第28話 天子の姨

 一同は驚き、声のした南窓から覗けば、そこにひとり、紺碧の胡帽をかぶった美少年が栗毛色の駿馬に騎乗しながら、慣れた手際で荒ぶった馬をなだめていた。


「何やつだ?」


 武官の誉れたかく、唐においては度々真備のボディーガードとして事件に取り組んだ古麻呂は、眉間に縦皺を刻むと、押っ取り刀に外に出て、その不埒者にむかっていった。


 幞頭ぼくとうをかぶった美青年は、帯刀した古麻呂に畏れるそぶりもなく、むしろ好奇の視線を浴びせかける。真備達も慌ててあとに続いたが、先鋒の古麻呂が馬上の青年に誰何しようとした途端、足元に稲妻が落ちたように「ぎゃあ」と素っ頓狂な声をあげた。


「こ、こやつ、女だ!」


 その麗人は、濃粧する当代の女性とは異なって、素肌に近しい薄化粧のままだった。うすくかいた眉にキリリとした眼差しは、美姫と美丈夫を混ぜ合わしたような中性的な美貌を具えていた。そんな夢魔の如き麗人を前に、仲満が古麻呂を背に隠すように前に出て、深々と立礼した。


「これはこれは虢国夫人かくこくふじん。なにゆえ蕃客の館に?」

「最近、なにかと長安で噂になっていますから」


 凜然としたアルトが耳朶を震わせる。


「それに妹がお世話になっているとか」

「妹?」


 真備が訝しむ。

 近くにいた杜甫がこっそり耳打ちした。


「彼女は楊貴妃の姉なのです」


 真備はあらためて見目麗しい虢国夫人を見上げた。


 楊貴妃のような神性に震える感動はないが、筋の通った鼻梁に、ぱっちりとしたアーモンド型の双眼。騎乗を好んでいるためか、四肢はすらりと引き締まって、目を洗うような美の化身である。


 彼女のほかに楊貴妃には姉が二人いた。そのふたりも才色ありと謳われたが、三姉妹の中でも虢国夫人は群を抜き、のちに杜甫も『虢国夫人』と題する詩を書いているから、その美貌は詩情を震わせるほど鮮烈だったのだろう。


「気散じに、肖像をつくらせた東夷の客を見ようと来てみれば」


 虢国夫人がちらりと古麻呂をみやって、侮るように片えくぼをよせながら、目を伏して笑ったのをみて、胡麻呂は茹だった蛸のように真っ赤になった。


 言葉が通じずとも、仕草の端々が、かえって百万言の詩より、痛烈に辱められたような気分にするものだ。古麻呂が双眼に火を閃かせ、猪のように飛びかかろうとするのを、まわりにいる男衆で必死に止めなければならなかったほどである。


 一方で虢国夫人は、爆竹の遊びに興じるように嬉嬉とするも、まだ鳴らし足りないとみえて、振り返って悪辣な咒を投げた。


「有礼の国と聴いてみれば、まったく品性が感じられない方々。朝賀の席次は東畔の最下位がよろしいと天子様に伝えておきますわ」


 朝賀とは正月に天子に拝する正月儀礼のことである。その際、各国の席次は東畔と西畔にわかれ、位が高いと見なされる国から順に第一、第二と数えていく。東西は唐からみる国の位置に過ぎないが、席次の序列は、天皇の代表として参列する遣唐使としては幾分神経を尖らせるところであった。


 ――夫人の戯れ言だ。


 このときは誰もが思った。府庫の観覧も許され、肖像画を描かれたのは、彼等以外おらず、厚遇されているという自負もあったから、天子のぎりのあねであろうとも、席次が夫人の気まぐれで左右されるものではないと、さして気にも止めなかったのだ。


 その点、仲満は危惧を覚えてもよかった。だが、周囲の楽天的な雰囲気にあてられて安きに流れてしまった。『楊五家』と称された楊貴妃につらなる外戚派閥が、いかに朝廷内外で影響力をもちうるか、すっかり失念していたのである。 


 もしも遣唐使一同が、もう一ヶ月間、長安に滞在していたのなら、楊家の発言ひとつひとつが天子の詔勅と同等に扱われ、諸王や公主の婚姻にさえ嘴をいれている恐るべき実情を目撃し、あの発言がどれほどの脅しになっていたか、すぐに知れただろう。


 まして人妻である虢国夫人と密通している人物が、李林甫に取って代わり宰相となった楊国忠であると知っていれば尚更に――。

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