第14話 要請
にわかに背筋が冷える心地がした。
だとしたら、それは人類にとって希望だ。精神性のある生物が、妖精域から生きて返ってきた。そこには妖精域で人類が生きていける答えがあるのではないだろうか。そんな妖精を人間が野放しにするだろうか? 人であるユートでさえ、オーガストの助けがなければ実験動物になる未来があったかもしれないのに。
「その妖精は……、どうなったんですか?」
ユートの疑問にオーガストはおかしそうに笑う。
「君らしい質問だね、ユート。心配には及ばない。彼女は貴重なサンプルとして、とても丁重に扱われた。妖精の国に初めて招かれた少女、『ウェンディ』と名付けられてね。何せ文字通り人類の希望だ。雑に扱って壊れてしまっては代わりがないだろう? そしてウェンディは人類にとってまさに救世主となった。期待以上の働きをしてくれたんだ」
「妖精の触覚と違って、ウェンディの触角にはインスプリングを一定範囲無効化する作用があることが分かったの。人類のことを知って哀れに思ったのでしょうね。彼女の触角からこぼれ落ちた奇跡の欠片。それがウェンディ・ドロップ。通称DDよ」
「……それが本当なら何も解決してないじゃないですか」
少なくとも、人類はインスプリングという未知を何も理解できていないのだ。だがオーガストは肩をすくめただけだった。
「元より空間侵蝕は解決できるモノではないよ。人知の及ばぬ災害だ。その中で私たちに出来る事をするだけさ」
「薬も浄化システムも、その妖精によるものなんですね?」
「うん、話が早くて助かるよ。正確に言うなら、その妖精種によるものだ。私たちは彼らのことを<
「クラン、シー?」
ゆっくりとリッカを振り仰ぐと、リッカは自分のことだというのに興味がなさそうに明後日の方向を向いていた。その瞳が何を映しているのかは分からない。
(……初めから、妖精じゃなかったのか)
いや、今の話だとクラン・シーも妖精の一種であることに代わりはないのだろう。だからリッカは己が妖精であるかと言われても、否定する必要がなかった。
「さて、そろそろ本題に戻そう。リッカの事だ」
オーガストとアイノの説明で、言われるまでもなく理解した。ウェンディはDDを生み出せる『クラン・シー』と呼ばれる希少な妖精で、リッカも同種だ。つまり、この都市の浄化システムたり得る逸材ということだ。
(そう言うことか)
つまりリッカは昨日、汚染された区画を浄化したのだ。リッカはきちんとユートに尋ねたではないか。お前は人間を助けたいの、と。
「ここ最近の浄化システムの不具合は……」
「うん。クラン・シーの不調によるものだ。このティルナノッグの十一区画、全ての範囲を二十四時間浄化し続けているからね。クラン・シーはとても珍しい種でね。見つけたらすぐに保護しているんだが、それでも数が足りない」
それと、と不意にオーガストは声のトーンを落とした。
「リッカが欲しいといった理由はもう一つあるんだ、ユート」
「……何ですか?」
「本来この都市の一区画を浄化するには少なくとも五体のクラン・シーが必要だ」
「え? でも」
思わず困惑する。昨日のリッカは確かに一人で区画を浄化したはずだ。
「その通り。リッカは一人で区画を浄化した。リッカの浄化能力は消極的に見積もっても規格外なんだよ。それがリッカの協力を頼みたい一番の理由だね。でもリッカは君の妖精だから、何はともあれ君に許可を取らなくちゃと思ったんだ」
「僕に、許可を?」
「うん、改めてお願いしよう。ユート、リッカをこの都市のために譲ってくれ。これは市長として、この都市の代表としての願いだ」
オーガストはそう言って真っ直ぐにユートを見る。
(何だ?)
違和感があった。それはとても嫌悪感に似ていて、ユートの頭にこびりついて離れない。
(譲る?)
オーガストは自他共に認める妖精狂だ。妖精を賛美し、妖精に敬意を払い、公的な権利まで保証した妖精を愛する人間だ。その彼が、ことクラン・シーに関してはまるで物のように言葉を選ぶのだ。
リッカは静かだった。
出会った当初強引にユートに同行した時や、初日に研究所に引き渡そうとしたことに不満を見せたような態度は一切出さない。それはまるで、ユートに任せると言っているようで。まるでユートに選択することを赦すと言っているようで──。
「嫌です」
静かに答えた声が、事務所にやけに大きく響いた。断られる事を予想していなかったのか、オーガストがここにきて初めて驚いた様子を見せた。
それはそうだろう。ユートは妖精嫌いで、オーガストは恩人だ。今までのユートであれば間違いなくオーガストを取った。人間を、取った。
「どうして? もちろん丁重に扱うよ」
「そうじゃなくて。僕は──」
リッカの事をまだよく知らなかった。
自分のことは話せた。だけどそれだけだ。リッカのことをまだきちんと聞けていない。
「まだリッカのことを良く知れていません。僕は、もう少しこの子と向き合いたい」
今離れたらもう二度と会えないんじゃないかと、そんな予感がこびりついて離れない。
「不誠実なことをたくさんリッカにしました。僕は今までこの子を意志のある生き物として見ていなかった」
だけどリッカはユートを人として見てくれていたのだ。多分ずっと心を砕いてくれていたのだ。好きだと、言ってくれたのだ。
「クラン・シーが希少種である事も分かりました。浄化システムの数が足りないと言うことも、理解しました。リッカが特別であることも。時期が来れば、リッカと一緒に協力もしたいと思います。だけど、もう少しだけ待ってくれませんか?」
そう言ってユートは深く頭を下げた。
沈黙がその場を満たす。やがて、ふむ、とオーガストが頷いた。
「……そうか、残念だ」
そう呟いて、パッと表情を明るく変える。
「まぁ、ユートがそう言うなら仕方がないね。君のわがままはとても珍しいことだし、私も出来る限りは聞いてあげたい。そうだね、もう少し気長に言葉を尽くすとしよう」
言外に諦めていない、と表明してオーガストは立ち上がる。
「あ、そうそう。アイノ」
ピクリ、とアイノの肩が揺れた。オーガストが笑う。
「君からも、今日の私の説明不足は補ってあげてほしい。あまり一気に知っては頭がパンクしてしまうからね。すぐ側にいる君の協力が不可欠だよ」
「……わかったわ」
「あぁ、今日は顔が見れなかったけれどコルムにもよろしくね」
「……」
じゃあ、と挨拶をしてオーガストは事務所を出て行った。慣れ親しんだベルの音がチリンチリンとやけに大きく室内に響いた。
◇
「ごめん、ユート」
オーガストを見送った沈黙の後、アイノが開口一番謝罪を口にした。
あー、と呻くような声を出して、アイノはカウンターに突っ伏す。もう一度ごめん、と繰り返すアイノの謝罪の意味が、しかしユートにはよく分からなかった。
「どうして?」
とりあえず理由を尋ねると、アイノはぐしゃぐしゃと前髪をかいて騙すような真似したでしょ、と答える。
「早く帰ってこい、って言ったけど理由は言わなかった。嫌な話になるの分かってたのに」
アイノらしくない奥歯に物が挟まったような物言いだった。
だがアイノは市長から指定されただけだし、権力的に仕方ないのではないだろうか。そう思ってアイノが謝る必要はないんじゃない? と答える。
「だって市長の要求を通さないほうがダメだろ?」
オーガストはティルナノッグの市長だ。それに昔アイノが研究所に勤めていたなら元上司に当たるだろう。そういう体面的な話はユートも理解できない訳じゃない。少なくともユートにアイノを責める気持ちはなかった。
アイノは目を丸くして、それからふっと力が抜けたように笑った。それもそうかぁ、と静かな声が答える。
「リッカもごめんねぇ。嫌な気持ちにさせちゃって」
「気にしないわ。でもアイツは嫌い」
あけすけな言葉に、アイノは軽く吹き出した。リッカったら辛辣〜、とからから笑うアイノはもういつも通りに見える。あぁでも、アイノがちょっとでも罪悪感とか持ってくれている今ならちょうどいいかもしれない、と思った。
「アイノ」
「ん?」
「それとは別に一つ聞きたいことがあるんだ」
「何?」
「コルムのこと」
ユートがそう口にした瞬間、アイノの持つ雰囲気がかすかに変わる。普段の緩んだ空気がどこかピンと張り詰めたのが分かった。
「なぁに今更。何を聞きたいの?」
ふっと目を細めたアイノの口調はいつもと同じだけど、目の奥は笑っていなかった。それだけで聞かれたくなかったことなのだと察した。
「リッカは特別だって昨日僕に話しただろ。確かにリッカは他の妖精と違って、感情の機微があった。だけどそれ言うならコルムもそうだ。最初に出会った時、アイノは僕に『コルムはすごく変わり者だから』みたいな話をしただろ。だけどそれも妖精の定義に当てはめるならやっぱり不自然だ」
アイノ、とユートが名を呼ぶ。
「コルムもリッカと同じクラン・シーなんじゃないのか?」
「……」
アイノの気配は妙に静かだった。
その癖こちらを見る目線は冷めていて、普段のアイノであれば考えられない冷たさが宿っているのを感じる。まるでユートを品定めしているような視線は、今までアイノがユートに向けた事のない目だった。
それを知ったとして、とアイノの唇が動く。
「どうするわけ?」
「初めはアイノがリッカに研究員の前に姿を現すなって言った理由が知りたかったんだ。元々リッカを僕が保護するように誘導したのもアイノで、そこに理由がないと考えない方がおかしいだろ。コルムもリッカと同じ特別な個体なんだとしたら、アイノが研究所からリッカを引き離そうとした理由はそこにあると思ったんだ。今日の話が本当なら、クラン・シーは希少種で浄化システムの運用には手が足りていないんだろ。だとしたらどうしてコルムは研究室にいないのだろうって思うじゃないか。市長はコルムの事を知っていたんだから、初めにアイノにお願いしそうなものなのに」
ユートの言葉をアイノは黙ったままじっと聞いている。アイノは黙っていれば迫力のある美人で、口を結んだままこちらを見る瞳は鋭利だった。今のアイノには普段感じない威圧感があって、長く一緒に暮らしてきたユートでさえ息が詰まる。
束の間の沈黙を挟んで、アイノの唇がゆっくりと開く。
「……あの子は」
「クラン・シーだよ」
声は奥から聞こえた。アイノがパッと振り返る。
「コルム!」
「良いんだよ、アイノ。黙っておく方がフェアじゃない。それに一度知ったら、誤魔化せるわけがないんだ」
カウンターの奥から出てくると、コルムはユートとリッカに歩み寄る。それからリッカの方を向くと自分より少し背の高いリッカの両手を取った。
「リッカ、ごめんね。初めて会った時に君の質問にきちんと答えられなくて。同じか? って聞いてくれたよね」
あの時コルムは妖精だ、と答えた。
「本当は妖精かどうかを尋ねた訳じゃない。気付いてたけど言わなかった、ごめん。もう遅いけど、今度はちゃんと答えるよ。オイラは君と同じクラン・シーだ」
真っ直ぐにリッカの目を見上げて、コルムは続ける。
「君と同じで感情がある。何故だか分かるかい?」
そう尋ねると、リッカは静かに頷いた。そっか、とコルムが呟く。アイノは落ち着いている。だからユートだけがついていけない。
「どういうこと?」
「あの、ユー坊。落ち着いて聞いて欲しいんだけど……僕らは、その……」
コルムが少しだけ言い淀む。ゆっくり息をついて、すぐに顔を上げる。
コルムの表情はどちらかというとユートに気遣っているように見えて、訳がわからなくなる。リッカに配慮するのならまだしも、何故コルムはユートに配慮しているのだろう。
「……クラン・シーは元々人間の子どもなのよ」
深く息をつくように、アイノがコルムの台詞をついだ。アイノ、とコルムがオロオロとしながらアイノに目を向ける。
「──え?」
「ユート、コルムはね。自分たちが元々人間だったなんてアンタに教えたら、ますます自分とは違う、ってユートが落ち込むんじゃないかなぁ〜って心配したの」
「ちょっ、アイノ!」
「いや、ちょっと、待って」
話についていけない。どこか冷静な自分が『あぁ確かに一周回れば自分が思いそうなことだ』と納得する。それ以前に自分の人生に関わる悩みが話したこともない二人に筒抜けだったことにも動揺する。
「まぁアンタの悩みはアンタのものだから嘴を突っ込む気持ちはないけどねぇ。でもま、ちょっと今は端に置いてこっちの話を聞きなさいよ」
ヤケになったようにそう言い放つと、ちょっと待って、とアイノはガタリと立ち上がり奥に引っ込んでいった。
そしてすぐに戻ってきたアイノの手にはビール瓶とカップが握られていた。唖然とするユート達の前にカップをおいて、手酌でビールを注いでぐいっと煽ると、『よし。良いわ、教えたげる』と憮然として言い放った。
素面で話せるか、と言う事だろうか。
「妖精域の精神汚染の速度は大人に比べると幼児は遅い傾向にあるのは知ってるわね? クラン・シーは妖精がイタズラに己の妖精核を片方、人の子どもに押し込めて生まれた新種の生物なのよ。適合年齢は三歳まで。それ以降は一気に適合率が落ちるわ。一説では脳の成長が関係していると言われてる」
幼いことも影響してか人間の時の記憶が残っていることはほとんど無いという。妖精核を移植されると、クラン・シーは妖精核との適合のために眠りにつく。
その間は繭のようなものに包まれていて、風や雨で弱ることはないらしい。
その繭は妖精核から構成される無形の妖精のようなもので、適合するまでの間宿主を守り、生まれると霧散する。
「つまり、クラン・シーは人間だってこと?」
ユートの問いにコルムがいいや、と否定する。
「オイラ達は妖精だ。少なくとも研究者はそう定義している。そうだろ、アイノ」
「そうね」
頬に流れる髪を乱暴にかき上げるとアイノが答えた。
「そもそも人の子がクラン・シーになった時、人である頃の部品は何一つ残らないのよ。蝶になる前のサナギって中身がドロッドロに溶けるのは知ってる? それと同じことがクラン・シーの羽化でも起こる。変わらないのは移植された妖精核だけ」
妖精核と適合すると、人の子は生物としての核が変わる。姿も変われば、感覚も変わる。
「ならどうして、わざわざ人の形を?」
「それは本来妖精が物質情報を持たない生命体だからだってのが、今のところは有力な説ね。妖精がガワだけを見て姿を取っているのに対して、クラン・シーは己の構成過程でサンプルになる素体の物質情報を保持している。当然出来上がった肉体は妖精より人間らしくなる。ただその過程で人と同じ精神性を持ってしまったクラン・シーは、妖精と違ってインスプリングの浄化が必要になった、と言われてるわ」
結果的にクラン・シーは人類にとっての希望になったという話らしい。ただクラン・シーはどうしても妖精の気まぐれによる偶然の産物だ。都市一つを浄化するための数が足りなくなるのだという。
「……それならやっぱり、どうしてコルムは研究所にいないんだ?」
オーガストの話と総合して考えると、少しでも戦力になる人出は欲しいはずだ。
「アイノがリッカを隠そうとしたことに、関係があるのか?」
丁重に扱われるとは限らない、と初めてリッカを連れてきた日にアイノは言った。その本質がクラン・シーの扱いにあるのだとしたら──。
アイノが口を閉ざす。
その瞳にはいかなる感情も浮かんではいなかった。ただ真っ直ぐにユートを見ている。そして小さく息をついたアイノが口を開こうとしたその時、コルムがアイノの言葉を遮るように机に乗ったアイノの手を握った。
「!」
驚いたように目を開いたアイノにコルムが一度頷いて、ユートの方を向き直った。
「なぁ、ユー坊」
「な、何?」
たじろいで返事をすると、コルムが少しだけ寂しそうに笑った。
「ユー坊は──」
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