第3話 仏すら助けられぬ者
観世音寺の寺域は、方三町ほどの広さで、法隆寺よりやや大きい。
南大門をすぎると回廊でつながった楼門がそびえ、平城京でしかお目にかかれない白い瓦が、陽光をうけてきらきら輝いている。五年前に落慶したばかりとあって、回廊の内側にそびえる金堂と五重塔も
北の講堂にたどりついた真備は、堂宇のうす暗さに立ち止まり、目が暗闇に慣れるまで入口に立っていたが、しばらくして唸った。
「おお、これが」
「筑前の国守であったときには、いまだ完成途中でありましたが」厳しい面構えの善意坊が、この時ばかりは稚児のように得意満面となる。「主尊の
講堂の天井を摩するように立っていたのは、漆箔と彩色で荘厳された約五メートルの巨像であった。
とくに真備を驚かせたのは仏頭である。ふくよかな螺髪のまわりには、天に首をのばす仏面と冠のように囲う十の顔が、遍く衆生を見渡しているのだ。
又、腕は八つもあり、それぞれが持物や印をむすび、真下に垂らされた左腕のひとつは、分銅のような大悲の
真備は不空羂索観音像のみもとにかしずくと手をあわせた。
どれだけそうしていただろうか。後ろに控えている善意入道のほか、講堂にいた他の沙門はすべて出払って、水を打ったように静まりかえっていた。
「ひとり娘を、任地で亡くしました」
青い香煙がながれる堂内で、真備が呟いた。
「器量よしで学にも敏い娘で、左降の憂き目にあった父を不憫におもって筑前、そして肥前まで付き従ってくれましたが、病には勝てず、今年の六月に」
善意は弔辞のかわりに、不空羂索神咒経を誦した。海中に反響する鯨の鳴き音のような声は、香炉の蒼煙とまじって異域の響きを得る。しかしそれが不意にふつりと止んだ。ちらりと覗いた真備の横顔に、娘を亡くした嘆きとはまた別の、暗然としたふかい翳りが過ぎたのを、つぶさに見取ったからだった。
「どうなさいました。真備殿」
「いやなに、観音様に海難防ぎの御利益を願っていただけです」
「海難?」
「先日、遣唐使を任じられました」
「遣唐使?」善意坊は眉をよせた。「しかし遣唐使の大使なら去年に決まっていたはず。改めて
押使とは、使者の身分が高い場合、大使の上におかれる統轄官のことである。善意は大宰府に居るためか、今回の大使が藤原清河卿であることを聞き知っていた。官位は真備のひとつ下の従四位下で順当なら真備は押使となるはずである。
しかし、真備は首を振る。
「私が仰せつかったのは副使の任です」
「なんですと!?」
善意は自分のことのように仰天した。僧衣を乱すほどの驚愕は次第に怒りへ転じて、朱色を刷いたように顔面を紅潮させた。
「拙僧、このような侮辱は聞いたことがありませぬ!!」
彼の怒りは、もっともである。
元来、従四位上の真備は、大使に据えられるべき官位であった。
前回の天平遣唐使を例にとれば、
また善意が言うように、前年に大使及び副使の任命は完了して、
「大納言藤原仲麻呂の謀略でありましょう」
善意は火焔を吹くように吼える。
「企みは手に取るように分かる。遣唐使は死の航海。西の荒海は那辺をおおう盧舎那仏の御掌さえすり抜ける海域魔界。こと帰路において多くの船を漂流の憂き目に遭わせる。しかし、それも船が無事であればこそ。荒波に没すれば菩提を弔う縁もない。まして真備殿は御年五七。たとえ在唐十八年余りといえども、老いた身体では、長旅の刻苦は
「で、ありましょうな」
真備は眉根もあげず、深い諦観の上に坐していた。
むしろ善意坊のほうが自分のことのように腹をたてた。御仏の戒律を遵法する僧侶にとって、大納言の悪徳は見過ごせず、又、生来の血の気の多さにより、烈火の如く憤る。
「仲麻呂は貴方が恐ろしいのでございます。いかに皇太后の君臨する
荒僧の説法は瞑目する真備の耳朶を強かに打つ。
講堂はさながら荒海に揉まれる船の如き。
「かの西楚の
「うむ・・・・・・・・・・・・」
「いまは時を待って捲土重来の機をはかり、紫微中台の権勢衰えたとみるや、孝謙帝を御旗に逆賊藤原仲麻呂を討つのです。この善意、法相界にしばし名が知れておりますれば、奴等を仏敵として諸国に行脚して説いてまわり、僧・民一体となって天魔波旬の仲麻呂を調伏してみせましょうぞ!!」
善意入道はいまにも都に突撃しかねない勢いだった。
だが、真備には響かない。ただ静かに首を振るのみである。
「なぜ挙兵されない。むざむざ死ぬおつもりか」
「あるいは」
「馬鹿をいってはいけない!」善意は血相をかえて怒鳴った。「それともなにか、自ら死の座にすわらんとする理由があるのですか!?」
真備は不思議とこの質問には答えに窮したようで、かわりに誤魔化すような笑みを浮かべた。
「最近、しばしば、むかしの、長安に居た頃の夢を見ます」
真備はそういって北向きの連子窓から外を眺めた。
冷たく透き通った空気に当てられて、四天王山の山粧う秋の景色もどこか索漠とした観がある。山を越えると那の津がひろがる。往路の遣唐使船は那の津を日本最後の寄港地として、肥前国の五島を足がかりに西海に乗り出していく。
「今はただ、あの空っ風が恋しい」
衆生を救うと謳われる菩薩を背にして、老国司は蒼白い死の影をおびていた。彼は依然として腹の底に沈めている感情を見せなかったが、ものうげに細めた目蓋の奥では、ちらりと殉教めいた光が妖しく烟っていた。
御仏の掌から滑り落ちた真備を前に、善意はのし掛かる無力感に打ち勝てなかった。和尚は不空羂索観神咒経をあらためて唱えた。死にゆく者への、せめてもの餞別であった。
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