第四章 浄化塔
第15話 運命
これまでの人生で紅の妖精と出会った時の衝撃を上回るものなどない。
一目見て恋に落ちた。
いや、恋というにはその衝動はあまりにも暴力的だ。胸の内を一息で焼き尽くすような炎は、たちどころに身体の末端に至るまでのことごとくを貫いた。
それは歓喜だった。
衝撃だった。
幸福だった。
天啓だった。
炎は今も消える事なく胸の内に灯ったまま、日に日に強くなっていく。
美しさは時に暴力的だ。その姿を見るたびに追い立てられるように走り出す。もっと、もっとこの美しい世界を見ていたい。もっと、広げていきたい、と。
オーガストにとって
◇
白んでいく空を広い窓から眺める。空の上でキラキラとした光が幾筋も舞い踊るのを、オーガストはウットリと目で追った。
幼い頃は地位を得た人間がどうして高いところに住みたがるのか分からなかったものだが、今なら少しだけ彼らの気持ちがわかる。叶うのならば過去の人類が築いた栄華極まる高層ビルの最上階からこの都市を眺めてみたいものだ。
「あぁ、美しい」
あふれた思いは吐息のように口から溢れた。
言葉は不自由だ。その単語は彼らを表現するにはあまりに陳腐でみすぼらしい。だがどれほど飾ってもしっくりとくる言葉にはならない。きっと彼らにふさわしい言葉を人間は奏でることはできないのだろう。それなら賞賛はシンプルな言葉に戻る。ただ美しい、と。
穢らわしい部品を何一つ持たない、生命としての穢れを一切排除した完璧な生命体。
妖精。
その生命がこの都市に溢れている。
何と、美しいことか。
ティルナノッグという都市はオーガストが再編した都市だ。
当時オーガストは妖精研究の統括をしており、緊急時の避難機構として実験的に都市の計画を進めていた。多くの金と資源、何よりオーガストの理想の全てをつぎ込んだこの都市計画を最後まで許さなかったのは前市長、つまりヴィルヘルム・ライネの父親だった。
だが神はオーガストを見捨てることはなく、多くの幸運に恵まれた結果オーガストはこの都市に生きている。
前市長と最後まで分かり合えなかったことはとても残念だった。
彼は良い人だった。この景色を共にできたのであれば、きっと分かり合えただろうに、とオーガストは本気で思っている。それぐらい、この都市は美しい理想で出来ているのだ。
「グレース」
──何かしら?
祝福の名を呼ぶと、空間が不自然に揺れた。現れた紅の曲線にほう、とオーガストは息をつく。
「いつ見ても君は本当に美しいね」
──アリガトウ。
「私は毎朝感謝するんだよ。この世界が君たちという新しい生命を迎えたことに。この時代に私が生まれたことに。そして、君が私の側にいてくれると言うことにだ」
──そう。それはコウエイね。
「ああ、光栄などと言わないでくれ。グレース。人間の真似事などしなくても良いよ。君はありのままで十分だ。無論君がその遊戯を楽しんでいるのであれば、それは私にとっても喜びに相違ないがね」
ユラユラと揺らめく真紅の髪は遠い昔写真で見たサバンナの夕焼けを思わせた。自然の美しさと妖精の美しさは少し似ている。人の手が届かないものこそ、この世界の宝だ。細い手を取って口付けると、オーガストはグレースの手を取ったまま外に目をやる。
──この時間、とても静かね。本当に微かなザワメキだけよ。
「つまらないかい?」
そう尋ねるとグレースは艶やかに微笑む。
──それをワタシに聞くの? えぇ、いいわ。ツマラナイわよ。だけどそれ以上にとびっきりの悦びがあるのでしょう。ワタシがアナタのそばにいる意味を忘れないでね。オーガスト。
「忘れないよ。忘れるはずがない」
その時ピピッ、ピピッと、小さな電子音が鳴った。
電話の呼び出し音だ。グレースと過ごす時間を邪魔することが得策ではないと言うことは、研究所の誰もが知っているだろうに。それでも連絡してくると言うことはよっぽどだ。
未練がましくグレースに視線を送って細い手を離すと、代わりに冷たい受話器を手に取った。
「私だ」
『早朝に申し訳ありません。至急確認したいことが』
「どうした?」
『浄化塔の予備に充てていたパーツが応答しません。恐らくもう再起は難しいかと』
「……スペアはまだあるのかい?」
『……DDの為に確保している個体は数体ありますが、あまり動かすのはお勧めしません。ただでさえ数を減らしているので。後はもう来年分の個体を起こすしか……』
「それは良くないな。途中で起こしたら前もあまり使い物にならなかっただろう。……いや、まあいいか。一体くらい減っても。代わりはある」
『と、申しますと?』
「いや、こちらの話だ。起こして使ってくれ。では切るよ」
『あ、ちょっと所長……っ』
尚言い募ろうとする連絡役を無視して、受話器を置いた。
研究所の人間はオーガストの事を所長と呼ぶ。ティルナノッグが設立する前から、研究所を仕切っていたのはオーガストだったから、その時の名残がいつまで経っても抜けないのだ。
「ふぅ、やはり早急にユートに頼まねばならないね」
グレースを振り返って、オーガストは困ったようにため息をついた。
──あら、まさか心を痛めているの?
「痛むさ。ユートの事は愛しているからね。あの才能は本当に素晴らしい。あまりに羨ましくて、時たまあの身体を引き裂きたくなるよ。何かのおとぎ話みたいに、ユートを食べたらあの体質が手に入ったりはしないだろうかって本気で考えてしまうこともある。夢に見た事だってあるくらいさ! だけどそれは流石にお伽噺だろうからね。サンプルも彼一人しかいないし、試してみるにはユートの命は惜しいから」
だから代わりにあの才能をたくさん慈しむことで我慢している。才ある者は愛すべき存在だ。
「だから例え必要悪だとしても気がひけるよ。ユートは繊細だから絶対に傷つくだろう? 折角外側に向いてきたあの子の心がまた内に篭ってしまうのは、育て親としては悲しいことだ」
──アナタって本当に不思議ね。それだけ他人の子供には心を痛めてるのに、自分の子どもはどうでも良いの?
「あの時はアレがそう言うものだとは知らなかったからね。でも今は同じくらい大事に思っているよ」
苦笑をこぼして、いたずらにグレースの髪に指を通す。重みを感じない、サラリとした感触は心地良い。
「ねえ、グレース。あのクラン・シーはどれくらいもつと思う? 一瞬で第七区画を浄化しただろう。君から見て、どれくらいこの町を維持できる?」
──直接見たわけではないもの。出力が分からないから何とも言えないわ。だけどアナタの話を信じるならこれまでとは比にならないくらい長持ちするんじゃないかしら。
「三年くらい?」
ワクワクした気持ちで問いかけると、グレースはツッと唇の端を持ち上げた。
──五年くらいかしら?
「それは…、とても素晴らしいね」
ほう、と感嘆の息をついた。
あと五年、この美しい都市と共に在れる。何て甘美な響きなのだろう。
「じゃあ、やはりすぐにでもユートを説得しなくてはね」
どうしたら分かってくれるだろう、とオーガストは考える。
優しいあの子に対して、出来る限り誠実でありたい。そうすれば、きっと理解してくれるだろうとオーガストは信じていた。アイノだってそうだった。
──ねぇ、オーガスト。
ふと、グレースが思考に割って入った。スルリとそばに寄った妖精は尖った指をオーガストの頬に走らせる。そうしてとびきりの悪戯を思いついたように、蕩けるような笑みを浮かべた。
──1つ、ステキな提案があるのだけれど。
◇
翌朝、ドアに挟まれていたらしい走り書きに呼び出されて、第一区画の端までユートは移動していた。
整然と並ぶ建物の隙間を縫って、奥まで進む。建物の間は光が十分に届かず薄暗かった。こんな奥まで来たことがない。急ぎ足で目的地まで向かうと、指定通り大きな倉庫に突き当たった。外階段の下のドアをノックする。
「来たよ」
遠慮がちに声をかけたが返事はない。焦れてドアノブを回すと意外にも鍵はかかってなかった。休憩スペースか何かだろうか。ユートのワンルームの半分もないスペースに机とパイプ椅子が四つ。その一つに目的の人物が座っていた。
「よう」
パイプ椅子に腰掛けたヴィルヘルムは、街で偶然居合わせたみたいな軽さで片手を上げると、早く締めろよ、と扉の施錠を促した。
「よう、じゃないだろ。何やってるんだよこんな所で」
「ん? 待ち合わせ?」
「それは分かってる! 呼び出されたのは僕なんだから!」
朝イチいつものように『おはよう』と言ったリッカが、差し出してきたユート宛の封筒には手書きの簡単な地図と『十時に待ってる。V』と書かれた非常に簡潔な走り書きの紙だけがは言っていた。朝窓に誰かが置いていったわ、とこれまた簡潔にリッカが説明してくれた。
「待ってるって何だよ! 見つけてなかったらどうするつもりだ!」
「ポストより見つけやすいだろ? 俺もあんまり時間ないんだ。まぁ、座れよ」
ケラケラと笑いながら、ヴィルヘルムが前のパイプ椅子をすすめてくる。全くもって危機感のない友人の様子にペースを乱されながらも、崩れるように椅子に腰を下ろす。
「で?」
「で、とは?」
「用件だよ! お前が僕をこんな風に呼び出すの初めてだろ⁉︎ 焦るだろ⁉︎」
一応ヴィルヘルムは要人だ。どうせ今日も見張りの人員に協力してもらって抜け出してきたのだろうが、ユートが呼び出されたことは一度もない。当然緊急だと判断する。
「だってお前もそろそろ俺が恋しかったろ? 違ったか?」
「やめろ、大いに誤解を招く」
だが、恋しかなくとも話がしたかったのは事実だ。
はじめに『オーガストにリッカを会わせるな』と言ったのはヴィルヘルムだ。ヴィルヘルムは初めからリッカの事情を予測していた可能性が高く、その忠告の真意をユートは聞いていない。
「で、噂のリッカちゃんは連れてきてくれたのか?」
「連れてきたよ。……リッカ」
少し迷って名前を口にする。まだ呼び慣れていないせいか、少しどもる。ふわりと後ろの空間が揺れた。姿を現した真白の妖精を目にして、ヒュウとヴィルヘルムが口笛を吹く。
「確かに。ユートが自慢してた通りの美人だな」
「自慢してない。口を慎んでくれ、頼むから」
本人前でサラッとリッカに対する所感をバラされて、気恥ずかしさに目を伏せる。
ヴィルヘルムはユートの頼みをサクッと無視し、対するリッカも照れるでもない。あまりに関心がないのもちょっと傷つくのだが、残念ながら本当に関心がないようで、リッカはユートに判断をおもねるようにチラリと視線をよこしてくる。諦めてユートはヴィルヘルムを紹介することにする。
「ヴィレ、僕の友人だよ」
「ゆうじん? あぁ、友達ね。リッカよ」
「ヴィルヘルム・ライネ。ヴィレでいい」
そう言ってヴィルヘルムが差し出した手をリッカが不思議そうに見る。「握手だよ、手を握るんだ」そう説明すると、理解したのかリッカはその手を握り返す。
「会えて光栄だ。第七区画の浄化、君がやったんだろ?」
「な……っ!」
ガタッ、と音を立ててユートは椅子から立ち上がった。
どうして知ってる、という言葉が喉元まで出かかる。昨日オーガストはリッカの能力は規格外だと言っていた。ヴィルヘルムは友人だし信用しているが、この男がユートに言わない秘密をたらふく抱え込んでいるのも知っている。
「まぁそう警戒すんなよ。取って食おうってわけじゃないんだからさ。座れって」
ヴィルヘルムが苦笑した。そしてリッカは特に隠すでもなく『そう』と肯定を返した。
「簡潔な答えをありがとう、リッカ。まぁ、俺だってそれくらいの情報は持ってるさ。お前俺のことなんだと思ってるんだ?」
「情報を遮断された深窓のご令息」
「すげぇ心外だ。ちょっと傷つくわ」
無論ヴィルヘルムにそんな儚いイメージはない。ないが、扱い的には同じようなものだ。それなのに流石のユートでも秘匿情報だと推測できるリッカのことをサラリと口にする辺り、この男裏で何をしているのやら全く掴めない。
「それで本題だけど、お前クラン・シーの事は聞いたか?」
「……聞いたよ」
そもそもヴィルヘルムが知っていることが意外だが、もう何も驚くまい。ユートから聞きかじった話だけで、ヴィルヘルムはリッカがクラン・シーであると推測していたのだ。
「ヴィレは、妖精やクラン・シーのことに詳しいのか?」
「研究者じゃないからな。専門的な事は分からないが基本的なところは知ってるよ。クラン・シーが元々人間だってこととかな」
リッカの方をチラリと見るが、表情は読み取れない。昨日コルムからそう告げられた時もリッカは少しも動揺していなかった。まるで初めから知っていたようだった。
結局コルムもアイノも『どうしてコルムは研究所にいないのか』というユートの問いかけには答えてはくれなかった。ただその代わりにコルムは全く予想外の言葉を口にした。
机にのせた拳を握りしめる。息を吐き出して、ユートは目の前にいるヴィルヘルムを見据えた。
「……ヴィレ、知ってるなら教えてほしい。この都市に、コルムとリッカの他に都市で暮らしているクラン・シーはいるのか?」
「それは研究所で管理されてない個体って意味だな? 答えはノーだな」
予想通りだった。少なくともユートは、人間のような感情表現をする妖精をコルム以外に見た事がない。それが意味するところは、クラン・シーはすべからく都市の管理下に置かれているということだ。
「区画は全部で十一区画……、一区画五人だとすると最低でも五十五?」
希少種だと言っていたが、それは結構な数ではないだろうか。だがヴィルヘルムが『いや、足りない』と即答した。
「何で? あ、交代要員とかそういう。三交代として一六五人?」
ユートの言葉にヴィルヘルムが小さく息をついて頭をかいた。
「その辺は専門的な所だから俺はよく知らないけどな。第七区画を一人で浄化したリッカが異常だってことくらいは分かる」
「それは……」
昨日も聞いた。一区画に五人必要だと言うなら、少なくともリッカは五馬力はあるということになる。
「リッカ、君そういう自覚はないのか?」
ヴィルヘルムがユートのそばに立つリッカに尋ねる。ヴィルヘルムの問いに、リッカは少し小首を傾げた。
「他の個体はコルムしか知らないからよく分からないわ。コルムよりもわたしの方が深いけれど。眠っていた時間のせいかしら?」
「深い? 時間って、繭に包まれてとかいう……」
「そう。コルムに聞いたら普通はもっと早く起きるものらしいけれど、わたしは起きると言うことがどういうことかよく分かっていなかったみたい。どれくらい眠っていたのかは知らないけれど、うんと長く眠っていたことだけは知っているわ」
「…………」
リッカの言葉にヴィルヘルムは一瞬沈黙し、それからユート、と少し真面目な声音で名前を呼んだ。
「何だよ。真面目な顔して」
「お前、リッカの事大事か?」
「は?」
あまりに脈絡がないし、直球の質問だった。
「え、あ、待っ……」
弾かれたようにリッカを見て、ヴィルヘルムに視線を戻し、またリッカを見る。リッカは無表情だ。だがこちらを見下ろす目はいつもより、どこかしら試すような色を持っている気がして、それはリッカにとって興味を持っていると言うことに違いない。
大事かと聞かれたらそりゃ大事だ。この間改めて思ったが、言葉に出すとなると全く話は別になる。結果的に何とか平静を取り繕ってユートは答えた。
「大事かって……、そりゃ、程々に」
「ほどほどに?」
何故かリッカが刺々しい声で尋ねてくる。
(いやいやいや、今更何で僕の回答に興味がある⁉︎)
そもそもこれまでの会話から、リッカには人間の感情の機微が凡そ分かるのではないかとユートは思っていた。この間もユートが自分のことを好きだと確信を持っていたようであったし、言葉以上に明らかな指標があるならユートの答えに別段重みなどないだろう。
八方塞がりでとりあえず恨みを込めてヴィルヘルムを睨みつけると、こっちはこっちで顔を伏せて肩を震わせている。
「お前なぁ!」
思わず机を叩くと、いやすまんすまん、とヴィルヘルムが片手を上げて謝る。
「可哀想だから引き取ってあげるけどユートはわたしのことが好きだし、そりゃあもう大切に思っているはずよ」
「ぶっ」
と思ったら横から爆弾が投下された。ヴィルヘルムが吹き出してもう一度机に突っ伏す。
「オイ!」
「違うの?」
「違わないけど! それは家族的な意味合いで! 親愛とかそう言う意味合いで!」
必死でそう言うと、リッカがますます意味がわからないというように眉を寄せた。
「好きに種類があるの? 種類に意味までついてくるの? お前たちって本当に面倒な生き物ね。謝罪なさい」
「え、今の僕が悪いの?」
ヴィルヘルムは肩を震わせながら身体を起こすと分かった、とこっちも何が分かったかも分からない理解を示してくる。
「ユートの気持ちは分かった。何であれ、素直に良かったと思った」
「どう言う意味だよ」
「そのままの意味だよ」
ヴィルヘルムが、笑いを噛み殺して、呼吸を整える。それならいいや、と独り言のように呟いて、ユートの方を向く。
「ユート。お前、今すぐリッカを連れてこの都市を出ろ」
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