
「おう」
受け取ったショウはすぐにビニール紐を数メートルほど引き出した。ハサミで切ってから一端をドアガードの真ん中の空間へ通して引っかける。伸ばした指先で紐の位置を端まで移し、慎重に対角線上になるよう、ドアの斜め上へ持って行って隙間に挟む。
ドアをそっと閉めてから紐を引っ張ると、ドアガードが外れる音がした。
「開いたぞ」
「でかした!」
と、タケフミが扉を開け、サクラが一番に中へ入っていく。
「キリさん!」
二人の後を付いて行ったショウは、血なまぐさい臭いに辟易した。――やっぱりこうなったか。
ランタンを片手にサクラが寝室のベッドで横たわっているキリを照らす。瞬時に異様なシミに気付いて「ひっ」と、後ずさった。
「ち、血が……」
立ち尽くしていたタケフミがサクラの肩を支え、ショウは窓にかけられていたカーテンを一気に開けた。嵐といえど、多少なりとも外光は差す。
血まみれになったキリの遺体が露わになり、サクラが口元を手で押さえた。すぐにタケフミが彼女をリビングへと連れて行く。
入れ替わるようにするりと室内へ入って来たのはリュウセイだった。
「うわあ、すごい血だ」
キリは腹を刺されたらしい。白いシーツが見事に赤く染まっていた。
「今どき珍しくもないだろ」
と、ショウは光の当たらない壁や床をランタンで照らしていく。鉄さび臭い中に一瞬、別の匂いを感じた。
「うーん、それはそうだけどさ。やっぱりびっくりするじゃない?」
「そうか」
血の飛び具合に不審な点はなさそうだ。つまり彼女はここで殺害されたと見ていいだろう。
「どうやら眠ってたところを襲われたみたいだな」
彼女のかけていた眼鏡はすぐ脇にあるサイドテーブルに置かれていた。そばには雑誌があり、ベッドから遠い側に空のマグカップもある。
「死因はおそらく、大量出血によるショック死だ。腹部を二回刺されてる」
「うーん、近くで見る勇気はないけど、そうっぽいね」
彼女の身につけたシャツが二箇所、切り裂かれていた。ショウは服をめくり上げて傷を確認する。
「うん、やっぱり二箇所だ。心臓を一突きされた方がよかっただろうに」
「それで凶器は?」
「この部屋には無さそうだが……」
ふいに外から大きな風の音がし、リュウセイはひらめいた。
「外に捨てたら簡単に証拠隠滅できるね。雨で血も拭われるだろうし」
そうした意味ではタイミングのいい殺人だったと思われたが、マヒロが首だけをこちらの部屋に出して言う。
「あの、凶器ってもしかして、あれじゃない?」
はっとして二人は彼女の指差す方へ向かった。キッチンの作業台の上に、血のついた包丁が置かれていた。
「マジかよ。何で証拠隠滅しねぇんだ」
「わざとらしいね。フェイクかもしれない」
「本当の凶器は別にあるってか?」
「そうそう」
と、リュウセイがうなずき、ふとショウは冷静になる。
「何でお前、推理してんだ?」
「本読みとしては見逃せない展開でねぇ。っていうか、君こそ何をしてるんだい?」
聞き返されると返答に困る。無意識に体がそうしていた、では理由にならないだろう。強いて言うならと考えて、ショウは答えた。
「物騒なのが嫌なだけだ。犯人がいるなら探したい」
「目的は一緒みたいだね」
リュウセイが何故か嬉しそうに笑った。
「先に言うけど邪魔するなよ」
「え、二人で力を合わせた方がよくないかい?」
「ふざけんな。お前がやった可能性もあるって言ってんだ」
ショウが思わず声を大きくすると、離れたところから様子を見ていた住人たちがざわつく。マンションで暮らすのはショウを含めてたったの十人。誰もが神妙な顔をして様子を見守っていた。
するとリュウセイは目つきを鋭くさせた。
「それなら君の可能性もある。犯人を探す振りをして、いかにも自分じゃないですよって言ってるのかもしれない」
「……お前、けっこう頭が回るタイプだな?」
「認めてくれたかい、探偵さん」
にこりと笑う彼にため息を返し、ショウは包丁へ視線を戻した。
「この包丁についてる血と彼女の血、DNA鑑定でもしたいところだが道具がない」
「ここが警察署ならできたかもね」
「指紋も取れないし、これだけで犯人を特定するのは厳しいな」
さらには眠っているところを襲われたのだから、犯行時刻は真夜中だ。全員が寝静まった頃であれば目撃者などいないだろう。
「ところでこの部屋、密室になってたんだよね?」
「はあ? 密室でも何でもねぇよ。ドアガードなんて簡単に外からかけられる」
返しながらショウは寝室へと戻る。
「本当に?」
「ああ。さっきオレがやったようにビニール紐を使えばいい。あとテープもあるといいな」
「そうか。じゃあ、密室殺人じゃないのかぁ」
リュウセイがどこか残念そうに言い、たまらず彼を振り返った。
「さっきからお前、不謹慎だぞ」
「あ、あはは、ごめんごめん」
さすがに反省したようにリュウセイが苦笑すると、タケフミが入って来て声をかけた。
「話しているところ悪いんだが、遺体をそのままにしてはおけない。運び出してもいいか?」
ショウとリュウセイはちらりと顔を見合わせてからうなずいた。
「ああ、もうだいたい見たからな」
「放置しておくと腐敗しちゃいますもんね」
昨日から続く雨のせいで湿度が高い。室内に腐臭が漂う前に、遺体を移動させることは賛成だった。
タケフミが近くにいたユキヤに手伝いを頼み、ショウとリュウセイは遺体がシーツに包まれて運び出されるのを見送った。
他の住人たちも外へ出て行き、二人きりになったところでショウは口を開く。
「
「うーん、どうだろう。あれは侵入者の仕業だと考えられたけど」
「けど、何だよ?」
「殺人となると、ちょっと違う気がするなぁと思って」
「同感だな」
言いながらサイドテーブルの前へ立ち、ショウはマグカップを手に取った。
「変な匂いがすると思ったら、これか」
横からリュウセイがのぞきこんでくる。
「中に何か残ってるね?」
「ああ、何だろうな」
ランタンで照らしてみると、底に固まっているものが確認できた。何故か端に寄っており、飲み終えた後に残る茶葉のようだ。鼻を近づけて匂いをかげば、確かにこれが変な匂いの元らしいと分かる。
「ハーブティーじゃないかな?」
「ハーブティー?」
「ミソラくんが育ててるんだよ。よければ分けてあげるって言われたことがあってさ」
言われてみれば青臭い。謎がすぐに解けたことでショウは興味を失くし、マグカップをサイドテーブルへ戻した。
「他に気になるものは無いか?」
リュウセイはそばにあった雑誌を手に取った。
「これ、男性グラビア誌だね。キリさんはどうやら異性愛者だったらしい」
惜しげもなく筋肉を露出した半裸のイケメンモデルが表紙を飾っていた。角や端の一部がよれているため、何度も読んでいただろうことが分かる。
リュウセイは雑誌を元あった位置へ戻し、ショウはため息をついた。異性愛者といえば思い出さずにいられないことがある。
「反異性愛だったか? 異性愛者を殺して回ってるテロ集団」
世界が終末へ向かっていることをいち早く察した者がいたのだろう、社会が崩壊する以前から各地で事件を起こしていた組織だ。厳密に異性愛者だけを狙っているわけではなかったが、世間では徐々に同性愛がマジョリティとなっていった。
「気持ちは分からなくもないんだよね。それまであった社会というものが崩壊した今、子どもなんて作ったって意味が無い」
「自分が生き延びるだけでも大変な時代だからな。破滅的だけど、ある意味では合理的とも言える」
室内には本棚があり、そこにも何冊かの男性グラビア誌が並んでいた。
「ということは、ショウも同性愛者かい?」
「さあな。オレは恋をしたことが無いから分からん」
「ふーん」
他に何か無いかと見回すショウへリュウセイが投げかけた。
「仮に侵入者がいて、そいつが反異性愛者だとしよう。そいつはどうやって彼女が異性愛者だと知ったんだと思う?」
「部屋に入って、オレたちみたいに雑誌を見たからか?」
「だとすれば、彼女は侵入者の気配に気付いていてもおかしくない。でも昨夜、彼女は真っ先に部屋へ戻ったよね」
「ああ、『くだらない』って言ってたな」
と、昨夜のことを脳裏で思い浮かべる。
「侵入者がいるって話になったのに、そんなこと言うかな? むしろ怖がって部屋に帰りたがらないはずだよ」
「そうか? ここにいるやつらも死にたいと思ってるんじゃないのか?」
リュウセイは困ったように小さく笑った。
「否定はできないけど、死にきれないからここにいるって感じかな。ナギやサクラは怖がってたみたいだし」
「……それもそうか」
秩序を失ってからというもの、大半の人々は生きていくことに希望を見い出せずにいた。死にたいと願う人は数え切れず、実際に自ら命を絶つ者も少なくなかった。
今生きているのは死にきれなかった者たちだと言われると、複雑な気持ちにならずにはいられない。そんなショウにかまうことなくリュウセイは推理を進めた。
「もしも夜中にこの部屋へ侵入して、彼女が異性愛者だと気付いたとしよう。そんなにすぐ殺すものかな?」
「頭のおかしいやつならやるだろ」
「頭のおかしいやつがドアガードをかけるのかい?」
「言われてみると変だな。そもそも、何でドアガードがかかってたんだ?」
「密室だと思わせるためかと思ったけど、君
サクラは先ほど、この部屋は普段は開けっ放しになっていると言っていた。おそらくショウの部屋と同じで鍵がないのだ。
「でもそうしたら、外からは開けられないよな?」
「いや、マスターキーがあるよ。今はタケフミさんが管理してるって話」
「ああ、そうだったか。じゃあ、すぐに開けられるのか」
ショウのつぶやきを受けて、リュウセイは何か心に引っかかったようだ。
「ということは、ドアガードをかけることに意味があった? うーん、何でだろう?」
考えてはみたものの何も思いつかなかったらしい。すぐに頭を左右へ振った。
「ダメだ、この話は後にしよう。反異性愛で思い出したんだけど、彼らは集団で事件を起こすはずだよね」
「ああ」
「でも侵入したのは一人だ」
「どうしてそう言い切れるんだ?」
「複数人なら誰かしら気付くだろうし、姿を見てる人がいてもおかしくない。実際、俺は見てないしね」
納得するショウだがすぐに腑に落ちないとも思った。リュウセイもきっと本心では似たようなことを考えているに違いない。
「お前、侵入者が本当にいると思ってるか?」
ショウの真剣な問いかけにリュウセイは返した。
「可能性があるなら一つ一つ確かめてつぶしていく。それが探偵というものだよ」
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