第28話 祝福を君に
屋上へ上がると、皮肉なくらい空は澄み渡っていた。
第一区にある浄化塔の屋上はこの都市のどの場所よりも高く、街が一望できる。都市の外部にある湖までよく見える。第一区画は静かで、だがそれ以外の地区では今も変わらず人が生きている。そのことに笑いが溢れた。
数多のクラン・シーの命を喰らい、今はリッカを生贄にしてこの都市は在る。皮肉にも、とても美しかった。
「リッカ」
真ん中まで歩いていくと、ユートは静かにその場に座り込んだ。
「リッカ、ありがとう」
だけどもういい、と呟く。
ユートが浄化システムを起動しようとした時、リッカはユートを止めた。その代わりにリッカはきっと今町全体を浄化してくれている。
能力以上の浄化はクラン・シーの自律を奪うとアイノは言っていた。グレースの攻撃を弾いた後苦しそうだったのは、きっともう意識が朦朧としているからだ。
その状態で、ユートを守ってくれたのだ。
「……今からでも、浄化システムを起動させてくるよ。それが終わったら君は──」
「要らない」
と、ユートが運ぶがままに任せていたリッカが口を開いた。見下ろすと、薄く開いた宙の瞳がユートをじっと見上げていた。そうして、真白の妖精は悪戯が成功したみたいに嬉しそうに微笑んだ。
「だって始めからそのつもりだったもの」
「……っ」
こみ上げるものがあった。胸の奥が熱くて、そんなの知ってるよ、と心中でこぼした。分からないはずがないだろう、と。
『わたし一人で済むかもしれないのに?』
だってユートがリッカにこの都市を離れるよう告げた時、リッカはそう言った。初めからその選択肢を考えていなければ、そんな言葉出てこない。
薄々気付いていて、だからここへ来る前に突き放そうとして。やっぱり無理で。それでも何とか最後まで突っぱねようと思っていたのに、結局甘えて──。
「良いんだ……、リッカ。君がそんな事をしなくても……っ」
これは人間の問題だ。元よりリッカには欠片すら背負う意味も価値もないお話だ。
「君は、自由に生きられるんだから……っ」
「止めないわ」
だが、はっきりとリッカは言うのだ。こんな時なのに、今まで見せたことがないくらい優しい顔をして、ユートを見上げる。
「お前聞いてたでしょう。一度始めるとわたしの意思でしか止められないのよ。わたしが止めないと言ったら止められない」
大丈夫、いなくなるわけじゃないわ。とリッカが歌うように紡ぐ。
「わたしはあんな出来損ないの集まりとは違うから。お前達が早く全部終わらせて、早く起こせばいいだけよ」
「それじゃ間に合うか分からないだろ──!」
堪らなくなって叫んだ。
浄化塔のクラン・シーの寿命は一年から二年。どんなにヴィルヘルムが優秀でも、この都市の全ての住民をそんな短期間で移住させられる訳がない。
「君を使い潰して、またきっと……」
人間は浄化塔を動かそうとするだろう。生きるために。それでも破綻したシステムは戻らないから、最後には──。
「……大丈夫」
何の根拠もないのに、リッカが笑う。
「心配しなくても移住は最後までちゃんとヴィレがやってくれるわ。約束したもの」
「約、束?」
「ちゃんと浄化をしてあげる代わりに、一人残らず生きて移住させなさいって」
「どうしてそんな──っ」
それこそリッカには何の得もない。見返りも何もない。途端にリッカがおかしそうに笑った。
「いいえ、あるわ」
とびっきり楽しそうに笑って、真白の少女は口にする。
「お前がもう、一人きりで故郷の町を歩かなくていい」
息が、止まった。
信じられないように、腕の中の妖精を見つめる。
ユートの町が空間侵蝕に侵された後、ユートは母の元を離れた後、たった一人で故郷の町を歩いた。もう町は静かで、時たま聞こえるかすかな呻き声が、まるで消えない怨嗟のようだった。たった一人リュックのストラップを握りしめて、母に背を向けて。町を抜けた、そのこびりついた記憶の残滓を──。
この都市がいつかは同じにならないとは限らない。
必ず全員の移住が間に合うだなんて無邪気に信じてはいなかった。それでも最後までヴィルヘルムのそばで手伝おうと決めたのだ。
間に合わなかったら最後は──、またあの街の中を歩くことになるのだと、どこかで思っていた。だけど。
「きみは……」
声が震える。
「君は、そんなことのために──?」
確かにこの都市はオーガストの欲望でできた都市だ。
だけど住民に罪がないわけじゃない。誰もが浄化システムに疑問を持たなかった。
その存続を疑わず、安寧に身を浸し、考えることを放棄した人間の末路なのだ。滅びるのは自業自得だ。
それなのに。
「そんなこと?」
リッカが笑う。
「何万人の命よりも、見た事がないクラン・シーの命よりもわたしが大事だとお前は言った」
わたしもそう、と吐息のようにリッカが吐き出す。
「他の人間なんてどうでもいいわ。でも、お前のことは好きよ」
「……っ」
そっと伸ばされた手がユートの頬に触れる。その手を上から握りしめた。
「大丈夫。いなくなる訳じゃないわ」
「でも、他のクラン・シーは……」
「だから出来が違うと言ってるでしょう。もちろんどれくらい保つかは分からないけれど。起きていると負担がかかるから、浄化以外の機能は止めないといけない。だからお前と話すのはしばらくは無理ね」
いつものように偉ぶって、全部終わったらお前が起こしなさい、とリッカが言った。
「今まで散々人を待たせたのだから、次はお前が待つ番」
口を開こうとして、言葉が出なかった。
ダメだ、もうリッカは決めてるんだ。そう思った。
ユートの決意はいつもブレてばかりで、オーガストの言う通り中途半端だ。それに比べてリッカは全く迷わなかった。
謝罪が口をつこうとして、堪えた。込み上げるものを殺すように、奥歯を噛み締める。それでももう、泣きそうだった。
「──わかった」
うん、と頷いてリッカの手を握る。何とか笑ってみせる。だけどもうずっと、胸の奥が締め付けられるように痛くて。
「僕が、起こすよ。必ず、君を……」
引き千切られそうなくらい、痛くて。
リッカは満足そうに笑って目を閉じようとして、だがすぐに何かに気付いたように薄く目を開いた。
「一つ、大事なことを忘れてたわ」
「何?」
コルムに聞いたのだけど、ともう吐息のような声でリッカが漏らす。
「人間達が昔妖精と呼んでいた生き物は、気まぐれに人に祝福を与えたらしいの」
「祝福?」
「うん。だからわたしも、お前に祝福をあげる」
ふわりと純白の妖精が笑う。
「何を……?」
そっとリッカの指が、痛みを抱くユートの胸を押した。
「感情のない妖精は、そもそも痛みなんて感じない」
目を見開いた。
ずっと痛む、胸の奥を指差して。
「この痛みを、お前に残してあげる。わたしが起きるまでずっと」
リッカが微笑んだ。何よりも美しく、愛らしい、純白の妖精。
「──その痛みが、お前が人間である証拠よ」
リッカの触れた箇所から熱を持つようだった。
リッカの言葉が溶けるように、ユートの先端まで染み渡っていく。歯を食いしばったけど、堪えきれず嗚咽が漏れた。リッカ、と声が落ちる。ポツリと、リッカの頬に雫がこぼれ落ちた。
「……っ、う、く……っ」
堪えていたものが溢れ出した。ポトポトと涙を落として堪えきれない声を漏らすユートの頬を、白い手がそっと撫でる。涙をこぼす少年の姿を愛おしげに撫でると、リッカが小さく呟いた。
「──優しい子」
「────っ」
その瞬間、脳裏で記憶が弾けた。
『じゃあ、僕の名前ももしかしておばあちゃんやおじいちゃんの故郷の名前なの?』
母がうん、と嬉しそうに笑った。
『ゆうとの名前はね──』
『うん』
『優しい人って意味なのよ』
それはきっと祈りだった。
願いだった。
ずっと思い出せなかった、母の想いそのものだった。
「……うん」
頷いて、リッカの手を握りしめる。
母が望み、君がそう言うのなら──。
「僕は、その言葉を何より信じるよ」
心無い誰かの言葉よりも、自分を好きだと言ってくれた君の言葉を信じよう。
例えこの先どれ程自分を信じられなくなったとしても、君の言葉なら信じられるから。
リッカの手からゆっくりと力が抜けていく。細められた瞳に輝く星は、暗い道ゆきを照らす道標のようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます