第32話 胡人の邪法

 宵が迫りつつある長安の皇城。


 朱雀門外の燈火の赫々たる明かりに高吟放歌のさかんになる頃、遣唐使一行とその協力者である杜甫は腕をくんで脳漿を絞っていた。


 仲満をつうじて、虢国夫人の館に疵面の胡人がいるか、その裏をとったところ、呆気ないほど簡単に身元が判明した。


 康国サマルカンド出身のソグド人で、名をこう棐行はいぎょうは十三。

 同族の仲間内では、こう慶土けいどという名で通っている。三年ほど前から働きはじめ、今では他の下人を統轄する立場にあり、ある程度自由が利く身の上であるという。


「問題はヤツをどう捕まえるか以前に」と、仲満は口火をきる。「夫人がどちら側か、見極めるべきだろう」


 どちらか。言うならば、命を脅かされている側か、或いは、妹の命を脅かす側か、という二択である。


「あり得るのか?」真備の声に動揺がうかがえる。「彼女が首謀者という可能性は?」


「判らない」仲満は煮え切らない。「しかし、もしそうであるなら、彼女の独断ではないだろう。十中八九、楊国忠も絡んでいる」


「この際、元宵観燈の間に、康慶土を取っ捕まえるというのは?」

 古麻呂の武官らしい強硬手段も、一同の反応は芳しくない。

 康慶土は脅迫者とはいえ虢国夫人の下人。いわば彼女の所有物であれば、仁義を通さず捕らえたならば、彼女、ひいては楊国忠の肚の底が何色であろうとも、対立は激化する。そうなれば、たとえ高力士が伝戒師の件を口利きしても、あとから彼等が横槍をいれることは免れまい。


「何につけても、あの婦人が妨げとなる」


 答えは堂々巡りだった。みんな呻いて、ふたたび徒労のような呻吟にもどる。


「ひとつ勝負をしてみるというのは如何か」


 ぽつりと洩らしたのは真備であった。みんなの彼を見つめる目は、疲れ切って期待もしていない。一か八か。勝負の神に委ねてみるという発想は、所詮破れかぶれであって、案でも策でもないのだ。


「無論、我々では勝ち目はない。だから代打ちを頼む」

「心当たりがあるのか?」

 仲満が苦々しく訊くが、真備は首をふる。

「適者は知らない。だが、幸いなことに、それを見繕える人物と知遇を得ている」


「ほう! そいつは誰だ」

「とある人攫い」

「なに!?」


「と、彼女なら言うだろう」

「まさか」

 真備は首肯した。

「妖女任氏に頼もうと思っておる」


 

 妖女任氏とは、真備が子犬から助け出した妖花の如き美女である。

 犬から助けてくれた恩に報いたいと、半日足らずで、当時捜し出すのに苦心した耶蘇教のマリアを見つけ出す重要な手掛かりを、東市の市局に潜り込んで盗んだ、今で言う女スパイである。市井の情報を得るならば、彼女において適任はいない。


 真備は呻吟の座から立って徒歩で西市にむかった。およそ西市が彼女の縄張りであろうと見込んでのことだった。街衢は暴れ川さながらで、黒い頭が、蟻のようにうごうごと犇めく。その波に呑まれると、たえず歩くことを要求され、流れ任せの草舟のように進むしかない。


 ようやく西市に辿りついた時だった。喧騒の中に、鉦のように轟く声があった。


「――キビ! キビノマキビ!!」

 どれだけ雑踏に身を浸そうとも、自分の名は不思議と耳にとどくものだ。


 うずまく人の荒海に、首一つ抜きん出て、その特徴的な紫髯緑眼と珍妙なイントネーションでもって絶えず呼びかける大男がいた。


「キビノアソンマキビドノ!!」

「ここじゃ!」

 人波に押し流されそうな老躯を突っ張って、旗印とばかりに突き上げた細腕を、その胡人は荒々しく波濤を掻き分け、むんずと引っ張り出して、近くの小曲に引きずりこんだ。


 小曲といえど、賑わいは変わらない。頭上の燈火は流星群のように眩い。真備を引っ張り込んだ胡人は、その明かりを背で隠すような大男で、隣にいるだけでむんむんと獣の匂いが立ちのぼる西域の男であった。


「キビノアソンマキビドノ、デ、ソウイナイカ」

「貴殿は何者か」

「キデン? ナニモノ?」

「失礼、唐の言葉が話せます」

「無論、知っています」


 胡人の口から、すらりと綺麗な唐言葉が出てきた。

 ギョッとして目を剥いた真備に、男はさらに言葉を重ねた。


「しかし、人混みで呼ぶなら、唐語にまじらない倭言葉のほうが良いでしょう」

 むくつけき巨漢の胡人は、唐語にかわると弾むような明るい声になった。


 言語というのは、総じて口調やその音域さえ変えてしまうものだが、彼はそれが顕著であった。おそらく自国の言葉を話すときには、また別の音域から、巨体に見合った低く地を這うような地声で話すのかも知れない。


「それで私に何用ですか。随分と私のことを知っているようだが」

「失礼。やつがれ互市牙郎ごしがろう(貿易仲買人)の史守珪ししゅけい。西市で細々と商いをしているものです」

「互市牙郎が何故に私に?」

「人捜しをしておられるでしょう」


「・・・・・・ううむ」

 人相書を見せまわっているから、このような耳敏い商人にも自然と伝わると分かっていながら、自然と返事が硬くなった。


 真備は改めてこの言貌怪なる巨人を注視した。容貌は貌の陰翳が濃く滲み出す西域の男で、紫髯と呼ばれる赤茶けた縮れ髯は頬から顎にかけて密林の如く。金糸に彩られた円襟の上衣をきて、角張った力強い顎と薄い唇から獣のような尖った犬歯がのぞいていた。


 男はいぶかしそうに精察されていることに気を害した風もなく、あっけらかんという。

「怪しまれるのも当然。なにせ、僕も貴殿を怪しんでおります故」


「なに?」

「というのも、僕は伝言係なのです。子どもの使いのようで面映ゆいが、頼んだ女が怪しくも美しい故、二つ返事で了承してしまった。しかし、あの妖女の伝言というから、どんな美丈夫かとおもえば、倭の国の老臣といわれて、こちらも吃驚しております」


「もしや任氏の使いか?」

 胡乱な胡人は、そうだ、とうなずく。


「して、伝言とは?」

「まず謝罪をしたいと」

「謝罪?」

「もうお目見えできないから、とのことです。というのもあの女性にょしょう馬嵬ばかいという村落で従者ともども野狗やけんに喰われました」


 史守珪はことなさげに惨い悲報を告げる。

 真備は胡餅で狗を追い払ったときの任氏の泣き様を思い出していた。はたして彼女は自分が狗に喰われる宿縁を半ば知っていたのではないか。


「しかし、馬嵬で亡くなった任氏がなぜ貴公に頼み事を?」

「ひどい手傷こそ負いましたが、あの女性は生きているのです。が、もう決して人前に出られるような容姿ではない。――そう本人が申しましてな。事実、庇から現れた彼女は声こそ艶のある声色だったが、その顔をあつい黒の紗で覆っておりました」


「それは惨い」

「全くです。美しい女は国の宝というべきもの。実に惜しい。まして狗の毒にやられ、女傑のごときあの女性もめっきり憔悴して、俗世をはなれて道観にくだるとのこと。だが、なにぶん貴方への御礼が粗末であったことを気に病んで、知人の僕を頼ったのです。なにかと手を貸してやってほしいと」


「・・・・・・それは、うむ、有り難い話ではあるが」

 真備が言い淀むと、胡人は破顔した。

「胡散臭いでしょう。だが、僕の観相眼によれば、どうやら悠長な時間はない様子。神仏にすがったとて冥加は得られず、邪宗門に下ったとて方策はない」

「それはそうだが」


「臆することはありません。そもそもあの妖女を頼った時点で外法に触れているのです。それにこれは美しい身を狗の餌とした妖女の依頼。不義理を犯せば、手負いの美獣に食い殺されるのは僕だ」


 真備は妖女任氏に感じた怪奇染みた怖気を、この史守珪にも感じ始めていた。


 ましてこの魔人は情緒の綾で語るのではなく、商人を名乗るだけあって合理的な判断を促すように交渉してくる。唐代に突如として現れたメフィストフェレス。彼の提案に乗るべきか否か。つねに即断を心懸ける真備にもこれには逡巡を長くしたが、結局、その手を掴むことにした。


「商談成立ですな」

 契約締結を言祝ぐ西域の魔人は、握った手をそのままに、それでは行きましょうと、ぐいっと手をひいた。


「待て待て、どこへゆく」

「これは失念しておりました。今より貴殿にひとつ術を授けたく」

「術?」

 んふふ、と魔人はほくそ笑む。


「門外不出の、胡人の邪法でございます」

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