第20話 計画

 チラチラと閉じたままの視界をかすかに光が走る。


 ユートにとって、目覚めというのはいつだって心地よい泥の中から無理やり這い出すような行為だ。瞼は重く、大抵の場合開ける気にもならない。


 もう一度泥の中に潜り込むように温もりにしがみつくと、冷たい風が頬を撫でた。それが心地よい眠りから意識を現実へ引き戻そうとする。


 閉じたままの瞼の裏でふとカーテンの裾が風に揺れるシーンが浮かび上がる。


 薄いカーテンをチラチラと揺らすのは日の光で、それが閉じた視界の外で揺れているのだ。差し込む光を背にして、少女の影が揺れる。寝返りを打ってまだ起きたくない、と布団に潜り込む自分を彼女はただ見ているだけだ。

 諦めて起き上がるまでじっと待っている。文句をこぼすこともなく、ずっと。


 ようやく観念してユートが目を覚ますと、瞳を覗き込んでかすかに笑うのだ。


『おはよう、ユート』


 そうだ。僕は。


(あんなに酷いことをしたのにまだ……)


 どうしようもなく、君に会いたいのだ──。



   ◇



 ふっと意識が持ち上がった。


 コチ、コチ、と時計が針を刻む音がする。視界に映ったのは見慣れない木の天井で、ウォルナットのシーリングファンがゆっくりと天井で回っている。


 起きあがろうとして、胃がムカつくような気持ち悪さを感じてもう一度枕に沈む。心地よい寝起きなんてとんでもなかった。口元を押さえたまま、ユートはかろうじて布団の中で身体をひねった。


「──あぁ、起きたのか」


 と、聞き慣れた声がしてユートは声の方向に顔を向けた。ちょっと待てよ、と横柄に言って、声の主はこちらに背を向けたまま机で作業をしている。かすかに聞こえる金属音と机にはみ出した黒い部品を見て、彼がバラした銃を組み立てているのだと分かった。


「……ヴィレ?」

「あぁ」


 目線を向けないままヴィルヘルムが返事をする。そこでようやくユートは自分がどこにいるかを理解した。ここはヴィルヘルムのコテージだ。


「オーケイ」


 銃を組み上げ終わったのか、カツンと机に置いてヴィルヘルムは立ち上がった。昨日会ったばかりだと言うのに、何だかとても懐かしくなる。ずいぶん長い間会っていない気がした。それくらい、昨日一日で色んな事がたくさんあった。

 

 ベッドからかろうじて身体を起こして、ユートは胸に吹き溜まった気持ち悪さにかすかに呻く。


「どうして、何で君が、ここに……。僕は……」

「あぁ。昨日あのオッサンが連れて来たんだよ。ま、内部の暴力から守りたいならここは最適の場所だよな。何せ一人前例がいる訳だし」

「……市長が」


 そう言えば気を失う前にオーガストが言っていた気がする。これは保護だ、と。考えただけで収まりかけた吐き気が再び込み上げた。何がしたいんだ、と沸々と怒りがこみあげてくる。


「分からない……」

「何が?」

「あの人が何を考えているのか、全然、分からない……」


 呻くように呟いて、ユートは前髪をかきあげる。


 これでユートを閉じ込めたり、痛めつけたりするような人間なら遠慮なく恨む事ができた。だけど平気で人のことを撃っておいて拘束する訳でもない。連れて来たのは友人と知るヴィルヘルムの家で、これではまるで本当にユートを研究所の偏見や暴力から守ろうとしているかのようだ。


「どんなにあの人が悪辣でも、昔僕が助けられたのは事実なんだ……。恨んでいいのか、それとも許したほうが良いのか、僕には……」

「それはお前の考える『人間』の規範においての話か?」


 弾かれたように顔を上げる。それとも、と冷静にヴィルヘルムが先を続ける。


「ユート・オリミヤという一個人の感情の話か?」


 まっすぐな碧眼がこちらを見つめている。誤魔化しを許さない視線にコクリとユートは唾を飲む。それは、と渇いた声が出た。


「……分からない。僕は、その二つを分けて考えたことがないから」


 ユートにとって自分が何者かを問う事は呼吸のようなものだ。それらは癒着して久しく、もう分離することが考えられない。だからいつも息苦しい。


「……そうか」


 どこか呆れたようにヴィルヘルムが息をついた。そうしてユートの答えなど関係ないと言うように、口を開いた。


「あのオッサンの考えなんてお前に分かる訳ないだろ」

「どういう意味……」

「言葉通りの意味だ。お前は正常だからな」


 ベッドの端に腰掛けたまま、ヴィルヘルムは苦笑する。


「一つ勘違いしているようだから言っておく。オーガストが悪人だからクラン・シーを使い潰していて、それならお前を見捨てないとおかしいと思っているならナンセンスだ。あのオッサンにとっては徹頭徹尾全てが正しい事なんだから」

「ただ、しい……?」

「そうだ。ティルナノッグという都市を築いたこと、クラン・シーを利用していること、遠い昔お前を助けたこと、リッカを利用しようとしていること、昨日お前を撃ったこと、その上で俺の所に連れてきたこと。全部だ。その全てがあのオッサンにとっては正義だ」

「正義って、そんな──っ」

「クラン・シーが酷い目にあってるってのはお前目線の話だってことだよ。いや、それは語弊があるな。きっと善良な市民であればその多くが心を痛めるだろう。だが結果として他に方法がないまま浄化システムを止めることを選ぶ人間がどれ程いる?」

「……っ」


 言葉に詰まった。


「少ないとは言わない。二割くらいは外道だと騒ぐだろう。で、二割くらいは必要悪だと主張する。残りはだんまりか。まぁ割合なんてどうでもいい。要は思想の話さ。あのオッサンはあのオッサンの思想の元で正義を為してるだけだ。だからお前がここに連れてこられたのも矛盾しない。あのオッサンは愛情深いよ。だが愛情に満ち溢れているからといって、それがマトモな愛情だとは限らない」

「それ、は……」


 言葉に詰まる。オーガストへの妖精への執着、あるいは愛情。それが度を超していることはユートも知っている。ユートのこの体質への執着も、そこに帰結する。


「例えばあのオッサンは俺を監視している。今は数日分のDDだけ与えられて、すでに妖精域と化した第一区画に縛り付けられている状態だな。いざとなったらさっさと切り捨てられるから良い案だろ? でも一方であのオッサンは割と本気で俺を保護してると思ってる」

「……」

「お前、浄化塔の中身見たんだろ? リッカがここにいなくて、第一区画が全滅ってことはリッカがキレたのか。そりゃそうだろうな」


 ヴィルヘルムの口からリッカの名前が出て、腹の底に鉛のような重さを感じた。息苦しくて、悲しい。


『お前もこれでいいというの?』


 真白の妖精に投げられた問いを思い出す。


 ユートは選んだのだ。大切だと思った彼女よりも、この都市に住む人たちの命を。彼女を連れて外へ逃げることを放棄した。それだけは、間違いない。

 黙り込んだユートに、ヴィルヘルムが深くため息をついた。ユート、と少しだけ和らいだ声が名前を呼ぶ。


「酷な事を言うが、今からお前に選べるのは二つだけだ。このままティルナノッグを出て行方をくらますか。ここに留まり、この都市の終焉を見届けるか」


 終焉。改めて突きつけられると愕然とする。

 見届けるとはそのままの意味だ。ユートは死ねない。ユートが逃げない限り、遠くない未来きっとこの町で苦しむ人たちを見届けることになるのだろう。遠い昔見たのと同じように。


 ヴィルヘルムやコルムが出ていけと言った理由は、リッカが利用されないため、以外にももう一つあったのだ。きっと二人はユートが傷つくことが分かったから、そう言った。だけどリッカを止めたあの瞬間、否応なくユートはもう答えを選んでいて──。


「僕は残る」


 だからはっきりと答えた。ヴィルヘルムが目を細める。


「何が出来るかわからないけど、黙って出ていくことは出来ないから」

「……ま、妥当な答えだな。お前ならそう言うと思ってた」

「何で?」

「さてね。お前がピュアだからじゃないか?」

「こんな時にふざけんなよっ」


 こんな時まで揶揄ってくる友人に尖った声をあげると、ふざけてねぇよと割と真面目なテンションで返された。だからもう一度強くは言い返せない。視線から逃げるようにユートはそれで、と息を吐き出した。

 

「お前はどうするんだよ」


 以前からずっとそうだったが、ヴィルヘルムの言葉はいつだって他人事だ。都市が崩壊すれば自分だって当事者だと言うのに、前からずっと自分のことは棚上げしている。


「この都市はもう限界で、あと少ししか保たなくて。それが分かって、お前はここで死ぬのを待ってるのかよ……!」

「まぁ、それでも良かったんだけどな」


 案の定あっけらかんと言われた言葉に目を剥いた。


「本当なら俺は親父やおふくろと一緒に死んでてもおかしくなかったんだ。今だってずっと飼い殺されてるんだから、生きることにしがみつく理由もないだろ」


 淡々とした言葉に、思わずふざけんな、とこぼして目の前の男の胸ぐらを掴んだ。


「そんな事軽々しく言うなよっ!」


 どうしてこの男はまるで未練が無さそうに自分の命を手放そうとするのか。ユートの知るヴィルヘルムという男は何かに執着しない。昔からずっと。


「ヴィレの両親が自殺だったことは知ってる! だけどそこに君を連れて行かなかったのは、きっと生きていてほしいと願ったからだろ! それなのに簡単に生きるのを放棄するなよ!」


 言いながら自分の言葉に心がえぐられる。侵蝕が進んだあの町で、クローゼットに押し込みユートにリュックを持たせた母は、きっとユートに生きていて欲しかった。例え彼女が朽ちるまでの時間、ユートの名を呼ぶことがなかったとしても、母がユートを愛してくれたことは絶対に忘れてはいけない事実だ。

 

 だからユートは死のうとは思わなかった。


 どれだけお前のせいだと後ろ指を指されても、死んだ方がいいだなんて思ったことはなかった。


「……」

「……」


 ヴィルヘルムの胸ぐらを掴んだ手が震える。珍しく目を丸くしてユートを見ていたヴィルヘルムは、やがて気が抜けたようにふはっと笑った。


「お前はとことん後ろ向きなのに、そういうところはピュアなんだよなぁ」

「な……、こっちは真面目に……っ!」

「わーかってるよ」


 そう言いながらもヴィルヘルムは緊張感もなく、肩を震わせて笑っている。他の誰かに言われたら多分鼻で笑ってたんだろうけどな、とヴィルヘルムが気が抜けたように呟く。


「……お前が言うなら、きっとそうだったんだろうな」


 ひとりごとみたいに呟いて、ヴィルヘルムはユートが掴んだ手を胸ぐらからはずす。身長やガタイこそ違うものの、引きこもりの男にいとも簡単に手を振り解かれてユートは閉口した。


「知っての通りだけどな。俺には大義も大それた野望もないんだよ。さっきは飼い殺されてると言ったものの、特段現状に不満があるわけじゃない。何もない時間は贅沢だと思うし何より自由だ。お前は怒るかもしれないけれど、数年後この都市が滅びても構わないと思ってたんだよ」


 だけどお前は違うだろ? と言われて、ユートは目を丸くする。


「町を出ろって言ったけど、実際のところお前は出て行かないだろうなとも思ってた。自分だけが助かっても意味がないって、お前なら思うんだろうって。そして順当にお前はこの町に残ることを選んだ」

「……そんな、立派なもんじゃない」


 過大評価が過ぎる。

 ユートはただ怖いだけだ。そうやって見捨ててしまうことが、己の非人間性を証明する事のようで。その後で、何も感じなかった時の恐怖に耐えられないだけで。今はそこにリッカと決裂したという自棄のような感情も入っている有様だ。


「でも結論お前は出ていかなかったし、何とかしようと思ってるんだろ?」

「……驚くほど何も出来ない事を自覚して打ちのめされてるけどな」


 ユートの言葉にヴィルヘルムはケラケラと笑ってそりゃあいい、と軽口を叩く。


「それなら俺の出番もあるってもんだ」

「へ?」


 いいか、ユート。ととっておきの秘密を打ち明けるように、ヴィルヘルムが笑う。


「実のところ、クラン・シーとティルナノッグの住民を救う方法はない訳じゃない」

「何⁉︎」


 思わず乗り出したユートに、簡単だよ、とヴィルヘルムがニッと口の端を釣り上げる。


「この都市を消せばいい」



   ◇




 都市を消す。

 穏やかでない表現だった。


「流石に言葉通りの意味じゃないだろ?」


 眉を顰めてユートは尋ねる。そんな事をしたら、結局全員が死ぬことになる。何の意味もない。


「いや、文字通りの意味だ。この都市に住む人間がいなくなれば、そもそも浄化塔の必要がなくなるだろ?」

「そっちか……。でもそんな事が出来るのか?」

「目的は違うけど、元々俺の親父が実行しようとしていた移住計画はその為のものだったからな」


 つまりヴィルヘルムはこの都市の住民を全て別の地域へ移そうとしているのだ。確かに移住が可能であれば、浄化塔を維持する必要がなくなる。


 凡そ一世紀前から始まった空間侵蝕は、一次から四次に渡ってこの星を侵蝕し、現在陸地の八割を占めると言われている。十年前を最後に侵蝕をストップしたものの、五次侵蝕がないと言い切れる者は誰もおらず、今もいつ起こるかわからない天災を恐れながら平地で暮らす人々はまだまだ残っている。


 唯一例外とされる地域が『聖域』と呼ばれる区域だ。ほとんどの人間はそれをお伽噺だと思っているが、聞けば生き残った地域の要人達には共通認識の一つだという。多くの地域は聖域と連絡を取り合い、移住の交渉を日々行なっている。


「でも、市長は移住希望には優先順位があるって言ってた。明日侵蝕に巻き込まれかねない場所が最優先だ、って」

「ハハッ、そりゃ面白い冗談だ。そもそもあのオッサンはこの都市を設立してから十二年間、一度も聖域と連絡を取ったことなんてない」

「な──っ」


 絶句した。話が違う、と思って、自分の間違いに気づく。

 オーガストは一度も『聖域と交渉して無理だった』とは発言していない。


「実際親父はもう移住先の聖域と交渉をまとめていた。それを打ち切ったのはあのオッサンだ」

「どうして……?」


 信じられない。その移住計画を進めていたら、もっと早くに浄化塔は必要なくなっていたはずだ。さあな、とオーガストは肩をすくめる。


「そこのところは俺も詳しく知らない。交渉をまとめていたのは親父で俺じゃないからな。ただこの都市に固執しているのはオーガストだ、それだけは間違いない。あの男はこの都市を維持するためなら何だってやる」


 コクリと唾を飲みこんだ。つまり、と震える声でユートは内容を整理する。


「……市長から実権を奪って、当初の移住計画を完遂すればいい?」

「その通りだ。もちろん聖域との再交渉も必要だし、時間はかかるだろうけどな。だがこのままシステムの破綻を待って自滅するよりずっと希望がある」


 昨日から混乱して支離滅裂だった頭がようやく回り始める。もちろん問題はある。何せ聖域と再交渉をまとめる間は浄化塔を動かす必要があるのだ。それに加えて。


「でもヴィレ。市長は現代の生ける英雄だ。住民の支持をそんな簡単に市長から奪えるのか?」


 どれだけ残酷なシステムを構築していようが、オーガストが当時侵蝕に侵される町を救ったのは事実なのだ。


 ティルナノッグが設立してまだ日も浅く、オーガストを讃える市民ほとんどが当事者だ。だがヴィルヘルムはユートの反論を一顧だにせず『だから良いんだよ』と言ってのけた。


「平凡な人間の支持を落とすより、高止まりしてる人間の方が余程容易に失墜する。俺の親父みたいにな」


 笑えない皮肉だ。だが事実ではある。この様子ではきっとヴィルヘルムの中では算段がついている。


「根拠を聞いてもいいか?」

「あぁ。お前の言う通りあのオッサンがティルナノッグ設立当初からいる世代にとっては救世主であることに間違いはないし、今も都市を維持しているから人気が続いている。だがその世代も浄化システムがどうやって動いているかは知らない。ポイントはそこだよ。真実が明らかになれば、あの人気は必ず失墜する」


 クラン・シーの略取。確かにそれはセンセーショナルなニュースになるだろう。


「誰だって子どもの命を踏み台に生きてることが分かれば腹持ちが悪くなる。QOLの低下ってやつだな。自分の罪悪感を誤魔化すためにも、すぐに騒ぎ出す」


 人間は己を正当化するものだ。知らなかったから仕方がない。知っていたら黙ってはいなかった。それは生贄にされた側にとっては少しの慰めにもならないが、加害者側の救いにはなる。

 

「敢えて反論をするんだけど、さっきヴィレが言ってた通り、だからといって浄化塔を止めるという話にはならないんじゃないか?」

「他に方法がなければ、って言ったろ? 生きるか死ぬかなら前者を選び口を噤むだろうがそれ以外の選択肢が、噴出した問題に対して解決策が提示されれば飛びつくとは思わないか? つまり聖域への移住ということだ」

「でも移住が決まるまでの間は必ず浄化塔の存在が必要不可欠になる」


 その間クラン・シーの略取は続くのだ。オーガストを引き摺り下ろしたとして、ヴィルヘルムが同じことを続けるのであれば市民からの批判は同じように起こるだろう。ましてやヴィルヘルムは前市長の息子なのだ。


「もちろんクラン・シーの協力は不可欠だよ。研究所の連中にはまだそこまで味方が多い訳じゃないから詰めは必要だが、期限を限定するのであればやりようはある。少なくとも、犠牲を出さずにはいられると言う意味でだが」

「……」

「納得できないか?」


 じゃあも一つオマケに胸糞悪い話をしてやるよ、とヴィルヘルムが続ける。


「浄化塔を維持しているクラン・シーの寿命は実際のところ一年か二年かそこらなんだ。お前希少種のクラン・シーをどうやって手に入れてきていると思う?」

「……一年か二年?」


 ショックを受けてつぶやく。長くはないだろうと思った。だが予想していたより遥かに短い。


「どうやって、って……」


 クラン・シーは人間の子供に妖精がいたずらに妖精核の片方を埋め込んで生まれる生物だという。希少種なのだ。だとしたら、浄化塔の維持に数が不足するのは当然だ。


「この都市の外縁部は約二キロの安全マージンが取られているのは知っているな?」

「あ、あぁ」


 実際の浄化塔の浄化範囲はこの都市よりまだ広い。だが安全を加味して、随分と内側に区切られている。外周部は研究所の管轄区だ。つまりこの管轄区は一応浄化範囲内ではある。


「農産物とか家畜が飼育されてるんだろ?」

「よし、質問を変えよう。クラン・シーを作るには何が必要だ?」

「そりゃ妖精核と人間のこど……」


 言いかけて、察した。そして言葉を失くす。まさか、と渇いた声が漏れる。


「その通りだ、ユート。ティルナノッグの外周には市民として登録されていない人間が住んでいる。文字通り『クラン・シーの材料を産むための人間』がな。それくらい外の世界は切羽詰まってて、そんなクソみたいな条件を呑んででも平地からティルナノッグへの移住を希望する人間はいるんだよ」


 さて問題だ、とヴィルヘルムが続ける。


「ここまで知ったとして、昨日と同じ気持ちで飯が食える人間がどれだけいるだろうな」

「…………」


 吐き気がした。

 今までどれほど無知なまま、この都市に住んでいたのかを思い知った。


(今まで、確かに市長はこの都市の住民を守ってきたけど……)


 許容していい限度はある。こんな事続けてはいけないことだけは確かだ。どこかで誰かが止めなければいけない。できる限り、犠牲を出さずに。


「──どうやって、止めるつもりなんだ?」


 ユートの言葉に、ニッとヴィルヘルムが笑った。


「明日の午後十時からあのオッサンが会見を開くんだ。街頭テレビも利用して、都市全体に発信する」

「それは第一区のことで?」

「そうだな。市長として説明責任があるから当然なんだが、そこで多少なりとも浄化システムに限界が来ていることは説明せざるを得ないだろう」


 だからな、とヴィルヘルムが楽しそうに続けた。


「明日オーガストの演説を途中で乗っ取ろうと思う」

「は?」


 思わず素で声が出た。乗っ取るとは、電波を奪うと言うことだろうか。


「いや、そんなこと、出来るの……?」

「あぁ。つかお前もしかして俺に協力者がいないと思ってるのか? 今まであんなに草の根活動してたのを間近で見てたのにか?」


 ちょっと待って、とユートがヴィルヘルムの話の腰を折る。ヴィルヘルムの言い方はまるでいつかこういった事を起こす事を計画していたかのようだ。ほんの数日の仕込みでどうにかなる話じゃない事くらいはユートだって分かる。


 だとしたら、ヴィルヘルムはやはりオーガストを憎んでいたのだろうか。ずっと復讐の機会を窺っていたのだろうか。そんな考えが頭を過ぎる。


「別に計画してたわけじゃないぞ」


 ユートの考えていることが予想できたのだろう。何も言ってないのに、すぐに否定された。


「オーガストのことは本当にどうでも良かったよ。昔お前に言ったことは嘘じゃない。親父は政争で負けたんだ。それだけだよ」


 だけど時間だけはたくさんあったからな、とヴィルヘルムが自嘲気味に笑う。


「考えちまったんだよな。もし自分がオーガストに勝とうとするなら、どんなゲームをするだろうってさ」


 盤面の駒を操作するように、使う予定のない布陣を敷いていく。

 表立った行動はオーガストに分かるようにしていた。庭で遊んでいる犬が多少ヤンチャでも、お目溢しする余裕がオーガストにはあったからだ。その余裕こそ最大の隙だ、とヴィルヘルムは淡々と説明する。


「親父は人望の厚い人間で、周りにすげぇ慕われてたんだよ。だからオーガストが市長になってからも、不満をくすぶらせてる人間は多かった。ただ俺に危害が及ぶのを嫌ってか、誰も積極的に何かしようとは考えていなかったけどな。

 せいぜい当時のことを事細かく俺に吹き込んだくらいだ。市役所側の人間は元々親父側の人間で、当時は中身を総入れ替えする程人手もノウハウもなかった。だから親父に相当近い人間以外今もほとんどそのままだ。研究機関とは仲が悪いままで、こちらに引き込みやすかったよ。直接交渉しなくても、もしもの時にすぐに協力をつけられるのは知ってたんだ」


 だから少しずつ準備した、とヴィルヘルムは言う。使うか使わないか分からない毒を十二年間仕込み続けた、と事も無げに言ってのける。


「だけど俺がやってやるかと本気で決めたのは今日だよ」

「何で?」

「お前が残るって言ったから」

「は?」


 それこそ予想外の言葉だった。何でそれが理由になるのか分からない。


「さっきも言った通り、俺は最悪この都市が滅びても良いと思ってる。だけど俺の無二の友がそれを嫌だって言うんだ。理由なんてそれで十分だろ?」


 歯の浮くような台詞をサクッと言ってのけて、ヴィルヘルムは片目を閉じてみせた。思わず目の前の整った青年の顔をまじまじと凝視してしまう。


 こちらは何を返せばいいのかと閉口するが、ヴィルヘルムは完全に通常運行だ。その証拠に、さて、と何事もなかったかのようにヴィルヘルムがベッドから立ち上がる。


「そろそろ本題に入るか」

「本題入ってなかったの⁉︎」


 そんな馬鹿な、とつい突っ込んでしまう。こちとら色々聞きすぎて頭がパンクしそうだ。あぁ、お前にとっての本題がな、とヴィルヘルムは茶目っ気たっぷりに答えると、カーテンの揺れるバルコニーの方を振り返った。


「もう出てきていいぞ」


 ふわりとカーテンが揺れる。


「じゃ、お姫様とのご対面だ」


 そして──。


「────」


 目を見開いた。

 ヴィルヘルムの背後。バルコニーへ続く大窓が開いた場所からかすかに風が入ってくる。カーテンが翻った。


「──リッカ」


 呆然とその名を呟いた。

 真白のレースのカーテンと同化するように、真白の妖精がそこに立っていた。



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