第19話 決裂
冷たい瞳と相対する。
先程までリッカを助けるだなんて殊勝に思っていたくせに。いつか駄目になると分かっていて、この町の住民を見捨てる選択肢を考えたはずだったのに。その口で今ユートは全く逆の言葉を紡いでいる。
「頼むから、やめてくれ……っ。リッカ……」
それがクラン・シーにとってはあまりに身勝手な人間の事情だと知りながら、ユートは絞り出すように懇願した。
リッカはユートの言葉を一度も遮らずに聞いていた。ただ感情のない瞳でじっとユートを見下ろしながら。
「──それがどう言うことか分かっていて、お前はわたしにやめろと言うのね」
そして、冷たい声が落ちた。もちろんわかっている。やめろと言うことは、犠牲になっているクラン・シーを捨ておけと言うことだ。
「……うん、分かってる」
リッカは黙ってユートを見下ろしていた。最近は少しだけ感情の機微が分かるようになったと思っていたのに、今は何を考えているのか全然分からない。怒っているのか、呆れているのか、悲しんでいるのか。ただきっと幻滅はされただろう。
「──そう」
やがて何を思って、何を考えたのか。リッカは気が抜けたように呟いた。
「苦しいのね、お前」
ポツリと呟いて、リッカが目を伏せる。一拍置いて、柔らかにリッカの触覚が明滅した。
かすかに開いた紫紺の瞳と視線が通う。だけどそれもわずかな時間だった。リッカはユートに背を向けると、すぐにその姿はかき消える。
「リッ……っ」
後には何もない開けた空間だけが残った。別れの言葉も、これからどうするかも、何も言わずにリッカは姿を消した。
「ユート」
呆然としてリッカが消えた空間を見ていたユートの背後からコツ、と高い靴音が響く。背後から名を呼んだ声に振り返る気もならなかった。
オーガストが何食わぬ顔をしてユートと話ができる気持ちが分からなかった。
こんな都市を作るほど妖精を愛しているのに、この人はクラン・シーの扱いに一切の痛みを覚えないのだろうか。『君が妖精と一緒にいるなんて喜ばしい変化だね』と言ったその口で、オーガストは『リッカを譲れ』と言った。その意味を理解できないほど、ユートは愚かだと思われているのだろうか。
(違う。きっと分かっていて尚僕がそれを選ぶと確信していたんだ、この人は)
オーガストは知っている。ユートが妖精を嫌っていることも。保護されたあの日から、自分が何者なのか確信が持てないでいることも。
(それに概ね、市長の思ってる通りだ)
失笑が漏れた。最後まで僕は、自分が大切だと思った彼女を選ぶことができなかったから。リッカが僕よりずっと自立していて良かった、と少しだけ安堵する。リッカを追いかけることも止めることも、もうユートには出来ない。
「……見ての通りリッカとは今決裂しました。僕に出来ることはもうありません」
だからもうリッカを渡す渡さないなどと、考えなくてもいい。それだけが救いだ。淡々とこぼしたユートを慰めるように、オーガストは肩に手を置いた。
「……やめてください」
置かれた手を払い除けると、オーガストはやや傷ついたような顔をして、だがすぐに手を離した。
「ユート。グレースに確認したよ。リッカはこの辺り一帯を浄化していってくれたようだ。リッカが他のクラン・シーと違いがないのであれば、およそ六時間だ。避難は始めていたけれど有難い事だね。第一区画の復旧には少し時間がかかるが、まぁ何とかなるだろう」
「そうしてあなたはまた、新しいクラン・シーを犠牲にするつもりなんですか?」
この都市を維持するために、ずっと繰り返してきたその非道をこれからも繰り返すつもりなのだろうか。どうやら私は君の信頼を完全に失ってしまったようだね、とユートの質問には答えずオーガストが苦笑する。
「……流石に悲しいな。私も心を痛めているんだといってももう信用してくれないかな? 何しろ浄化システムを構築したのは私だからね。だから君には事実だけを伝えよう」
「今更何を……」
「リッカの能力のことだ」
淡々とオーガストが言葉を紡ぐ。
「本来であればクラン・シーが自覚してインスプリングを無効化できる範囲はもっと狭い。区画を覆うような範囲は防衛本能が働いた時のみの反応だ。自身では制御ができず、しかも一個体では難しいから重ねて使う。だがリッカは違う。グレースの言うところによると、リッカの能力は十分にこの都市全てを維持できるらしい。第七区画で彼女は意図的にそれを制御したんだろう。つまりこんな非道な手段を用いなくても彼女は広範囲の浄化が出来るんだよ」
「え……?」
目を見開く。
「実を言うとね、浄化システムの維持は現在の手段だとあと二年程度で破綻すると言われてるんだ。だけどリッカが協力してくれるなら、これ以上犠牲を出さずにこの都市を維持することが可能だ。彼女の意思がそれを是と言うのであれば」
「……だから、僕にリッカを説得しろと?」
そんなこと出来るわけがない。
否、それだけはしない。絶対に。
故意に住民を殺すことは止めたけれど、住民の延命のためにリッカを縛るなんてそれこそ冗談じゃない。人間の問題は人間が解決すればいい。出来なければ死ぬのは自分たちだけで十分だ。
「私は事実を話しているだけだ。何せ私には何も出来ないからね。今のまま、この町を維持していくしかない」
「……聖域と、連絡は取れないんですか」
苦い気持ちでそう尋ねる。ヴィルヘルムは聖域は存在するのだと言っていた。それなら当初の計画通りそこに住民を移せばいい。だがユートの言葉にオーガストはあからさまに渋面をつくった。
「それは難しい。移住希望には優先順位がある。明日侵蝕に巻き込まれかねない場所が最優先だよ。それでも足りない。こんな不安定な地域でも移住したいと希望する人間は数知れないんだ。移動手段がないから押し寄せてこないだけで」
「だからリッカを犠牲にするんですか……っ」
声が震えた。怒りとやるせなさで頭がどうにかなりそうだった。
「それを決めるのは私ではない。残念ながらね」
「僕でもないだろ──っ!」
堪らずに叫んだ。
「どうして貴方はこんな都市を作っておきながらクラン・シーだけは犠牲にしてもいいと思えるんだ! 妖精の権利を認めるのに、クラン・シーの、リッカの選択は僕に委ねようとするんだ! 初めから僕じゃなくリッカを説得するべきだろう!」
最初からおかしかったのだ。オーガストが口にした『譲ってくれ』というその台詞から、ずっとおかしかった。
先程から黙って控えていたグレースが背後でクスクスと忍び笑いを漏らし、オーガストが恋人を諌めるみたいにそれを叱った。先程からずっと彼らはいつも通りだ。感情を乱すことはなく『それは悪かったね』とオーガストが心底申し訳なさそうに謝った。
「私が君を説得したのはそれが一番早いと思ったからだよ。リッカも君を信頼しているようだったし、彼女は私を嫌っているようだった。だが私の行動がかえって誤解を招いてしまったようだ。それは申し訳ないと思っている」
「……っ」
オーガストの言葉は自信に溢れていて、後ろ暗いところを感じさせない。
聞いているだけで悪いのは自分なのではないかと思い込ませる力を持っている。この後に及んでも、まるでお気に入りのおもちゃが壊れた子供を慰めるように笑ってみせる。
「心配しなくてもリッカは君を嫌ってはいないよ。さっきも最後にはリッカは落ち着いていた。グレースもそう受け合っている。だから君が善良な一人の人間としてこの都市の住民を助けたいと思ってくれるのであれば、どうか私に協力してくれないか」
怒っていいのか、悲しめばいいのか、もう判断がつかなかった。
きっとオーガストはクラン・シーを犠牲にすることに本当に疑問がないのだ。同様にユートを利用することも。だからユートが必ず頷くしかない言葉を、迷うことなく選ぶのだ。
「……一つ、聞いてもいいですか?」
「何だい?」
「市長はどうして、昔僕を助けてくれたんですか? 空間侵蝕を呼ぶと言われたファズを。忌み嫌われる僕を、何故」
意外な質問だったのだろう。オーガストが驚いたように目を開く。だがすぐに朗らかに笑って答えた。きっと本心から。
「何を今更。迷子がいたら保護するのは大人の務めだろう。それにファズと忌み嫌う方が余程愚かだ。フェアリー・ギフテッドは祝福だよ。君は選ばれた人間なんだ」
「……そうですか」
いつからだろう。この人の好意を好意だと思えなくなったのは。彼が愛しているのは自分の体質なのだと察したのは、いつだっただろう。
この男はきっと本質的に他人を受けいれていないのだ。他人を操作する術を心得ているだけで。
(そっか……)
リッカのしたことは恐ろしくて、思い出すとまだ身体が震える。それでももうユートは分かってしまっている。例え決裂したとしても。
(僕が何者であっても、リッカは僕を受け入れてくれたんだ)
それなら、自分が選ぶ道は一つだ。
「僕は、協力できません」
はっきりと、そう告げる。
「何故?」
オーガストが笑顔のまま尋ねてくる。
「リッカは自由です。彼女はどこにでも行ける。今後もずっと、そうであって欲しい」
自分にも、この都市にも関わる事などなく生きてほしいと身勝手に思う。
「でも僕が貴方に命を拾われたことは事実だから。リッカに関わらずに、貴方がクラン・シーを用いずにこの都市を延命させる手段を講じるなら、僕は最後まで協力します」
もちろんユートが出来ることなんてたかが知れているだろうけど、この体質だ。いないよりはマシだろう。
「──そうか」
俯いたオーガストが静かに息を吐き出した。
「残念だ」
そう言って、ごく自然な動作でオーガストが懐から銃を取り出した。
「──え」
間髪入れず銃声が鳴った。二発。躊躇も逡巡もなく、流れるような動作でオーガストは引き金を引いた。
衝撃によろめいて、ユートは自分の胸に刺さった円筒形の物体を信じられない思いで見下ろす。大丈夫だよ、とオーガストがいつもと変わらぬ声で言った。
「ただの麻酔銃だからね」
ケロリとしてそう言われても、撃たれたというその事実だけで息が浅くなる。胸に残る衝撃に吐き気が込み上げて、ユートはその場に膝をついた。分かっている。冷静に考えて麻酔銃というのはそんなに早く効果は回らない。この吐き気は撃たれた痛みによる精神的なものが大きい。
『大丈夫だよ』
幼い頃に聞いた言葉が耳の奥でわんわんと響く。
『君のことは私が守るからね』
オーガストは膝をついたユートの所に歩み寄ると、自分もゆっくりと身を屈めた。可哀想に、と大きな手のひらがユートの頭を撫でた。払い除けようとしてできないまま、代わりにユートは自分の口元を抑える。
「大丈夫。殺すわけじゃないから安心して。これは保護だよ」
「ほ、ご……?」
「君がショックを受けるといけないから話してなかったんだけどね。実を言うと先のシステムダウンは君のせいじゃないか、って噂が研究所に広まっているんだよ」
「え……?」
目を見開く。
「ほら、フェアリー・ギフテッドは空間侵蝕を呼ぶという根も葉もない噂話があるだろう。その延長線だよ。もちろん馬鹿馬鹿しい話なんだけど、第一区画までこんな事になってしまったから、暴動でも起きると困るだろう? この間研究員が一人君がフェアリー・ギフテッドだってことを民間人にバラしてしまったとか。嘆かわしい事だね、全く」
今まさに自分で撃った人間を本気で心配しながら、オーガストは『だから君をこのまま放り出すのは、保護者としては怠慢なんだ』と穏やかに告げた。
「ついでにリッカが戻ってきてくれると嬉しいんだがね。君くらいしか繋がりがないから。君も知っている通り、コルムじゃ代わりにもならないんだ。彼は真性のクラン・シーだから今使っている子達よりはマシだけれど、一般的なクラン・シーだから。それにアイノはグレースのお気に入りだから、あまり悲しませすぎると良くない」
あの子はコルムのことになるとブレーキが効かないからね、と困ったようにオーガストは笑う。
「な、に……言って……」
だんだんと薬が回ってきたのか意識が酩酊してきた。拳に爪を立ててもその感覚さえ曖昧になっていく。代わりに込み上げる吐き気で脳がぐるぐると回る。
(ダメだ……意識が……)
ふっとオーガストが笑ったのが分かった。その笑い方を知っている。幼い頃、寝る間際のユートの隣で浮かべた笑みと同じ、相手を慈しむような笑みだ。
「いいよ、ユート。ゆっくりおやすみ──」
その声を最後に、ユートの意識はプツリと途絶えた。
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