第17話 真実
ティルナノッグに保護された最初の頃、ユートは毎晩悪夢にうなされ飛び起きていた。それが分かっていたからか、毎晩ではなかったが二日に一度は隣にオーガストがついていてくれた。幼い自分の頭を、大きな手が撫でてくれたことを覚えている。
『僕も子供がいたはずだったんだ。妻も子も、空間侵蝕で亡くなってしまったんだけどね』
大丈夫だよ、と穏やかに言ってユートの頭をオーガストは撫でる。
『だからという訳じゃないけど、君のことは私が守るからね』
父親のいなかったユートにとって、大人の男性の手というのは慣れないものだった。
自分の頭を撫でる手の感触を思い出のどんなものとも重ねられないまま、ただ幼心に自分は安全な場所にいるのだと思った。
自覚すると、安堵と痛みが同時に押し寄せる。
母を、友人を放って、自分だけが今温かな場所にいる事実が痛くて。
同時に母や住み慣れた家を失ったこと、何も自分の手に残っていない事実が悲しくて。だけどどうしようもないくらいホッとしていた。その全部が胸を押しつぶして、込み上げる感情のままユートは嗚咽をこぼして泣いた。
『僕の、せいなの?』
そう尋ねると、オーガストは不思議そうに眉を上げた。何が? と尋ねられたから、友だちがそう言ったんだ、と答えた。みんな死んだのは僕のせいだって。
それだけできっとオーガストは事情を察したのだろう。そんなことはない、とすぐに力強く答えてくれた。
『決してそんなことはないよ』
と彼は答えて、声を殺して泣くユートを寝かしつけた。ゆっくりおやすみ、と。
その慰めの言葉は、残念ながら周りから漏れ聞こえてくる悪し様な言葉にたちまちかき消されてしまった。結局のところ、人間というのは十の良い言葉より一の悪口に敏感に反応してしまうものだから。
ただあの時、あの夜、オーガストが否定してくれた事にユートが救われたのは事実だった。
◇
第一区画はティルナノッグの行政区画に当たり、そこは行政機関と研究所、また研究員とその家族が暮らす居住区で成り立っている。
ヴィルヘルムの隠れ家やオーガストの住居も第一区画であり、ユートも定期検診で毎月訪れている場所だ。ユートが目指す浄化塔は第一区画の研究室から直結している。
但し浄化塔に行くにはセキュリティキーが必要なエレベーターを利用する必要があり、研究員でも行ける人間は限られている。
もちろんユートもパスなど持っておらず、外側から浄化塔の真下までたどり着いたは良いものの途方に暮れていた。
浄化塔はただの円柱と言うわけではなく、上部に展望台のような円柱より二回りほど大きな円盤がくっついた形状をしている。
恐らく下部の円柱は土台とエレベータスペースくらいのもので、上部にくっついた円盤が浄化施設の本丸なのだろう。
一応塔の外壁には緊急時用に梯子が設置されているが、上部の円盤に沿って屋上へと上がる作りになっていて、凡そ人間が上りに使用する想定にはなっていない。命綱無しで上がりきるのはまず無理だろう。
(登りきっても非常扉は中から施錠されてるだろうしな……)
やはりセキュリティキーを持っている研究員が入るタイミングを見計らって、エレベーターに一緒に乗り込む他ないだろうか。
「なぁ、流石に僕の姿を周りから見えなくしたりとか出来ないよな?」
バレずにエレベーターに乗りたいんだけど、とダメ元で尋ねてみる。間髪入れずにリッカの思念が肯定を返してきた。
「え、出来るのか⁉︎」
──でもそんなまどろっこしい事する必要はないわ。
「それはどういう……」
──上に行けば良いのでしょう?
ユートの肩を掴んでいた手にかすかに力が加わる。
「へ?」
と、何の脈絡もなくユートの身体が後ろに傾いだ。いや、まるでエアベッドでも膨らましたかのように靴の底の空気が膨れ上がった為にバランスを崩したのだ。それに驚く間も無く、次の瞬間──。
「────ッッッ!」
悲鳴を上げることすら許さずに、ユートの身体は宙を舞った。地面から膨れ上がった風圧がまるで紙切れのようにユートの身体を天へと押し上げたのだ。
「──ッ、え⁉︎ ちょぉぉっ……────っっっ! ──んぐっ」
一瞬遅れて役体もなくユートが絶叫する。逆バンジーと表現するには生温い衝撃と、風圧をモロに顔面で受けた。嘘のように舞い上がった身体は以前風を受けて上昇する。
気付けば視界に映る一面の青に絶句する。凡そ現在の文明では人類が到達し得ない上空。いや他所に行けば飛行機はあるのかもしれないが、少なくともユートは生まれてこの方プロペラ機すら見たことがない。だが今ユートのいる場所は紛れもなく空だった。
視界いっぱいに広がる青と遥か下に広がる大地とティルナノッグの街並み。見惚れる余裕などなかった。何せここにはユートが頼れる大地がどこにもない。
「ひっ……」
浮遊感と同時に次に来たる未来が容易に想像できてしまい、血の気が引く。何せ自分はファズなだけで、妖精みたいに飛べるわけではない。
「そんなこと知ってるわ」
と、白の妖精がヒョイとユートの顔を覗き込んできた。
「あ、わ、リッ……」
パクパクと口を動かして、ユートは我に返ると縋るように速攻で目の前の少女の腕にすがりつく。賭けてもいいが、どんな屈強な大男でも命の危険に晒されたらカッコ悪いとかそんな事は言ってられないに決まっている。
「大丈夫、落ちないわ。お前、浮いてるでしょう」
「え、嘘、いや、たしかに……?」
向かい合ったリッカが呆れたような半眼で、自分の両腕を掴むユートを見ている。そう言えば落ちるにしては自分が落下している感覚がない事にそこで初めてユートは気づいた。リッカの両腕を握っている手にも自分の体重はかかっていない。
「お前みっともないくらい真っ青よ」
「誰のせいだと⁉︎」
動揺がそのまま口からまろび出た。と、叫んだ瞬間バランスを崩す。
リッカの腕を掴んだままだったが、薄情なことにペイッと両手が外される。ひぇ、と悲鳴が漏れたが、ユートの身体はそのまま落下……はせずに空の上でくるりと一回転しただけだった。まるで昔本で読んだ宇宙空間みたいに。
「うわ、すご……。え、何だこれ」
信じられないはずの高所で浮いている不可思議な光景。幸いにも高所恐怖症の気はユートには無かったようで、落ち着くと少し好奇心が持ち上がってくる。そんなユートを尻目に、リッカは首を傾げる。
「ちょっと勢いが強すぎたのね。お前の身体はいじれないから風で飛ばしてみたのだけど加減が分からなかったみたい。きちんと壊れないようにしたから、損傷はないと思うけれど」
「壊れないように?」
「お前の身体よ。そのまま吹き上げても良かったけど、人体の強度を考えたら壊れるかもって寸前で考え直したの」
「…………」
衝撃的な発言に思わず無言になる。もしかしなくともユートはそのリッカの思いつきがなければ今頃死んでたのでは?
無言で漂うユートに何食わぬ顔でそれから、とリッカは続ける。
「この辺りの空気は調整しているけど、わたしから離れたらお前落ちるわよ」
「ちょおぉぉぉぉ!?」
急いで手足を動かしてリッカのところへ戻ると、目の前の妖精の腕を必死で掴む。もしかしなくてもじゃない。今自分は現在進行形で目の前の妖精に生死を握られているのだ。ユートの考えていることが伝わったのか、どこか愉しげにリッカが笑う。まるで、そうね、と肯定するように。普通に怖い。
「じゃあ上がりすぎてしまったから降りましょうか」
あの塔に行きたかったんでしょう? とリッカが小首を傾げる。つまり彼女は『下から登れないなら上から行けば良いのでは?』という考えに落ち着いて、ユートを上空まで吹き飛ばしたと言うわけだ。
「……お願いします」
もはや反発する気すら起きなくて、ユートは肩を落としてリッカに頼むのだった。
◇
ユートとリッカが降り立ったのは浄化塔の屋上で、屋上には非常扉があった。
当然鍵がかかっていたのだが、鍵は内側のつまみを回して閉める簡単なもので、いとも簡単にリッカが壊してしまった。音もない鮮やかな手並みに驚くばかりで、物を壊してはいけないという当たり前の注意すら口から出なかった。そもそも忍び込む協力を依頼したのはユートである。
ドアノブに手をかけると、アイノの忠告を思い出したのか背後のリッカが何も言わずに姿を消した。キィ、と微かな音がして扉が開く。内部は薄暗かった。下へ伸びる階段を、申し訳程度に設置された青白い電球が照らしている。人の気配を窺って、何も聞こえないことを確認するとそっとユートは中へ身を滑り込ませた。
「なぁリッカ。人の気配とか分かるか?」
小声で尋ねるといない、と直接思念がユートの脳に返ってくる。細く息を吐き出して、ユートは足音を殺してゆっくりと階段を下り始める。リッカがいるだけで随分事がスムーズに運ぶ。
(……そういえば妖精が何ができるのかって具体的に聞いたことないな)
姿を消したり現したり、くるくると飛び回る妖精達。水道の蛇口から出る水を魔法みたいにくねくねと動かして遊んでいるのも見たことがあるが、彼らの能力は一般人には開示されていない。
(自然の力を操れるとか、そういう? 物語に出てきそうな設定だな)
──妖精は物質に干渉できないわ。
ふっとユートの脳に木の葉を揺らす風のようなリッカの思念が滑り込んだ。
──お前達が妖精域と呼ぶものは物質が存在しない世界だったからカタチには不慣れなの。その反面精神に関する部分の扱いには長けているけれど。
ここまで来れば確信するしかないが、リッカはユートの考えていることを正確に読み取っているらしい。もう驚くことさえせずに、ユートは囁き声でそれに答える。
「物騒だな。つまり洗脳したり出来るって事?」
──人間みたいな複雑なモノに干渉はしないわ。でも構造が単純なモノに指向性を持たせるのは難しくない。空気や大地、草木や水といったものに。
「さっき君がやったように?」
すぐに肯定が返る。リッカの説明は感覚的で最低限なので全貌を掴むことはユートには出来ないが、やはり魔法みたいなものなのだろうと言うことは分かる。知らないだけで、この都市の人間は随分危険なものをそばに置いているという事実に今更ながらに背筋が冷えた。
そう、危険なのだ。
この都市の人間は妖精をそばに置きすぎて失念しているが、実際のところ妖精の危険性は人間には計り知れないのではないだろうか。
(しかもしない、って事は出来るって事だろ)
──人間への干渉は出来ない個体がほとんどよ。さっきわたしがしたような事もやる意味がないから、ほとんどの妖精はしないでしょう。
やる意味がないから。それはやる意味があれば出来ると言うことで、安全性の面から見るとほんの慰め程度にしかならないのだが、リッカに言っても詮無いことだというくらいはユートにも分かった。
ため息をついて、意識を目の前に切り替える。
浄化塔の中は静かだった。階段はすぐに終わり、恐らく内部施設へと続く扉の上で非常灯がぼんやりと光っている。降りてきた階段は非常階段だろうから普段から人の出入りがないのは分かるが、それにしても物音ひとつしなくて不気味だった。クラン・シーがどう言う状態なのかは分からないが、常駐している研究員はいないのだろうか。
このドアの向こう誰かいる? とリッカに尋ねると即座に否定が返る。
──人間はいないわ。でもかすかに妖精の気配がする。
「クラン・シーがいるのか?」
──多分そう。
おかしい、と思う。浄化を行っているクラン・シー以外誰もいないなんてことがあり得るのだろうか。ヴィルヘルムやアイノの言葉からクラン・シーが監視対象である事は分かったが、ならば尚更監視員の一人や二人いてもおかしくないだろう。
──ユート?
怪訝そうにリッカが尋ねてくる。その声に背中を押されるように、いや、とユートは首を振った。
「行こう」
◇
廊下はごく短く、同時に薄暗かった。
浄化塔はティルナノッグの中でも一番高い建物だと言うのに、窓がないせいかまるで地下室にでもいる気分になる。
「……参ったな」
──どうしたの?
扉の前に来た瞬間、自分の愚かさを呪った。中へ入るための扉はカードキーによる認証が必要だった。考えてみれば当たり前だ。どうしたものか、と扉の前に立った瞬間、不意にピピッと音を立ててカードキーをかざすパネルが緑に光った。
「え?」
クィン、とかすかな電動音を立てて自動扉がゆっくりと開いていく。
(まさかエレベーターで認証してるからここは自動パスなのか? いやそんな馬鹿な訳が……)
どうしようか悩んで、くそっどうにもでなれ、とユートは開いた扉から中へと滑り込む。途端にコツン、と意外にも高い音で自分の靴音が反響してギョッとした。
「何だ、ここ……」
浄化塔の内部は、だだっ広い空洞のようなスペースになっていた。
浄化等自体が円柱に円盤をブッ刺したような構造をしており、ここはその上部についた円盤部分だろう。内装は昔写真か何かで見た展望室のような広い空間になっていて、窓は一つもない。
そして部屋の真ん中に、半透明のポッドが小円を作るように並んでいた。
「…………」
カツン、とだだっ広い空間に靴音が響く。
その音に注意を払うことすら忘れて、ユートの足は吸い寄せられるように、ポッドに向かって進んでいった。
そこに何があるのかすでに予想はついていた。
並べられたポッドはユートが定期点検に使っているものとよく似ていた。だとしたらそこには何が入っているのか。想像はつく。いや、ユートはすでに答えを知っている。
それでも確かめずにはいられずに、一歩、また一歩とポッドに引き寄せられていく。
「…………」
果たして覗き込んだ先には──。
子供が眠っていた。
「──っ」
予想はしていても、息が止まった。
数は全部で七つ。その全てに、小さな子供達が寝かされている。もちろん彼らは人ではあり得なかった。彼らの額からは妖精の特徴である触覚が伸びていて、特に栄養状態に問題があるようにも見えない。
異常だったのは、彼らが皆一様に目を開いていたことだ。
光のない瞳は近づいてきたユートに反応することすらなく、焦点を結ばないまま何もない宙を見つめていた。虚のような瞳の中には濁ったような妖精核が浮かんでいる。
無意識の内にみっともなく震えた息が、喉から漏れ出ていた。浅くなった呼吸が酸素を求めて喘ぐように時折ヒュッと息を大きく吸う。知らず一歩後ずさった瞬間、不意にユートの耳にかすかな音が届いた。
カリ……、カリ……。
「……ぇ?」
キー……、キー……。
それがポッドの中から聞こえる音だと理解するのに随分と時間がかかった気がする。ゆっくりと視線がポッドの中に入ったクラン・シーの手元に落ちた。そうして、気付く。
寝かされたクラン・シーの小さな指がポッドの内部をかすかに引っ掻いている。かすかに、まるで──。
まるで、助けを求めるみたいに。
(……そういう、ことか)
まるで他人事のように、ユートは彼らの言っていたことを理解した。
カリ……、カリ……。
キー……、キー……。
小さな指が通った跡がかすかに黒く線を引いていた。赤く固まったそれは、多分こびりついた血だ。
「そっ、か……そう、いう……」
呟いて、堪え切れずに片手で目を覆う。溢れた息が引きつっている。
(ヴィレ、君は本当に、いつも正しい)
彼が出ていけ、という訳だ。もうこの都市は保たない。そりゃあそうだ。こんなシステム長続きするはずがない。続けていい道理がない。
ようやく分かった。この都市は、妖精共栄都市ティルナノッグは純然たる妖精と人間の権利が保障された夢のような──、人にも妖精にもなれない者たちを養分にして咲き誇る楽園だ。
だからユートがリッカを選ぶなら、出ていかなければならない。当然だ。
クラン・シーはもうずっと、巨大なこの都市の食い物なのだ。目の前の光景はあまりに非人道的で、だからこそユートの思考は冴えていく。オーガストはリッカを寄越せと言った。それが意味するところはつまり──。
(そんなこと)
目の前のカプセルの光景にリッカの姿が重なった。許される訳がない、とそう思った瞬間。
カツン、と隣で音がした。
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