第21話 感情

 朝の日の中でいて尚、色を失わない雪のような少女が立っている。一瞬幻かと思ったのに、瞬きをしても彼女の姿は消えなかった。


 吸い寄せられるようにユートはベッドを降りて立ち上がる。


「どうして……?」


 近づこうとして、すぐに立ち止まる。だってユートは、あの時間違いなくリッカの気持ちを裏切った。近づいて良いのか、分からなかった。


「何故? お前が呼んだのでしょう?」


 対してリッカはユートの感傷などぶった斬るようないつも通りの声で答えた。いや、いつも通りではない。リッカの声は明らかに険を含んでいた。


「えっと、僕が……?」


 戸惑ったまま、助けを求めるようにヴィルヘルムを見る。

 だがヴィルヘルムは何も知らないというように、無言で肩をすくめてみせた。


「じゃ、俺はリビングにいるからゆっくり話せよ」

「ちょっ!」


 それどころかヒラヒラと手を振って、さっさとヴィルヘルムは部屋から出ていってしまう。待ってくれ、と思ったが声にはならない。前後の話が分からない。どうしてリッカはここにいるのか。


 呆れまじりにため息をついて、リッカが再び口を開く。


「お前が会いたい、って言ったのよ。だから来てあげたの。それなのにお前は呑気に寝ているものだから流石に叩き起こしてやろうかと思ったけれど、ヴィレに少し待つように言われたの」


 感謝なさい、とリッカが突き放すように言う。どう見ても不機嫌だ。


「す、すみません……」


 雰囲気に気圧されてとりあえず謝る。でも、もう会えないと思っていたのだ。会ってくれないと、思ってたのだ。


「……その、呼んだとして、来てくれると思ってなかったんだ。僕は君に酷いことをしたから──」


 ユートの言葉にリッカが不可解だというように眉を上げる。


「酷い事をしたのはお前ではない人間でしょう。お前たちは当に全を失った生命体のはずなのに、何故個を意識できないの? 個体を識別できない訳ではないのでしょう」


 リッカだった。


 発言に容赦が無いところまで、間違いなくリッカだった。その事に安堵してしまった。目の前にいる少女がつい昨日までそばにいた妖精であることに、全く同じ空気をまとっていることが、奇跡に思えて。


(……現金なやつだな、僕は)


 一度は怖いと思ったはずなのに。会えると嬉しかった。きっと嫌われたと覚悟していたのに、言葉を交わしてくれることが嬉しかった。うん、でも。とユートは何とか笑ってみせる。


「それでも、もう会いに来ないかと思ってたんだ」

「何も解決していないのに? 今のお前は本当に意味がわからない」


 そう言ってリッカの白い足が、木の床を八つ当たりみたいにかすかに蹴った。リッカの口調はやはり怒っていた。そして少しだけ、もしかしたら勘違いかもしれないけれど、どこか拗ねているようにも聞こえた。


 だから歩み寄って、手を差し出した。


「リッカ。僕と話をしてくれる気はある?」


 一度は突き放した自分と。


「まだ、僕は君に、話を聞いてもらえるかな──」


 リッカは宙の瞳を細めてユートが差し出した手を眺めていた。そして少し不機嫌そうに片頬を膨らませる。


「お前、分かって聞いてるでしょう?」

「え?」

「わたしに甘えて言ってるでしょう。そういうの、もう分かるんだから」

「え、そんなことは……」


 焦って差し出した手とリッカを見比べるが、リッカはハァ、と一際大きくため息をついてユートの手に小さな手を重ねた。いいわ、と吐き捨てて。


「聞いてあげる。お前がそうしたいと言うのだから」



   ◇



 バルコニーにあるソファに腰掛けて、初めに今まで何をしていたのかを聞いた。目覚めたヴィルヘルムの話から推測して、浄化できていない区域は現在第一区画だけだ。リッカは他の浄化塔のクラン・シーを殺さなかったのだ。


「塔を見て回っていたの」


 ユートの問いにリッカは静かにそう答えた。


「終わりそうな個体がいるのであれば、助けようと思ってた。でもまだ大丈夫だったわ。多分、まだあと少しは……」


 リッカが初めて言い淀んだ。


「……リッカの助ける、っていうのは、どういう意味なんだ?」


 思い返してみれば、リッカはあの場所で『殺す』だなんて一言も口にしなかった。そう口にしたのはオーガストで、彼女はあの時『助けてあげる』と口にしたのだ。リッカは一度黙って、それから口を開く。


「そうね。お前達にとって、それは殺すと言う意味になるものね。苦しいのは肉体があるからでしょう。わたしたちにとって肉体は本体ではないから楔を切るの。そうしたら還れるから」

「帰る?」

「えぇ。わたしたちの命がある場所に還るわ。それに──」


 聞こえていたの、と小さな声が紡ぐ。


「何が?」

「本当はずっと、聞こえていたの。あの子達の声。奥で響いていたの。目覚める前からずっと──。その意味を、わたしがわからなかっただけで」

「──」


 リッカの言葉は相変わらず抽象的でわかりづらい。だけど、ようやくユートにも意味が飲み込めてきた。


『彼らの意識はその深層では全て収束していると言われている』


 そうアイノは言っていた。きっとリッカは、あの眠り続けるクラン・シー達の声を、ずっと聞いていたのだ。


 起きてからも聞こえていた、と淡々とリッカが紡ぐ。


「けれど呼びかけても何も返らないから。彼らの意思が言葉だとようやく理解できても、どこにいるのかも分からなければ、何をしたらいいのかも分からなかった」


 そうしたら、と初めてリッカの声がかすかに震えた。


「助けて、って聞こえたから──」


 小さな唇を引きむすんだまま、リッカが顔を上げる。感情を感じさせない凪いだ瞳は、いつも遠い宙を映しているようだった。

 昔絵本で見た宇宙のような、静かな星海。それが、今は少しだけ揺れていた。


「あの子たちを見た時、制御がきかなくなったのはわたしの欠陥よ。身体が熱くて。先に引き裂かないと、自分が散り散りになりそうだったの」


 リッカが自分の手に視線を落とす。ようやくわかったわ、とポツリとこぼす。


「きっと、あれが『怒り』なのね」


 その時リッカの手が震えていることに気付いた。小刻みに震える手を、どうしてか分からないというように見下ろして、リッカはユートに視線を戻す。


「今は、少し違うの」

「……」

「ポッカリ、穴が開いたみたいなの」


 リッカの言葉は淡々としていた。感情は平坦で、どこにも動揺は見えないのに、まるで置いて行かれた子供のような心細さがある。


「そこに雫が、たくさん落ちていくの」


 ポツリポツリと。置き所のないリッカの言葉は、誰にも受け取られないままこぼれ落ちていくようで。それがどうしようもなく苦しくて。


 いっそ泣き叫んでくれた方がずっと良い、と思った。


「こぼれ落ちていくのに、どこにも落ちないの。ただ、真ん中が痛くて……。これは……」


 リッカが落ち着いているのは、彼女が強いからでも何でもない。ただその感情を、知らないだけで。だから──。


「──ユート?」


 気付けば小さな身体を抱きしめていた。リッカの身体はユートより一回り以上小さくて、この子はこんなに小さかったのかとその時初めて気付いた。ごく近くで聞こえた不思議そうな声に、奥歯を噛み締める。


「それは……」


 震える声でユートは紡ぐ。ギュッと細い身体を抱きしめて、泣きそうな声でユートは続けた。


「それは、『悲しい』って言うんだよ。リッカ」

「────」


 想像する。リッカが十の施設をたった一人で見て回るその光景を。


 ポッドに寝かされた小さな子どもたち。

 表情はなく、声はなく。だけどきっとリッカはきっとその声を聞いてしまうのだ。


 虚ろな瞳で宙を見るクラン・シーの声を聞きながら、自分はただ見ているだけ。何もせずにずっと、ずっと見ていることしか出来ない。


 どうして?

 簡単だ。


『苦しいのね、お前』


 それはきっと、たった一人の人間のわがままのためだ。


 どれほどの痛みだろう。

 どれほどの苦しみだろう。


 一体どれほど打ちのめされたのだろう。


 歩くたびに傷ついていく心に気付くことさえ出来なくて、開いていく穴の意味を理解することもできないままで──。考えるだけで、胸の中からやるせなさがこみ上げた。


 抵抗する事もなく、抱きしめられたままじっとしていたリッカがやがてそう、とポツリと呟いた。


「わたし、ずっと悲しかったのね──」


 追いついた感情が雫となって、ようやくリッカの頬を流れ落ちた。



   ◇



 月が出ている。


 この季節ティルナノッグは昼が長く、太陽は二十二時頃まで沈まないから月が拝めるのは夜も更けた頃だ。今はもう深夜と呼べる時間帯だった。


 何となく眠る気分にはならなくて、ヴィルヘルムは光のない部屋で読みもしない本を片手に天井を見上げていた。

 オーガストの演説を乗っ取るのは、別段緊張している訳でもない。緊張して眠れなくなるような可愛げのある人間でないことは自分が一番よく知っている。


 強いてあげるなら、賭けをしていた。

 この局面を変えうる博打のような賭けを。そして──。


(──来たな)


 声もなく、音もない。

 衣擦れ一つさせずに背後にかすかに蝶が羽ばたくような気配がした。それだけで誰

 かは察せる。


「夜這いか?」


 振り返って、笑いかけた。

 大抵の女性が赤面するような甘い声を意識してみたが、やはり訪れた相手には全く効果がないようだった。


「気配に聡いのね」


 顔色一つ変えずにそう言うと、白いクラン・シー、リッカはソファを文字通り飛び越えて、ヴィルヘルムの前に浮き上がった。


「冗談はきかない……と。何か用か? 君も夜は寝てるようだってユートに聞いてたが」

「別に眠らなくてもそんなに支障は出ないわ」


 ヴィルヘルムの前にふわりと銀糸の髪が広がる。バルコニーから差し込む月の光が少女の姿をなぞるように照らしている。確かにヴィルヘルムでも感嘆の息をつきたくなる。目の前にいる妖精は美しかった。


「だけど落ち込んでたんだろ?」


 ユートとリッカの話を聞いていた訳じゃない。

 そんな下世話なことはしないが、リッカと話した後のユートの気遣いぶりを見ていれば自ずと察せてしまう。リッカは少しだけ思案するそぶりを見せて、そうね、と頷いた。


「でも大丈夫よ。ユートに会うまではモヤモヤした感情がつっかえていたのだけど、今は無くなったみたい。涙というのは肉体に必要な機能だと認識していたのだけど、感情の自浄作用にも使うものなのね。肉体を有している今は、身体の反応は単純に精神と切り離して良いものではないのかもしれないわ」


 リッカは大層真面目な顔で、だが他人事のように自分の変化を分析してみせる。言葉には揺らぎがなく、どこまでも安定している。ユートとは正反対だ。


「じゃあ何の用だ?」


 この様子ではユートはもう寝ているのだろう。流石に起きたのならベッドを開け渡してやる理由はないので、今夜はリビングのソファで眠っているはずだ。

 果たして、リッカは躊躇なく答えた。


「ユートに話したお前の話。欠陥があるわ」

「…………」


 ヴィルヘルムは綺麗な笑みを口元に浮かべたまま黙る。沈黙を是と捉える感情の機微はあるのだろうか。リッカは怒ることも蔑むこともなく先を続ける。


「クラン・シーを犠牲にせずに長期間この都市を維持することは不可能よ。わたしたちを使い潰さない方法があるならすでに実用化されているはず。人道的な観点ではなく実用的な観点として。そのほうが効率がいい。お前、外の話をすることで誤魔化したわね」

「なるほど、確かに」


 この辺りは気付かれるかもしれないと思っていた。予想の範疇だ。

 だがリッカはすぐにもう一つ、と口にした。


「この都市が妖精を保護しているように聖域はクラン・シーを保護している。今の状況でお前はどうやって聖域と話をつけるつもりなの?」


 思わず目を見開く。リッカは一足飛びにヴィルヘルムがユートに明かす気の無かった事実を突きつけてきた。


「……なるほど。認識を改めよう。これは強敵だ」


 いたずらがバレたような気持ちだった。ユートだけなら騙せる自信はあったのだが、このクラン・シーを相手にすると難しいかもしれない。ヴィルヘルムは肩をすくめて、正直に認める。


「面白いな。君の学習能力が人間のソレとは桁違いだ。一月に満たない覚醒期間で、人間社会の軋轢まで読み取ってみせたのか。どこでそれを?」

「クラン・シーの特徴を掴んだの。認識を広げれば、自ずと彼らのいる場所は見えてくる。まだ物質情報には不慣れだけれど、精神を掴むのは容易いの」

「マジか。じゃあ他のクラン・シーがこの都市と同じ扱いを受けていないとなぜ分かる?」

「この都市にいるクラン・シーはほぼ全て把握したから個体認識が出来る。それ以外が外よ。そして外からは苦痛の声は聞こえない」


 思わずヒュウと口笛を吹いた。それだけでリッカは聖域と呼ばれる都市とティルナノッグの違いを見極めたのだろう。


「つまり保護されている、という認識に至ったと」

「えぇ、わたしはこの都市の在り方しか知らないのだから、そう処理するしかないでしょう。ただ、もしそうだとすれば、シチョウが聖域と連絡を絶っただけではなく、あちらからも連絡を断たれていると考えるべきではないの?」

「大正解だ。すごいな」


 素直に感嘆した。


 リッカの言う通り、ヴィルヘルムにはユートに言っていない事がある。再び聖域と交渉するというハードルの高さだ。


 聖域はクラン・シーを人類の希望として保護している。彼らの学習能力は非常に高く、情動を制御し、尚人類に協力的だ。クラン・シーは聖域では保護ではなく、それなりの地位と役割を与えられているという。そんな聖域から見て、この都市の在り方はどう映るだろう。それこそ愚問だ。


「ご想像の通り、この都市は聖域から蛇蝎のように嫌われている。クラン・シーは今も昔も外の世界にとっては人類の希望で、そしてティルナノッグはクラン・シーを大量消費している忌むべき都市だ。この都市の市民はクラン・シーの存在をそもそも知らないとはいえ、在り方自体が到底受け入れられるものじゃない。聖域にここの住民を引き受けられるキャパがあるなら、当に戦争になっている可能性もあるくらいだよ」


 つまり元々ヴィルヘルムの父が交渉を成立させていたとはいえ、かつてと比べて相当ハードルが高い。


「もちろん交渉は難航するだろうな。ただ俺は不可能だとは思っていないし、最悪都市の半分は移せるだろう。それだけでも全滅するよかマシだ」


 元よりヴィルヘルムはこの都市の避難が全て完遂できるとは思っていない。

 交渉期間も浄化塔は動かし続けなければいけないし、それだけで聖域の嫌悪は避けられないだろう。もし本当にこの都市の全ての住民を助けたいのであれば、方法として考えられるのは一つだけだ。


「お前はユートに出来ると言ってたわ。つまり嘘をついたの?」

「だとしたらどうする? 俺を殺すか?」

「いいえ」


 意外にもリッカは迷う事なく首を横に振った。少し驚いて、改めて目の前の妖精をまじまじ見てしまう。


「お前ずっと嘘はついているけど、ユートのことは好きだもの」


 相変わらず迷いも躊躇いもない声だった。確信して、当然のことを話すように、リッカは語る。へぇ、と口元に笑みが漏れた。

 

「君にそう言ってもらえるのか。ならそうなんだろうな」


 クラン・シーは人の情動を受け取る事ができる。

 正確さは個体によるし、受け取ったものを理解できるかはもっと個体によった話になるが、リッカは少なくとも正しく人を学習しているように感じる。だとしたらリッカの発した言葉は、ある意味ヴィルヘルムの自己認識よりもずっと正確だ。


「──そうだな。俺はアイツを裏切らないよ」


 静かに、ヴィルヘルムが答える。その答えは本心だった。


「どうして、って聞いてもいいかしら?」

「珍しいな。いや、俺は君のことをよく知ってる訳じゃないけど。妖精は感情の理由の在処は気にしないんだろう?」

「気にはならないけれど、人間には感情に理由が必要で大切なのでしょう。わたしはそれを理解しないといけない気がするの」

「ユートのために?」


 こくりとリッカが頷く。


「…………」


 確かに、人間は湧き立つ感情に理由を求めるものだ。それが強い感情であればある程、己の心に正当性が欲しいからだろうか。だがヴィルヘルムはあまり理由を重要視しない。起こったものが全てで、それで良いと思う。


 だがない訳でもない。

 ふと、目の前のクラン・シーになら話しても構わない気がした。ユートのために知りたいと言った、彼女には。


「……まず俺自身はオーガストと似た人種なんだ」

「そうね」

「即答するなよ。傷つくだろ」

「傷ついてないでしょう」


 リッカが間髪入れず否定してくる。

 そのスピード感に楽しくなってくる。これは話が早くて愉快だ。


「なるほどこういう感じか。ユートの気持ちがちょっと分かるな。目の前に他意なく自分の本音を引き摺り出されるんだな、君といると。これは確かにユートには劇薬だ」


 ヴィルヘルムは素直に面白いと感じるが、ユートはきっとたまったものじゃなかっただろう。何せユートはハリボテの見本市みたいな奴だから。


「それより理由の続きは?」

「すまんすまん。理由は簡単だよ。俺はそう言う人種だけどアイツは善人だ。それが全てだよ」


 ヴィルヘルムにとっては当に規定の事実を口にした。

 ずっとユート自身が否定し続けている己の人間性。そんなものはヴィルヘルムにとってはどうでもいい。ユートが自分をどう否定しようと、否定できない事実があるからだ。ヴィルヘルムから見たユートという人間はどこまでも善性なのだ。


「それが理由? お前、そんなニンゲンセイをしていないでしょう? ハクアイというのかしら? 程遠いと思うわ」

「……くっ」


 一切飾らない言葉にヴィルヘルムは耐えかねて吹き出した。どこまでも本質を前にして会話をするこの生物が面白くて仕方がない。


「……リッカ、博愛は違うぞ。博愛は善人も悪人も変わらず献身出来る心だ。それも確かに俺にはないけどな。フリならいくらでもするんだが」

「……? じゃあお前の言う『善人』の定義が狭いのね、きっと」


 このクラン・シーは本当に頭がいい。一を知れば十を知る。彼女の言う通りだ。


「あぁ、そうだな」


 幼い頃、ユートに初めに声をかけたのはヴィルヘルムからだった。最初は妖精モドキと言われる子供が、どれだけ非人間的なのかが気になった。それだけだ。だけど話してみれば拍子抜けするくらい普通の子どもだった。それを一時はつまらなく感じたものだが。


「善人って一口に言ってもいろんな種類があるだろうさ。人間のほとんどは多かれ少なれ善性は持っているだろうしな。本人の思想や状況によってうつろうものではあるが、まぁ善人自体は取り立てて珍しいものじゃないだろ」

「ならどうして?」

「──アイツは自分が人間かどうかを証明するために、迷いなく人を助けることを選んだからだ」


 きっとヴィルヘルムなら、その答えには行き着かなかった。人間というのは己のエゴでどこまでも醜くなれるものだ。


「人間を善いものだと信じてないと、あの答えは出てこないんだよ」


 そして多分──。


「俺の親父とおふくろも、そういう人間だった」


 自分とオーガストは似ていると思う。違ったのは、あの男は妖精を愛し、自分は両親やユートの人間性を好ましく思った。多分、それだけだ。


「それが理由?」

「あぁ。おかしいか?」

「いいえ。それをおかしいと判じる材料はわたしにはないわ」


 リッカが首を振る。ただ、と形の良い唇が紡ぐ。


「今のはお前を判じる材料にはなった」

「へぇ」


 美しい真白の妖精が、星の瞳でヴィルヘルムを覗き込む。そしてリッカは微笑んだ。その瞬間悟った。


(──そうか)


 リッカは恐らく最初から、ヴィルヘルムの賭けのことを承知している。


 それでいて目の前の生き物に手玉に取られる気などない。自分が選択の主体であるという自負がある。一切の否定を許さない、いや。そもそも否という選択が存在する可能性を考慮すらしていない。


「ヴィレ」


 自分がこの場の支配者であるという態度を一切崩さずに、人あらざる少女は満足そうにこちらの名を呼ぶ。


「お前、わたしとトリヒキなさい」



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