第18話 それは異なるイキモノだから

「……ぁ」


 止めていた息を吸う。ユートの隣で、純白の髪がふわりと開いて、こぼれていく。


「……リッカ」


 震える声でその名を口にした。今の今まで忘れていた。リッカがずっとユートのそばにいたことを。カツン、カツンとあまりに軽い足音が小さく虚の空間に響いた。


「……そう」


 リッカはユートの隣を通り過ぎると、そっと目の前のポッドに手を触れた。名を呼んだユートの声に、リッカは何の反応も示さなかった。


「お前たち、ここにいたのね」


 ポッドの上に腰を下ろすと、ユートの目の前でリッカはポッドの表面を優しく撫でる。


「ずっと、ここにいたのね──」


 それは今まで聞いたことのない、酷く寂しい声だった。リッカが自身の額をポッドの表面にコツリとつけた。そうして美しい少女は待ちわびたかのような吐息を漏らした。


「リッ……」


 思わず伸ばした手が少女の肩に触れるその前に、ふっとリッカが顔を上げた。その瞬間、不意にぞくりと背中を這い上がった悪寒にユートは動きを止めた。


(なに……)


 ポッドから顔を上げたリッカの瞳──。星を落とした宙の瞳が、底の知れない深淵のような闇を移していた。ゾッとするほど美しい無機質な声が、ポツリと落ちる。



「いま、たすけてあげる」



 瞬間、ポッドの表面が真っ赤に染まった。


「────ッッッ!」


 声にならない悲鳴が喉の奥から漏れる。寸分置かずに全てのポッドが、内側から液体をぶち撒けたように次々と赤く染まっていく。


「……ぁ」


 それが内側でぶちまけられた血液だと察するのに時間がかかった。

 一瞬遅れて、まるで火がついたようにビーッ、ビーッと耳障りな警報音が鳴り始める。開けたこの空間に響く警報音はあまりに場違いで、騒々しい。


「あ、ぁ……」


 後ずさろうとして足に力が入らず、そのままユートは床に座り込んだ。鳴り続ける警報音に一切注意を払うこともなく、目の前でゆらりとリッカが立ち上がる。


「……っひ」


 瞬間、喉の奥から引き攣った悲鳴が溢れた。


 逃げなければいけない。警報音が鳴っている。間も無く研究員が駆けつけてくるだろう。それ以前に浄化塔はポッドのクラン・シーによって動かしていたのではないだろうか。それなら第一区画の浄化はどうなるのか。思考は止めどなく溢れかえるが、ユートはその場を動く事ができなかった。


 だって一瞬だったのだ。ポッドの中身を染めた血液は間違いなく中にいたクラン・シーのものだろう。彼らが今も生きているとは考えづらい。そして紙切れのように彼らの生命を刈り取ったのは──。


(何、で……)


 タスケテアゲル、と少女は口にした。

 タスケル、と言う言葉が頭の中で意味を持たずに解けていく。


 助ける?

 この光景が?


 そして今まさにこの惨状を作り上げた少女は、血に染まったポッドを前に立ち尽くしていた。ほのかに光る触覚の先端から、雪の結晶を思わせるキラキラとした粒子が溢れている。こんな場所に立っていても、まるで絵本に出てくる雪の妖精のようだった。


 可憐で、美しく。

 それ以上に恐ろしい──。


 一瞬でその生き物の本質が塗り替えられたようだった。


『妖精って言うのはもっと得体の知れないものだからだよ』


 不意にヴィルヘルムの言葉が脳裏に蘇った。あとは何を言ってた? 確か、中途半端に理解したつもりにならないほうがいい、と。


 無機質な紫紺の瞳が、ユートの方を向いた。その瞳から縫い付けられたように目が離せない。見惚れていたわけではない。今この時ユートの身体を縛り付けているのは紛れもない恐怖だ。


「ッハ……ァ」


 吐く息が自分のものではないみたいに震えている。呼吸がおぼつかない。心臓の音がうるさい。根源的な生物としての直感がユートに動く事を禁じていた。


 ダメだ、と思う。

 人の身で、コレには敵わない。


 生物としての規格があまりに違う。この生き物にひとたび牙を向けられたなら、人間などひとたまりもないだろう。ユートの様子に、美しい人の形をした生き物が目を細めた。その唇がかすかに開き──。


「これは派手にやってくれたものだ」


 硬直した空気を打ち破ったのは、この場には不似合いの朗らかな声だった。

 カツ、カツ、と鮮明な靴音が開けたホールの中にこだまする。


「……し、ちょう」


 どうしてここに、と掠れた声が漏れる。

 背後に紅の妖精を伴って余裕のある足取りで空間の内部へと歩いてきたオーガストは、壁のスイッチを幾つか操作する。鳴り響いていた警報が嘘のように鳴り止み、静寂が戻ってくる。そのままオーガストはユートの近くに歩いてくると、床に座り込んだユートを見て痛まし気に笑って見せた。


「大丈夫かい、ユート」


 気遣うように声をかけてくるオーガストに、ユートは目の前の血に染まったポッドに視線をやる。ユートの視線の意味をどう受け取ったのか『大丈夫だよ』とオーガストは優しく告げた。


「第一区画の浄化に支障はでるけど、すでに避難指示は出しているから。幸い今日は休日だしね。行政区画には人が少ない」

「それは、どういう……」


 掠れた声が喉の奥から漏れる。


「元から君達がここへ来ることは予見していたということだよ。だって君、セキュリティに引っかからなかっただろう?」


 信じられない言葉にユートは目を見開く。オーガストは混乱するユートの思考を丁寧に解くように、穏やかに言葉を重ねた。


「元から君には話そうと思っていたんだよ。ここに君を招待するのはグレースが提案してくれたんだ。リッカを譲ってくれと言っている手前、君には真実を知ってもらう必要がある。優しい君は心を痛めるかもしれないが、どうしても理解して欲しくてね」


 私のワガママなんだ、とオーガストが少し悲しそうに肩をすくめた。


「もしかしたら君の友人に何か聞いているかもしれないなとは思ったんだけど、彼も全てを知っている訳じゃない。一方向から見る景色はどうしても狭くなる。だから全てを知った上で、君には判断して欲しかった」


 オーガストの口調は不法侵入したユートに対して不自然なほど穏やかで丁寧だった。


 だがその事に得体の知れない違和感が沸き上がる。理解と判断。言葉を尽くせば分かり合えると思っているオーガストの理想は、ユートの目の前にある光景とは乖離があり過ぎた。この人は本当に、昔ユートを保護してくれた人物と同じ人間なのだろうか。


「判断、って……」


 掠れた声が漏れた。


「何を、ですか……?」


 今目の前の状況をどう判断しろと言うのだろう。


「そもそもクラン・シーの浄化システムは、協力してもらってる、って……。だけどあの子達は──」


 虚ろな瞳。抵抗さえ覚束ない彼らに協力という言葉は人間本意に過ぎる。小さく息をついて、そうだね、とオーガストが寝物語でも聞かせるような優しい声で答える。


「システムについては秘匿情報なんだけど、君には特別に説明しようか。クラン・シーの触覚には普段から自分の周りのインスプリングを無効化する性質があるんだけど、それにも関わらず脳波に影響が出た場合、一種の防衛機能が働くことが分かっていてね。自身の周囲、広範囲のインスプリングを一時的に無効化することが出来るんだ。これを利用しているんだよ。学習能力が未熟な個体であれば、微弱な電波で反応を誤認させられる。効果は大体六時間。大事を取って約五時間の間隔で、彼らの脳に介入して防衛反応を引き起こし周囲を浄化させているんだよ」

「…………」


 空が青い理由でも子どもに言って聞かせるような柔らかい口調で淡々とオーガストは語った。


(この人は──)


 一体何を口にしているのか分かっているのだろうか。ユートの知るクラン・シーはリッカとコルムの二人で、彼らは妖精よりもよほど人間らしい生き物だ。本当にオーガストはクラン・シーのことを口にしているのだろうか。


(異常だ)


 言葉を失う。先程見た、虚のような瞳。学習能力が未熟な個体? リッカはユートと過ごす内にいろんなことを学習したと言っていた。つまり彼らを学習能力が未熟なまま留め置くと言うことは、学習させる手段を物理的に奪っていると言うことに他ならない。


 さて、と話を切り替えるように、オーガストはリッカの方へ向き直る。


「今の出来事で確信したよ。第七区画のクラン・シーを殺したのは君だね?」


 弾かれたようにユートはオーガストを降り仰いだ。第七区画はこの間緊急点検のあった、ユートがユルハを探しに入った居住区のことだ。あの浄化塔もつまるところ同じような施設があったはずだが、リッカがクラン・シーを殺した──?


 ──…………。


 リッカの周りの空気が不穏に揺れたのが分かった。馴染みのあるその思念は出会った時とよく似た、そう膨れ上がった嫌悪感と不快感を示していた。


 ──オーガスト。その表現は私たちには理解できないわ。生かす殺すはニンゲンのカチカンでしょう? 個を特別視するのは貴方達の好みのモンダイであって、私達にまで当てはまるものではないのよ?


「あぁ、そうだったね。すまないグレース、訂正しよう。と言っても私には逆に君たちにとっての適切な表現が思い浮かばないんだけど、そうだな。第七区画のクラン・シーの接続を切ったのは君だね、とでも?」

「ま、待ってください! あり得ません……っ」


 思わず口を挟んでいた。歯の根が合わない自分を叱咤して、優しくユートを見下ろすオーガストにリッカは、と続ける。


「避難指示が出た時、リッカは僕と一緒にいました。それ以前もずっと。第一僕もリッカも今日ここに来るまで浄化塔がこんな場所だなんて知らなかった──!」


 ユートの言葉に、オーガストは堪え性のない子どもを宥めるような、困ったような顔で微笑んで見せる。


「うん、だから方法そのものは違う。そもそもクラン・シーの命と肉体の関係は我々とは異なるものなんだよ。──あぁ、リッカ。ここでも見事に妖精核を破壊してくれたようだね、残念だ。人間にするように喉でも切り裂いてくれれば、まだこの子達にも使い道はあっただろうに。第七区画の子達はどうやったのかな? 見た目は綺麗なものだったのに、彼らからは妖精核が消えていた」


 ──内側から絶ったのでしょうね。この子は私達の大元へ潜れるみたいだから。不思議ね。そこまで潜ったら例え妖精でも意識が溶け込んで戻って来れなくなるものなのだけど。


 クスクスとグレースが笑う。

 その笑い声はまさしく愉しそうな妖精そのもので、知らず頭の奥が痛くなる。と、不意に辺りを満たしていたリッカの思念が膨れ上がる。佇む純白の妖精が、冷え切った紫紺の瞳を細めた。その変化にハッとする。



 ──うるさいわ。



「リッカやめろ────!」


 反射的に叫んでいた。ただでさえ次から次へと予想もできないことばかりで混乱していたが、リッカが何か取り返しのつかないことをしようとしている事は分かった。


 間に合わない。空気が圧縮する。

 跳ね回る刃のように、指向性を持った空気の刃が縦横無尽にこの部屋の動く者を全てを切り刻んで──。


 キン──────ッ! と空気が弾けた。


「……ッ」


 ユートの声にリッカが止まったわけではない。確かに今殺戮は行われようとして、何者かに阻止された。そして冷ややかなリッカの視線は、ユートの目の前に注がれていた。


 真紅の妖精。


「グレー、ス……」


 瞬きの内に、リッカに相対するようにグレースがユートとオーガストの前に浮かんでいた。まるで火花のように眼前の空気に赤い焔の残滓が舞い落ちる。


「……助かったよ。グレース」


 オーガストは平然と立ったまま、目前のグレースに礼を言う。こんな時だというのに、グレースはいつも通り艶やかに笑う。


 ──だって貴方が死んだらツマラナイでしょう?


 クスクスと笑いを零して、グレースはリッカに目をやる。


 ──でもいきなり攻撃してくるのはヤボね。ねぇ、お話ししようと言う気はないの?

 ──……。


 無言のまま敵意だけがその場に満ちていく。

 沸々と湧き上がるようなリッカの思念に、今まで感じられなかった強い感情の動きを意識して、ユートは息を詰めた。


「……グレース。彼女を止められるかい?」


 ──無理よ。本気で来られたら、私が早々に壊れてしまうわ。


 歌うようにグレースが絶望的なことを口にする。

 リッカは今にも全てを八つ裂きにしそうな殺意を持ってその場に立っていたが、その瞳がふっとユートの方を向いた。


 ビクリと肩を震わせて、ユートは目の前のクラン・シーを見上げる。視線がかち合った。


「────」


 永遠にも思えたその時間は、きっと数秒だった。全てに興味をなくしたように、リッカが視線を外した。途端にフッと周囲を満たしていた敵意が霧散する。


「ユート」


 先ほどと違い、声で名前を呼ばれて、びくりとユートの肩が引き攣る。目の前のリッカは表向き落ち着いているように見えた。ただ冷たく無機質な瞳はそのままだ。


「お前はそいつらと帰りなさい」

「え……」


 君は、と掠れた声で尋ねると、行くわ、リッカは簡潔に答えた。


「まだ、あと十もあるもの」


 ハッとした。このままリッカは全ての浄化塔を壊すつもりだ。クラン・シーを殺すつもりだ。だがそれは──。


「ダメだリッカ──っ!」

「どうして?」


 ぶわりと周りの空気が膨れ上がる。冷たいと感じるほどに凪いでいたリッカの空気が再び怒りで揺らぐ。


「お前もその男と同じなの?」


 底冷えのする声が、響く。


 同じ。そう言われても仕方ない。オーガストは浄化塔のシステムを構築した張本人なのだ。何も分からなくてもそれだけは理解が追いついた。オーガストはここにいたクラン・シーの自由を奪った人間だ。


「お前もこれでいいというの?」

「違う!」


 それは違う。絶対に違う。ユートだって許せないと思ったのだ。リッカを犠牲にするくらいなら、全てに目を背けてこの都市を出ようと、そう思ったのだ。だけど今ここでリッカを行かせるということは──。


「だけど、この町には今もたくさん人が住んでるんだ──ッ!」


 この町で生きる全ての人の命を奪う、と言うことだ。

 見殺しにするのとは訳が違う。それをユートは許容できない。


「リッカ、ごめん……っ」


 元からリッカに頼むべきではなかったのだ。クラン・シーが酷い目に遭っているかもしれないと予想していたのに、他でもないリッカにだけは協力してほしいだなんて言ってはいけなかった。


 ただ今システムを止めれば、この都市にいる人間はみんな死ぬということだけは確実で。


「ごめん……っ。僕は君が大切で……、だけど僕は……っ」


 この都市全ての人間が死ねばいいだなんて思えない。


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