第33話 王備相伐の陣

 史守珪に連れてこられたのは、西市のとある小曲。その一軒の娼館であった。


 娼館といえど、格子円に艶めかしい女郎が居並ぶ揚屋などではなく、今の日本でいう飛田新地とびたしんちのような、二階建ての小さな民家であった。元宵観燈とあって狭い軒と軒の間を燈明が垂れさがり、色町だけあって、桃色や紫、朱色といった深層の性的欲求を掻きたてる淫蕩たる色彩にかざられていた。


「その店の牡丹殿で夜を明かされませ」

 史守珪はそれだけいうと、真備を残して夜闇にまぎれた。


 ――こいつは困った。


 流石に女を買う歳じゃない。そもそもこの男、人生において妙に潔癖なきらいがある。胡女を買ったこともなく、誰に公言するわけでもないのに、生涯妻となる女以外、寝所にいれないと決めていた。


 今夜、その禁を破らなければならない。

 悲しきかな、彼も老躯といえ男である。年甲斐もなく期待している側面もあって、身繕いする猫のように丹念に白鬚を撫でつけると、意を決して娼館に入った。


「いらっしゃいませ。殿でこざいますね。お待ちしておりました」

 やり手婆と呼ぶには、如何せん若いうば桜が悵台の前で三つ指ついて畏まっていた。話はとおしてあるらしく、花代を払うことなく、ウナギの寝床のような奥にのびた廊下を進んで、奥まった突き当たりの、左から二番目の部屋に通された。


「もし、婆様よ」

 ちょうど四畳半ほどの牡丹殿に通されたとき、となりの菖蒲殿から張りのある若い男の声がした。

「口に膏をしたい。水桶をもってこい」

「はい。ただいま」


 婆様と呼ばれた婦人は「それではごゆるりと」と嫋やかな物腰で辞すると、勝手口のほうに去っていった。


 部屋は閑散として、ことに及ぶための木の寝台があるばかり。真備は何をするでもなく、腰掛けて窓から差し込む燈明の火色に身を浸していた。


 娼婦はいつまで経ってもこなかった。壁伝い、軒伝いから、かすかに艶めいた男女の嬌声がもれて、寝台に横になってもまんじりともしない。堅い寝台に身体を擦るようにして輾転反側していると、ことに及んだ男女もしらばくして寝息をもらす。


 なぜ自分はこんなところで寝転がっているのだろう。まったく呆れていたとき、にわかに天井からゴトゴトと物を動かす音がした。


 どうやらこの居室の上は、娼館のやり手婆の居室らしい。人目がないからこそ漏れる生活感のある嘆息としわぶきをあげて、どすんと品なく腰を降ろした。


「お前、今年最後の元宵観燈だよ。出掛けなくて良いのかい」

「もう九日もやっているのよ。流石に飽きちゃった」


 娼館で客にあぶれた女であろうか。これもまた裾を払って座ったようだった。

 おやと思ったのは二人の距離である。やり手婆は牡丹殿の上に坐しているが、対して今現れた娼婦は奥の菖蒲殿に座った。


「こんな美しい夜なのに、興を添える物がないね。そうだわ、碁を打ちましょう」

「うふふ。ママったら暇さえあれば盤目をなでる碁狂いなんだから」

 娼婦は鈴を鳴らすように笑う。ママと読んでいるが、これは娼館の主人を姑、娼婦を嫁として男を揚げる独特の慣習で血縁があるわけじゃない。


「東から五、南から九」

 寂寞の室内に、嫁の声が降る。盤に目を打った音はない。彼女達は頭に思い浮かべた盤上に碁目を置いているのだ。


「東から五、南の十二」

 姑は即座に応じる。


「西から八、南から十」

「西九、南十」


 ――もしやこれが史守珪の外法か。

 真備は寝台からばかりと起き上がって、格子状の天井を碁盤にみたて、ひとつひとつ細やかに棋譜を憶えていく。実に面白いのは、どんな打ち筋であっても三十六目で姑が打ちどめ、念仏のように決まり切った台詞をいうことだった。


「ほら、これで勝負がついた。どう足掻いてもアンタは勝てないよ」

 最初こそ姑の戯言かと思っていたが、試しにそのまま続けると、姑の言うとおり、どうやっても勝ち目はなかった。


 四更も深まって来た頃、姑は事前に打った棋譜を嫁に覚えさせ、あるとき、それをわざと過つように指示した。するとどうだ。まるで堤が決壊したように嫁は大敗を喫した。


 姑は煙管を灰皿にこんと叩くと、快然たる口ぶりでいう。


「この『王備相伐おうびあいばつの陣』は攻守・殺奪・救応・防御の四要素を、霊薬を練るが如く、微妙玄通の理を以て采配する陣形だ。打手が一人なら常勝無敗。互いに打つなら常に拮抗し、欲目をはって陣を崩せば、戦局は麻のように乱れ、たちまち潰走してしまう」


 ――王備相伐の陣。

 感じ入るように呟いたとき、にわかに菖蒲殿より客が飛び出した。


 彼もまた不思議と女が尋ねず、ふて寝していた客人だった。娼婦を斡旋せず、向かっ腹立っている男の頭上で、二人の女が安穏と囲碁打ちに興じれば、流石に堪忍袋の緒が切れるというものだ。男は我慢していた性欲を噴射するかのように、凄まじい勢いで二階へと駆け上がっていった。


 暴力沙汰になれば、女人二人、為す術なく打ち殺されるだろう。マリアの惨状を目撃した真備には生々しい恐怖として背筋を這った。


「止めねば!」

 急いで部屋から出ようとした真備の耳に、しかし飛び込んできたのは男の悲鳴だった。


「い、いない!?」


 幽鬼を見たような震え声を発して、男は転がるように階段を下り、そのまま暁のしみわたる薄紺の坊街に、脱兎のごとく走り去っていった。真備もまた、おそるおそる階段をあがり、親子の部屋とおもわしき一室を訪れたが、矢張りと言うべきか、そこには誰もおらず、どこからか、あの胡漢のうすら笑いが、払暁の中に木霊しているようだった。

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