18.悪役令嬢は社交界デビューする3

 暗がりでも分かるほど咲き乱れた花のある庭園へはすぐに到着した。月が雲に隠れているせいか、ホールの明かりだけでは心許ないなと思っていれば、涙が伝った跡のある彼女の頬に気付いて私はハンカチを差し出す。どうしたのだろう?と思ったが、きっと初めてのデビューの場に緊張してしまったのかもしれないな、と思い聞くのは止めておく。ハンカチを受け取った彼女はお礼を言った後で、少し俯きながら様子を窺うようにして口を開いた。



 「もしかして、第一王子と婚約された方ですか?」


 「えぇっと……ごめんなさい。違うの。噂になってしまっているようだけど、私は第二王子との婚約が決まっているわ。まだ正式に発表はされていないんだけどね」



 またもやここでマリーと同じ質問をされて、私は苦笑気味に答える。蒼白気味の顔をえっ!と強張らせてごめんなさいと謝る彼女に、気にしないでと伝えた。あまりにも恐縮した様子の彼女を見て、涼しい風に包まれながら私は続ける。



 「最初は第一王子との婚約が決まっていたから、噂が混ざってしまったようなの」


 「最初……何かあったんですか?」



 彼女の問いに五年前のことを思い出して、胸がくすぐったいような気持ちになった。実はね……と、あの日のことを話すと、彼女は真剣な眼差しで聞きながらその顔いっぱいに驚きが広がっていく。



 「ひ、一目惚れですか!?」


 「ふふ…そうなの。私ったら、その場で突っ走って告白までしてしまったわ」



 堪らず笑い出す私とは対照的に、彼女は驚きのあまり声が出ない様子で私を見つめる。こんな反応になるのも仕方ないよね。普通は絶対にあってはならいことなのだから。



 「……許されたんですか?」


 「えぇ、両陛下も寛大な心で認めてくださったわ」


 「……いいな」



 そうして俯く彼女に私は思わず、好きな人がいるの?と訊ねた。それには微笑んで返す彼女に、踏み込んだことを聞いてしまったかもと謝ろうとしたとき、私はヒュッと息を吸い込んで吐き出せずに一点を凝視したまま固まった。

 雲から覗いた月明りが彼女の髪を照らしている。その色は、薄い桃色だ。早まる鼓動に私は瞬時に瞳の色に目を移して、今度はふうっと思い切り息を吐いて安堵する。綺麗な赤紫の瞳が私の行動にどうしたのかと見つめている。ヒロインの瞳はピンク色だから、私の早とちりだ。なんでもないと言って謝った後、額につうと冷や汗が滴るのを感じた。日本と違ってこの世界では様々な髪色が存在しているのだから、ヒロインに似た髪色だってきっと他にもいるはずだ。ただ、心臓には悪いけど。



 「暗くてよく見えなかったけど、あなたの瞳とっても綺麗ね!私の瞳は青紫で、あなたの瞳は赤紫だから色違いのお揃いみたい」



 少し話の空気を変えようと私が言えば、彼女は照れたようにえへへと笑った。初めて見る笑顔に嬉しくなる。



 「お揃い、嬉しいです。でも……」



 上手く聞き取れなくて、え?と聞き返せば彼女はニコニコと笑って繰り返す。






 「赤紫って、初めて言われました」






 ――「え、赤紫?」



 「いつも周りからは」



 ――「まぁヒース様がそれをピンク色だと言うなら」



 「ピンクって言われるんです」



 ――「この色はピンクなんでしょうけど」



 濃いピンク色の瞳が月明りに煌めいている。



 「あ、あなたの名前は……」



 私の言葉に彼女がハッとして、慌てた様子で膝を折った。



 「すみません!私、オリエンタリス男爵家の一人娘、ジャスミンでございます」



 ……『翁草』のヒロイン。ヒントがあったのに、どうしてすぐに気づけなかったのだろう。早打つ心臓もそのままに、私はどんな顔をしているのか自分でもよく分からないまま、挨拶を交わしてその場を後にする。後ろで何か声を掛けられた気がしたけど、振り返る余裕はなかった。


 お父様の側に戻れば、私の異変にはすぐに気づいたらしい。どうした?何かあったのか?と問われても、何て答えたらいいのか分からない私は何もないと首を振ることしかできなかった。その様子にお姉様やお母様にまで心配をかけてしまったようで、早く帰ろうかと声を掛けられたけど、私はそれにも首を振った。だって早く帰ってしまえば、ヒースにも伝わってしまうかもしれない。


 結局デビューの場を最後まで出席し、帰宅した私は部屋に誰も通さないようにとスーザンに言って籠った。夕食の声が掛けられても、私は部屋から出ないまま、一人ベッドに潜ったまま『翁草』についてぐるぐると頭を巡らせていた。


 どうしよう、どうしよう、どうしよう……。ヒロインと出会わないと決めたあの日から、こんなに悩んだことはなかったかもしれない。久しぶりに感じる死の恐怖に、自然と体が震えてしまう。処刑って苦しいのだろうか?辛い?痛いかな?具体的な方法について思い出そうとするけど、書かれていなかったような気もする。細かい部分までは昔と違って上手く思い出せなくなってきている私には想像することしかできない。



 ――トントン



 その時叩かれた扉の音にびくりと体を震わせながら耳を澄ませば、扉の向こうからスーザンの声が聞こえた。



 「お嬢様、少しでもお夕食を口になさいませんか?」


 「……うん」



 聞こえるか聞こえないかの声量にも関わらずスーザンの耳には届いたようで、ワゴンを引いたスーザンが部屋に入ってくる。いつもなら美味しそうだと感じる料理の香りも、今は何にも感じられない。



 「ベッドで食べられますか?」



 普段はお行儀が悪いからと首を振るところだけど、今の私は動くことすら億劫に感じて小さく頷く。心配そうに眉を垂らしながら微笑むスーザンは、静かにワゴンをベッドの横までつけると寝台をセットして食事を並べてくれた。こんな風に心配させてしまったスーザンには説明しないといけない。そう思って俯きながら口を開く。



 「あのね、スーザン……えっと……えっとね」


 「ネリネお嬢様の話したい時に話してくれればいいのですよ」



 そう優しく声を掛けられれば、話さないとと思っていた気持ちがしゅるしゅると萎んだ。さぁ、どうぞと用意された料理を見た途端、ほんの少しだけ食欲が湧いてくる。スープには色とりどりの野菜や卵が溶かれていた。



 「具合が悪いと聞いて、料理人がお腹に優しいスープを作ったんです」



 その様子にスーザンが説明する。ううん、スープだけじゃない。パンだって、私が大好きなふわふわのパンだし、デザートにはマカロンがいくつか並んでいる。私のためのメニューだ。それを見て思わず涙ぐめば、スーザンが私の頭を撫でながらハンカチを手渡してくれた。



 「みんな、お嬢様が大好きですよ」



 きっと五年前なら私の我儘にここまで思いやってくれる人はいなかったかもしれない。今は嬉しいという気持ちでいっぱいになる。……だけど。



 「あのね…スーザン……私……」



 はい、と撫でる手を止めないまま返事をするスーザンに、今度こそ私の涙腺が壊れたように涙が溢れ出す。



 「……しにたくっ…ない……!」



 ピタリと止まった手が、今度は私の体を抱きしめた。



 「お嬢様は、死にませんよ」


 「うぅっ…うあああんっ!」



 まるであの日のように、変わらない優しい声に思わず子供のように泣きじゃくる。とんとんと背中を優しくあやす手が心地よくて、涙が止まらなかった。



 「なんで!なんで私なの……!私なんにもしてっないのにぃ…うぅっ」



 思わず漏れる本音が次から次へと出てくる。



 「もう嫌よ!どうしてなの?なんで私なの?私なんか生まれてこなければ」


 「お嬢様。それは違います」



 ぴしゃりと言うスーザンの声に思わずびくりと体を揺らす。肩に手を添えて、スーザンが真っすぐに私を見た。



 「お嬢様が生まれて、奥様や旦那様、ローザお嬢様はもちろん屋敷中の全ての人間が喜んだのですよ。お嬢様を愛する人はたくさんいらっしゃるではありませんか。私もその一人です」



 その言葉に返せないでいると、スーザンは続けた。



 「今日もお嬢様がお部屋にいらっしゃる時に第二王子殿下がいらっしゃいました」


 「ヒース様が?」


 「早く元気になって、また話そうとおっしゃっていましたよ」



 今すぐ会いたかったようで残念そうに帰ったと聞けば、私は唇を結んだ。



 「私にはお嬢様の抱えている不安や悩みを解決することは難しいかもしれません。でも、呼んでいただけるのであれば、いつでも隣に参ります。だから……そのようなこと……」



 最後まで言葉にせずスーザンがパッと顔を背けた。目元にからは雫が零れ出している。



 「ス、スーザン!ごめんなさい」


 「いえ、私こそ申し訳ありません」



 そう言って袖口で拭えば、少し微笑んでスーザンがこちらを向いた。



 「お嬢様は、死にませんよ。みんながあなたを愛していて、守りたいと思っているのですから」



 その言葉に私は、少しぎこちない笑顔で頷く。まだまだ怖いことには変わりない。きっとこの先も気持ちは不安定になるだろう。だけど、今だけはスーザンの言葉に少しだけ気持ちが前向きになった。

 さぁ、召し上がってくださいと勧められるまま、少しだけ冷めてしまったスープに口をつける。野菜の溶け込んだそれは優しくて、ほんのりしょっぱい味がした。

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悪役令嬢は箱庭世界で溺愛される 茶々丘 ライ @sasaoka-rai

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