第26話 選択(1)
エレベーターがチン、とかすかな音を立てて上階についた。
リッカと共にエレベーターから降りると廊下に出る。前回ここへ来たのはまだ二日前のことだ。信じられない、もう随分前のことのように思える。
(これで、終わりだ)
隣にいる妖精とも、本当にさよならだ。そう思うと廊下が酷く短いものに感じた。扉にたどり着く時間が名残惜しく、リッカのいないこの先を思うと心細くもある。
「リッカ」
「何?」
隣を歩いている妖精がユートを振り仰ぐ。
リッカは結局ここまで一緒に来てくれた。これからユートがする事をリッカは許せないはずなのに、最後まで一緒にいてくれる。それが申し訳なくて、だけど心強いのも本音だった。
「──ありがとう」
謝罪の言葉も喉元までこみあげたけれど、リッカに言えば『何故謝るの?』と言われてしまう気がするからお礼だけを。リッカはパチパチと目を瞬かせて『うん』と珍しく曖昧に返事をした。
一度息をつく。後はもう、進むだけだ。
ポケットからカードキーを取り出すと、メインルームの扉にかざした。認証が走って、すぐに扉は開く。
扉が開いたのと、高い天井に乾いた音が響いたのはほぼ同時だった。
「え?」
目の前で見えない壁のようなものが何かを弾いていた。
軽い金属音が床に落ちて音を立てる。室内に立っていた人物は無言でもう一度ユートに向かって引き金を引いた。同時にユートの眼前の空気がまた張り詰めた音を立てた。パン──ッ! と銃声よりもずっと高い音で空気が弾ける。
「な……」
そして、目の前にはいるはずのない人物が立っていた。
「……市長?」
呆然として発砲したオーガストを見つめる。対するオーガストはいつもと変わらないゆったりとした口調で答えた。
「残念だね。不意打ちならいけると思ったんだけどな」
君は良い相棒を掴まえたね、ユート。
そう穏やかに紡ぐオーガストはまるで出来の良い息子を褒めるような口ぶりだった。ユートが固まっているのを見て、とりなすように笑みを浮かべる。
「あぁ、大丈夫。殺す気はなかったよ。ちょっと怪我をしてくれれば良かったんだ」
「どうして……」
「クラン・シーには人間の身体を癒す術がないからかな」
「そうじゃなくて──!」
オーガストの答えは全く明後日の方向の答えだ。その上で意味を理解すれば、背筋に悪寒が走るような返答だった。言葉が通じない。そもそもどうしてオーガストが浄化塔にいるのかが分からない。ヴィルヘルムはすぐに拘束すると言っていたのに。
「どうして今、アンタがここにいるんだ!」
そこでようやくオーガストはユートの質問の意図を察したらしい。あぁ、と軽く眉をあげて答える。
「ヴィレの事だね。残念ながら君たちが見ていた中継は録画映像だから私は元々中継場にはいなくてね」
驚いたよ、とオーガストは肩をすくめてみせる。
「彼は昔から良く家を出て遊び歩いていたのは知ってたけど、遊びたい盛りなんだろうと自由にさせていたのが裏目に出たね。いつの間にこんなに味方を作っていたのやら。私が甘くしすぎたせいかな。どちらにせよ反省したよ。やはり禍根は残らず絶っておくべきだった」
「アンタは……っ」
沸々と怒りが湧き上がる。その台詞は、己が前市長夫妻を、ヴィルヘルムの両親を殺したと認めたようなものだ。
あぁ、でも。と思いついたようにオーガストが言葉を重ねる。
「君のことは今でも祝福だと思っているよ、ユート」
本当に羨ましい。と何を取り繕うこともなく本心からオーガストは言う。
吐き気がした。
「多くの人間が呪いだと言うことが本当に馬鹿らしい。フェアリー・ギフテッドほどの祝福はこの世界には存在しないだろうに。実際君は心根も可哀想なくらい真っ直ぐだからね」
でも、とオーガストが目を伏せる。
「だから読み違える」
その時、空気がかすかに揺れた。
外部であれば確実に気のせいだと思えるわずかな揺らぎ。何のことだ、と問おうとしたユートの首筋に不意にぴちゃりと生温かい液体がかかった。
「……え?」
ユートの背後に浮かんでいたリッカの身体が唐突に傾いだ。背中に少女の重みがかかり、突然のことに驚いて振り返り、倒れてきた少女の身体を抱き留める。
「一体どうし……っ」
瞬間、回した手がぬるりと滑った。は、と声が漏れる。白い床に赤い点が、絶え間ない雨粒のように落ちていく。
「リッカ────ッッ!」
悲鳴のような引き攣った声が漏れた。視界の端でオーガストが銃を構え直した。咄嗟に抱き込むようにリッカを庇う。間髪入れずに天井に銃声が響いた。
「──ッッ」
撃たれた、と思ったのに痛みはなかった。代わりに高い音を立てて銃が遠くに転がっていくのを視界に捉えた。恐らく弾いたのはリッカだ。
倒れ込んだユートの腕の中で、抱かれたままの少女がカハッと血を吐き出す。器官に詰まった血を何度も咳き込んで吐き出す。混乱する頭が止血、という言葉を何とか弾き出した。袖を千切ろうとポーチからナイフを取り出そうとした手を、鮮血の滴る細い手が止めた。
「だい、じょうぶ」
「そんな訳ないだろ⁉︎」
「そんな場合じゃ、ないでしょう……?」
ゆるゆると開いた瞳には、強い光が宿っていた。視線の先にはオーガストと、いつの間にか隣にグレースが佇んでいた。倒れたリッカを見るオーガストの瞳は冷ややかだった。血を流すリッカを何か穢らわしい物でも見るかのように見下ろしている。だがそれも一瞬だ。
その表情はすぐに親愛さえ感じられる笑みにとって変わる。
「見事だね。身体を著しく損傷しても警戒は解かない。確実に撃てたと思ったのに、また防がれた。だけどやはり経験値ではグレースにはまだ遠く及ばないようだ。リッカは危機的な状況に陥った経験がないから警戒が浅い」
──不意打ちだから出来たのよ。二度目はないわ。
「分かっているよ、グレース」
傍らの妖精をそっと撫でて、思い出したようにオーガストは続けた。
「あぁ、でももう八区は間も無く時間切れだね、間も無くあそこは妖精域にとって変わるな」
「な……⁉︎」
ユートが目を剥く。その間にもリッカの首筋を押さえるユートの手が赤く染まっていく。
「せっかくだから少し昔話をしようか」
目の前で流れる血に構うこともなく、オーガストが歌うように言った。
「こんな時に何を言って……!」
「君に時間をあげると言っているんだ。大丈夫、クラン・シーは人と違って人体の損傷が命の危険に繋がることはない。回路として脳を使っているに過ぎないからね。リッカ、今の内に傷を塞ぐといい。君が浄化すら出来ない状態になると私も困るからね」
リッカは返事はしないが、納得したようだった。短く息をつくと、目を閉じる。その様子に目を細めると、オーガストは口火を切った。
「私がグレースと出会ったのは実に十六年前のことだ。あまりの美しさに目を奪われたよ。私の運命だと、心より神に感謝した」
妖精は美しいね、とオーガストは語る。
「人間のような汚らしい構造をしていない。死に際すらオーロラか星空か、とにかく奇跡のようだ。頭を吹っ飛ばしても、人間のように醜い脳髄をぶちまけることは無いんだよ」
直接的な物言いに顔を顰めてしまう。同時に不信感もわいた。普段のオーガストであればこんな乱暴な物言いはしない。やはりヴィルヘルムに立場を追われて自暴自棄になっているのかもしれない。
(だとしたら、どこかに隙が……っ)
そう思っていると、オーガストがふっと目を伏せた。知ってるかい、ユート。と低く落ち着いた声が紡ぐ。
「何をですか」
押し殺した声で問う。今はリッカを回復させる時間が欲しい。
「聖域は妖精を嫌うんだ」
初耳だった。知る訳がない。聖域が存在する事すらこの都市に来て初めて知った。存在は認知していてもユートにとって中身はブラックボックスだ。
「あぁ、人がという意味ではない。土地が、空間が、と言うべきか。美しい彼女たちを寄せ付けないんだよ」
酷く不快な事実を告げるように、オーガストは吐き捨てた。
「考えてみてくれ、そんな場所に放り込まれるだなんて絶望だろう。何の罪も犯していないのに、死ぬまで日の当たらない牢獄で暮らせと言われたらどうする? 抗うだろう、当然だ」
「まさか……」
ずっと疑問だった。
どうしてそんなにオーガストはティルナノッグにこだわるのだろう、と。何故クラン・シーを犠牲にしてまで、この都市を維持したいのだろうと。
「アンタは、そんな事のために……、この都市を作ったのか──?」
ヴィルヘルムの父親を失脚させて。
すでに組み上がっていた移住計画を白紙にして。
絶句した。声が震える。理解できない。クラン・シーは元は人の子だ。自分一人の望みのために、どれだけの子どもを犠牲にしてきたというのだ。
心外だというようにオーガストが首を振る。
「そんなこと? とんでもない。私にとっては聖戦だよ。グレースとの出会いは託宣と言ってもいい。私はこの都市をどうあっても維持する必要がある。私が望むものは酷くささやかなものだ。空間侵蝕は災害で、もたらされた世界で人は生きていくしかない。そして私は妖精を美しいと思うんだ。この美しい世界を、ただあるがまま目にして生きていたいだけだ。何故拒むんだ?」
背筋が震えた。だってオーガストの言葉には嘘がない。言葉はどこまでも真摯で、きっとこの人は本気でそう思っている。
「妖精を、美しいと言うなら……」
怒りで声が震える。目の前の理解できない生き物を睨みつけて、ユートは声を絞り出す。
「それなら何故……、同じ妖精のクラン・シーを犠牲にできるんだ⁉︎」
コルムは言っていた。クラン・シーは人の身体を素体にしているものの、妖精に近い生き物だと。オーガストの言い分をそのままとるなら、クラン・シーをどうして物のように扱えたと言うのだ。
オーガストは動じなかった。ただピクリと不快そうに眉を動かした。
「同じ? 同じ訳がないだろう」
ユートの腕の中にいるリッカを睥睨して、オーガストは息をつく。
「見てみなさい、その娘が垂れ流しているものを。人間の肉体は醜いよ。クラン・シーは人と同じ構造をしているから」
私もクラン・シーに夢を抱いていた頃はあったよ、と静かにオーガストが吐き出す。
「クラン・シーは妖精の愛し子。妖精と人の完全な融和だと胸を弾ませた時期はあった。自分が変われないことがあまりに悲しかった。だから代わりに自分の血を引く者にクラン・シーになってもらえたらと思ったんだ」
ちょうど妻が妊娠中でね、と語る声は軽やかだ。
「彼女は切迫早産で入院していたんだ。妊娠九ヶ月だったかな? グレースにその街が空間侵蝕に飲まれると聞いた時は天啓だと思った。今なら腹の子供をクラン・シーに出来るんじゃないかと、そう思ったんだよ。だからグレースに頼んでみたんだ。子どもをクラン・シーにしてくれないか、って」
ユートの手が、震えた。まさかこの男は。
「胎児であれば成功率はもっと上がるんじゃないかと思ってね。勿論問題はあった。胎児をクラン・シーにする場合は母胎は死ぬことになるからね。でもその町は空間侵蝕が起きるのだから、どうせみんな死ぬだろう?」
「おまえ、は……自分の、奥さんを……」
「違う、妻は災害で死んだんだ」
心底残念そうな口調でオーガストは言う。
その口調に悪意などない。美しい人だった、と語るオーガストの口調は愛で溢れている。
「クラン・シーは繭を作るから発見も容易だと思ったんだけどね、残念ながら見つからなかったんだ。病院は侵蝕で解け落ちてしまっていたし。とても残念だった。だけど、その後に私のクラン・シーへの個人的な興味は失せてしまった。妖精と同じ姿をして、同じ能力を持っているが故に、余計に悪質なレプリカに見えたんだ。殺意さえ湧いたよ。だけど私には別の理由でクラン・シーを必要とする理由が出来た。そうして十六年が経ち、その町で繭が見つかった」
スッとオーガストの目が細められる。
ポツリと、オーガストがある都市の名前を口にした。
聞いたことがある名前にハッとする。その都市の名前は──。
「そうだ、ユート。君がリッカを見つけた町だ。リッカを見つけてきてもらえるように市外の人間を派遣したんだよ。そう、良い具合に君たちが壊してくれたあの男だ」
「何、で……」
腕の中のリッカを見下ろす。浅く息をしているリッカの目は閉じられたままだ。聞こえているか聞こえていないかは分からない。
「見つからなかったのは当然だった。リッカは母親の胎の中で繭を張っていたから。目覚めないのも当然だ。彼女はこの世界で目を開いたことがなかったのだから。でもひと目見てわかったよ。だって彼女は母親ととてもよく似ていた」
間違いない。とオーガストは頷く。
「リッカは私の娘だよ、ユート」
娘。
信じられない言葉に二の句が繋げなかった。じゃあ初めからこの男は、自分の娘に自身の欲望を負わせるつもりだったのか?
ただ呆然と、目の前の男と後ろにたゆたう紅の妖精を見つめる。
ゆっくりとユートはリッカを見下ろす。いつの間にか血は止まっていた。ゆっくりと上下する胸の動きで、リッカが生きていることは分かる。
「だからリッカを返してもらおう。君には悪いけれど、それは元々私のものだから」
ギュッとリッカの身体を抱えた手に力を込めた。下を向いたまま、ぽつりと呟く。
「……演説で言っていた、移住計画を進めると言うのは?」
オーガストの要求には応えていなかったが、オーガストは鷹揚な態度で答えてくれた。
「すまないね。アレだけは嘘だ。そうしないと市民が納得しないと思ったから、一芝居打っただけさ」
「なら、本当にあなたはこの都市を維持すると言う目的のためだけに、リッカが必要なんだな?」
今も第八区の住民を危険に晒しながら。
「うん、そうだ。それだけが私の望みであり希望だから。──グレース」
その瞬間、顔を伏せていたリッカがカッと目を見開いた。
「ユート、伏せて──ッ!」
空気が圧縮した。薄く、疾く、発生した風の刃が四方八方から指向性を持って放たれる。ユートの腕の中で純白の髪がぶわりと広がった。内から外へ広がった空気の壁がその斬撃を吸収する。
弾かれた赤の一撃が地面を抉り、ジュッと床を溶かす。ユートが反応する暇などない。目の前に起こる光景に頭がついて行かない。処理しきれない。リッカが短く息を吸う。斬撃の全てを吸収する防壁を展開したまま、キッと眦を吊り上げる。途端冷ややかな空気がユートの背中から漏れ出した。
── ──────
── ──── ──
まるで弦を弾いたように、空気が断絶し、震える。
瞬間、攻勢が逆転した。
雪が舞うように、室内が白くけぶる。全ての色をかき消していく。あまりの鋭い風に目を開けていられずユートは目を瞑った。
直後、バチ──ッ! と明確に何かが破壊された音が耳に届いた。
「…………」
恐る恐る目を開く。ふーふーッ、と荒い息をついたリッカの身体から力が抜ける。その身体を抱き留めた。
今のは、何のために……?
オーガストとグレースは怪我をした様子もなく立っている。グレースが何をしたのかが分からず、ユートは周囲に視線を走らせる。
(今、何か、壊れて──)
振り返ったユートの目線が、大きく抉られた壁を捉えた。そして同時に壊れた物が何かを理解した。
「な、んで……」
破壊されていたのは浄化システムの制御パネルだった。壁に埋め込まれた、オーガストが前回操作していたパネル。
「まさか……」
これを失えば、ここから遠隔で第八区画の浄化システムを操作することはできないのではないだろうか。
「うん。その通りだよ」
クラン・シーのように人間の思考を読めるわけではないのに、まるで聞こえているかのようにオーガストが返事をした。
唇が震える。
心臓が脈打つ音が、大きくなる。
引き攣った息を繰り返しながら、取り返しのつかない現実を前に温度が引いていくのを感じた。これでは、これではもう何も──。
「これでもう、八区を救う手段はなくなったね。ユート」
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