第31話 元宵観燈の怪事
外は燈樹千光照き、花焔七枝開く燈火の海だった。
唐の御代、もっとも豪華な習俗といえば、この
元宵とは正月十五夜のことで、この夜を中として前後数夜は、普段日暮れとともに閉じる坊門を開放して、夜行の禁をとき、月光と明るさを競うように家ごとに意匠を凝らした灯籠をかけつらねた。
各自この日だけは浮かれ、派手をあらそって資をつくし産を破る晴れの日に、真備たちは青い顔をしながら城郭内を駆けずり廻らなければならない。
「盧舎那仏よ、我に冥加を与えたまえ」
捜索に神頼みをするほど、街衢に人が溢れかえっている。住居という住居から人間があふれ出し、引っ切りなしに動き回るので、人捜しなど到底無理なのだ。では日中に捜索すべきかといえば、元宵観燈の影響で、総じて日の出とともに家にかえり、関中平野に幽鬼の街ができあがる。
諦めるという選択肢はないから、皆、早朝に這這の体で鴻臚客館に帰り着いて、「手掛かりなし」というだけのことを、自分が如何に疲れたかという恨み言にのせて二、三分かたると、段々と意識が朦朧となって、寝床に帰るのだった。
しかし十五夜を迎え、元宵観燈も折り返しにきた頃、ようやくそれらしい情報が転がりこんできた。
「疵面の男を見つけました」
そういう杜甫は、すそがすり切れて、膝小僧がのぞいていた。マリアと同じく口封じに殺される可能性を捨てきれず、一時は家族をつれて洛陽まで逃げることを考えていたが、最終的には、異国の地で死んだ胡女に対する弔い合戦を望んだ。
しかし、連日連夜探しあぐね、ようやく見つけ出したにしては、煙に撒かれたように歯に物が挟まったような顔をする。――それにはこのような顛末があった。
「端的に述べるのであれば、先の一言にいくつか付け加えるだけで事足りるのですが、この度のことで某に取り憑いた困惑を共有せずには、まともに喋れそうにないのです。――と、言いますのも、あの男を見つけた、その途上において、本筋とは交わりようもない、しかし奇体ないくつかの出来事が起きたのです」
ひどく勿体つけながら、彼は今夜のことを語った。
「親仁の東門から東市のほうにのぼり、貴種高官が、そろって車馬を止めて、燈火を観覧している大通りを興慶宮のほうに向っていた時でした。折り悪く、道を塞ぐような車列が横切られました。某は連日の捜索で気性が手負いの虎のように荒れていたので、譴責ひとつ呉れてやろうと近づいて、すぐに鼠のように縮こまりました。その俥はあろうことか?国夫人の車馬でした。俥の横戸をあけて、軾に持たれながら燈明を観覧されていたから間違いありません」
「夫人に気づかれたか?」仲満は警戒した。?国夫人は大秦の妖怪ゴルゴーンだ。目をあわせただけで厄災をもたらす。
「それは万に一つもないでしょう。なぜなら彼女は妙な物に執心しておられた」
「妙なもの?」
「金箔の一欠片もない粗末な木櫛です。彼女はそれでくしげることもなく、ただニヤニヤと笑いながら見ておられた。まるで龍の宝を掠め取ったかのように悪辣な笑みで」
なんとも妙だったから記憶にこびりついたのだと、杜甫はいう。
「ですが、それより妙だったのは、そのあとのことで、何の変哲もない安っぽい櫛を熱っぽく眺めていた?国夫人が、何を思ったか、琴の弦が切れたかのように、ふっと冷めた面持ちに変ずると、あれほど執着していた木櫛を、窓の外に投げ捨て、俥の御簾をおとしたのです。これが一の変事とするならば、二の変事は、しばらくしたあと、俥から男が降りてきたことでした」
「男?」
「男装した?国夫人です」
「なにゆえに?」
「分かりません。しかし、彼女は随身を従えることなく、雑踏に身をまぎれこませました。その時の
ですが、その矢先、某の袖をぎゅっと掴んでとどめる者がいました。ふりかえれば、全く見覚えのない、見窄らしい若い女が太い眉をよせておりました。額に花鈿をして耳飾りをしていましたが、高髻に結った黒髪に簪ひとつない。女は急にとどめたことをわびると、男装した?国夫人のほうを指して『あの男の知り合いですか』と尋ねてきました」
「一目惚れしたのだろう」仲満は苦りつつ言う。「内心は夜叉の如きだが、外面は菩薩のようだからな」
「某も最初こそそう思いましたが、女の眦に隠した色は、怒りと憂いが混然として、どうもそうとは思えない。何やらその女と?国夫人に浅からぬ因縁を感じましたが、こちらは悠長にかまえる余裕もない。某は『知らん』と一言吐き捨てて袖をはらうとふたたび虢国夫人を追いました。
日輪が顔を出していれば、老若男女皆振り返る美貌をもった天女も、夜闇には叶いません。某も、あの妙なる姿形を探し求めて、西域を旅する法師のごとく、あてどない旅をしなければなりませんでした。ですが、念ずれば通ずるものでありましょうか、ようやく?国夫人を見つけ出したのです。彼女は某と向き合うような向きで立っており、ひとりの背の高い男に呼び止められ、いたく気分を害した風でした。男は帛服をきて、まるで彼女とは釣り合わない粗野な男です。
――皆様もその場に居たのなら、かの男が彼女の下男であることに気づけたでしょう。彼は彼女にこびへつらうように振るまい、また自分の部下に何かと指示を飛ばしていました。蟲の知らせといいましょうか、不意に某の記憶が騒ぐのを覚えました。いや、正確にいうなら、悪寒めいたものが過ぎった、と申しましょう。ぐるりとまわりこみ、男の顔を、見紛うことなき刀痕を見たのです」
杜甫は全てを察した一同の顔を見回した後、刻むように頷く。
「疵面の胡人は、虢国夫人の使用人でありました」
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