第30話 楊国忠の難問
「大変なことをしてくれた」
元日朝賀をおえた一行を、仲満は死刑囚を見るような顔色で迎えた。
「なにか、ありましたかな」
古麻呂の声は弾んでいる。虢国夫人の嫌がらせを一蹴した快感が、彼の浅黒い顔に桃色の喜色を浮かばせていた。
「あった」
それに反して、仲満は淡泊である。
「聞けば朝賀の席次を変えさせたとか」
「何の問題がありましょうや」
「あった」と、あらためて言う。
これには古麻呂もにやけ面をひっこめたが、不服さは隠さない。
そもそも席次の悶着はそれほど異例のことではなく、朝貢使が一堂に会する朝賀ではしばしば起きるものであった。唐の儀礼手続きを記した『大唐開元礼』の「蕃主奉見」にも「若し更に諸蕃有らば、国の大小を以て叙(ついで)と為せ」という分註がある。その場で臨機応変に席次を決定してよいという明文すらあったのだ。
仲満も委細承知のはず。それなのに憂悶に暮れるのは何故か――。
「虢国夫人が席次に嘴を入れたことはお気づきだろう。貴妃の親族の意に汲々するのはこの国の悪しき側面だが、もはや楊五家に阿ることはこの国の『政治』なのだ。だから彼女等の心証を悪くすることは避けるべきなのだが、そんな彼女以上に、決して不信を買ってはいけない相手がいる」
「それは?」
「元は楊六家だったのだ」
仲満は素直にこたえなかった。ことが如何に重大な危惧を孕んでいるか、しばしの沈黙によって強調づけていた。
「いま一家を外して五家と数えるのは、なにも楊貴妃の庇護からこぼれた訳じゃない。傍若無人の虢国夫人たち楊五家よりも栄え、権勢をほしいままにする逸出の例外であるために、その家は、否、その人物は、数えられる不名誉から脱した」
「それほど有能な方なのか?」
無垢な真備の質問に、心猛った仲満は失笑を呉れる。
「遊戯の点数計算が、経史や詩歌と同じ教養ならば、あるいは」
博徒なのだ、という。
人の顔色をうかがうことに優れた、貧しい博徒なのだと。
「奸智に優れ、阿ることを恥と知らぬ豺狼。虢国夫人という夫のいる親族と公然と密通し、それを見せびらかすような厚顔。みずから才知子といって憚らない凡百。罵詈雑言は日を跨ぐが、讃する言葉は一言もない。しかし、それが李林甫にかわる宰相なのだ。無知蒙昧なごろつきが宰相なのだ。我々はその博徒の反感を買ってしまった。日本を西畔とはき違えるほどの間抜けの」
「まさか!?」真備ははっとした。
「虢国夫人が間男の楊国忠を介して指図したのは席次の順序だけなのだ。東西の席次は、女の頼みをうけて、楊国忠が直々に礼部に正しい位置で指示した。それを古麻呂殿は諸蕃百官の前で訂正してしまったのだ!」
権威者の無知を露呈させた罪。
それが今、目をつけられている理由だという。
「大伴古麻呂殿。貴方はとんでもないことをしてしまった。この国で専横極める無能の王の頭を、臣下の面前で叩いたようなものだ」
古麻呂は腕を組んだっきり、うむと唸るしかなかった。
彼はこの失態がどのような厄災をつれてくるか、いまいち分かっていないようだった。
「厄介なことになる」
そう独りごちた仲満の声は、広がっている墨の匂いさえ動かさないほど、微々たる喉の震えであったが、影にひそんでいた怪異がつぶさに聴きとどけたように、報復の知らせはすぐに届いた。
しかしながら、それは一風変わったものだった。
「囲碁で勝負ですと?」
「さよう。囲碁の申し出だ」
封書は鴻臚卿づてに持ち込まれた。苛烈な報復に臆していた矢先のことだったので、かえって空恐ろしくもあった。
それにしても囲碁である。
中国発祥の伝統的な遊戯で、古くは戦棋の側面を持っていたものが遊戯化したもので、隋・唐になると名人も出てきて、新羅には唐名人と対局したという伝説が残っている。
勿論、日本にも七世紀頃には百済経由で持ち込まれて、平安時代には『枕草子』や『源氏物語』の作中にも出てくるほど、馴染みある遊戯として親しまれていたが、当時の日本では、貴族の間で流行の萌芽が芽吹いた程度の遊戯で、現代に当てはめるなら、クリケットの親善試合を申し込まれたようなものだ。
知ってはいるが、経験はない。
しかし、断れぬ勝負である。
遣唐使という国賓が出馬するなら、これは国の優劣を決するもので、負ければ国の威信を傷つけ、帰国しても一生冷や飯喰らいは免れない。だから真備も一笑に伏すこともできず、頭をかかえて困り果ててしまった。
また憎らしいのは、楊国忠がこしらえてきた建前である。
「有義礼儀君子の使臣、当国の諸学だけでなく技芸もことごとく修めけり。しかして囲碁は中でも群を抜くと聞く。是非に朕の御前において当国の名人と対局してもらいたい」
文章はまさに天子の綸旨という態である。
このように唐が自国の名人と称して才人を選出する場合、国の威信を損なわないように三番手あたりを出すのが慣例であった。これをもって安心かと言われれば、無論そんなことはない。相手は御前試合に出るほどの力量を当然ながら有している。
「あちらは古麻呂殿をご指名だ」
「俺ですか!?」
古麻呂は目をひん剥いて叫んだ。席次争長が発端であるからには当然だろう。
「古麻呂殿、囲碁の腕前は如何ほどで?」
「滅相もない。囲碁は戦の模倣とは聞いて、二、三、触れたことはありますが、槍や弓矢に次ぐとは思えず、それっきりです」
真備は清河卿に目をやったが、彼も力なく首を振るのみである。
「ま、真備殿はどうです? 十八年も在唐していたのですから」
頼みの綱として、古麻呂がすがるような目をする。
「残念ながら」
吉備真備という男は、このような遊戯には食指がうごかない。彼は生粋の実務家で、築城や戦略、治水工事などは、バッチリこなしている一方で、和歌や漢詩などといった雅やかなことを嗜んでいる記録がとぼしい。
「辞退はできぬか、仲満」
「あちらが逃がしはしないだろう。密かに人をやって探らせて分かったことなのだが、楊国忠は仲間内でこの報復を決めたとき、ひそかに笑って、大きな声では言えぬが、この勝敗を以てして、遣唐使を牢にいれる算段を謀るのだと言ってのけたとか」
一同は魂まで凍る想いがした。
彼等は楊国忠に目をつけられたと知った日から、おのおの楊国忠の人となりを蒐集していた。誣告や讒言、またあるときは夜盗のように傍若無人な振る舞いをして、その毒牙は亡き李林甫の奥方や姫君まで及び、先日、身を切るような寒空の下、親族の女人ことごとく一糸まとわぬ裸にして、自分の御輿を囲わせ、また俥内ではうら若き乙女を裸にして敷物のように扱ったという悪鬼の所業をきいて、胴震いしたばかりだった。
もはや彼ならば、囲碁の勝敗いかんに拘わらず、明日にでも遣唐使一同を縛り首にしても何ら可笑しくない。
「やはり本道に戻る他ないか」仲満は腕をくんで唸る。「
仲満はみずから太鼓判をおす。その声が空々しく聞こえるのは、望む結果から帰納した、愚にもつかない希望論に過ぎないと分かっているからだろう。
しかし、いかに弥縫策といえど、この策にすがるしかなかった。
「対局は今月の二十日。
彼等は指折り数えて息をのんだ。対局まであと九日しかない。
国辱をそそいだつもりが、さらなる艱難に見舞われることになった一同は、号令を発したわけでもないのに、人相書きをもって、一目散に長安の街に駈けだしたが、すぐに自らの不運を嘆くことになった。
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