第13話 クラン・シー

 視界を覆っていた帳がゆっくりと引いていく。


 目覚めはいつもクリアだ。起き上がって枕元を振り返ると、デジタル時計は五時を表示している。いつもと同じ時間。こう見えてアイノは寝起きがいい。


 ベッドの端に腰掛けると、分厚いカーテンの隙間から差し込む光とは別の光が視界の隅でチカチカと揺れているのに気付いた。光源は机にあるノートパソコンの液晶画面だ。画面の隅っこに表示されるアラートが、新着メールの受信を告げていた。


 妖精域は電波が通らないから無線では通信は使えない。ティルナノッグも浄化システムが作動しているだけで当に妖精域に入っている事に違いはなく、これは有線によるイントラネットワークだ。全市民が使えるわけではないが、ティルナノッグではある程度のネットワークは敷かれている。


 無表情でメールをタップする。


『 親愛なる私たちのアイノへ 』


 吐き気がした。

 読まずに捨ててやろうかと思ったが、我慢してメールの続きに目を通す。


『 聡明な貴女なら言うまでもないとは思うけれども、昨日第七区で浄化システムの誤作動による事故がありました。貴女は大丈夫? 巻き込まれていない? 』


 当たり障りのない気遣い。だけどそれだけで続きを察する。


『 浄化システムの復旧はつつがなく行われたから安心してね。だけどこの復旧より先に、被害があった一帯でクラン・シーによる浄化が行われたと聞いています。

アイノ、この個体の特定は出来ていますか? 』


「…………」


 アイノは無言でメールをダストボックスに放り込んだ。頭痛と吐き気がした。片手でラックに置きっぱなしの頭痛薬を掴んで一錠取り出すと口に放り込んで、水も使わずに噛み砕いた。


『どうして、どうして……っ!』


 悲鳴のような声が、脳裏にフラッシュバックする。目を閉じるとノイズの入った、だけど鮮明な映像が蘇る。


(ダメだ)


 そう思うのに止まらない。母と父が、泣いている。座り込んで、小さな手を握りしめて泣いている。垂れ下がった手は、ピクリとも動かない。あどけない、舌ったらずな声が、アイノを呼ぶ。


『 ねえね 』


 プルルルル! と控えめな音が思考を割った。


「……ッ」


 知らず知らず呼吸を止めていた。握りしめた手が痛い。呼吸を落ち着かせている間にも、無機質な呼び出し音はひたすら部屋に響いている。


 狙ったかのようなタイミングだった。こんな時間に電話をかけてくる人間は一人しかいない。アイノが必ず五時に起きると知っているのは、コルムを除けばただ一人だけだ。


 チラリとコルムの寝床を見ると、規則正しく毛布は上下していた。パートナーがよく眠っているのを確認して、アイノは受話器を取る。


「──はい」

『おはよう、アイノ』


 すぐに受話器の向こうから、朗らかな声の主が応えた。昔は心地よいと感じていた耳障りのいい声は、今となっては底の知れない気味悪さがある。以前はこの声が自分の一番の理解者だと、愛おしいとさえ本気で思っていたのに。


(大丈夫、落ち着け)


 己にそう言い聞かせると、受話器を握りなおす。自分はもうあの時の小さな女の子ではない。


 一度深く呼吸をして、アイノは静かな湖面をイメージする。それから守るべき愛しい妖精の姿を。そうやって、いつもの人を食ったような能天気な声を吐き出した。


「おはよう、オーガスト。今日も早いのね」



   ◇



 その日ユートがリッカと共に調停屋への帰路についたのは夕刻だった。改めてリッカのことをアイノに尋ねようと思っていたのだが、朝から細々とした仕事があったせいでゆっくり話を聞く時間が取れなかったのだ。

 

「今日はもう仕事は終わり?」

「あぁ。でももしかしたらあるかも。十六時には事務所に戻ってこいってアイノに言われてるんだ」


 と言いつつ十六時はもう五分回っているのだが。いつも適当なアイノが時間指定とは珍しいこともあるものだ。ユートの小走りには追いつけないリッカは飛んで付いてきていて、揺れる髪が度々耳元をくすぐるのがこそばゆい。


「ただいま!」


 もうすぐ十六時十分というところで、ユートは事務所へ駆け込んだ。チリンチリンとドアにつけられたベルが鳴る。ごめん遅れた、そう言って事務所に入った瞬間見知らぬ人物に気付いて立ち止まる。


 カウンターの前には、ユートもよく知る長身の男性が一人立っていた。


「やあ、こんにちは。ユート」

「市長?」


 驚きに目を見張る。カウンターを挟んでアイノの前に立つ男性は間違いなくティルナノッグの市長であるオーガスト・アンダーソンだった。


「こんにちは」


 呆然として、とりあえず挨拶を返す。説明を求めるようにオーガストの正面に立つアイノを見るが、アイノはおかえり〜、といつも通りヒラヒラと手を振るだけだ。


 帰ってすぐ尋ねようと思っていた疑問を一旦引っ込める。代わりにオーガストに『どうしたんですか?』と尋ねた。


「市長が用のあるような場所じゃないでしょう、ここ」

「開口一番それとは。相変わらず釣れないなユートは」


 率直に尋ねるとオーガストは快活に笑った。


「そんなつもりではないんですが……」


 だが事実だ。オーガストは市長であると同時に研究機関のトップも兼ねている。いわば妖精に関してはこの都市で一番詳しいと言ってもいい。妖精との揉め事に関して、オーガストが民間企業に相談を持ち込むというのは非常に考えづらい。

 

 一方でこの調停屋が、研究所の息のかかっている場所であることをユートは承知していた。何せ働かせてほしいと言ったユートを調停屋に斡旋したのはオーガストだ。


 公的機関では分からない妖精についての情報をまとめて提出している、と以前アイノも言っていた気がする。だがそうだとしても、今まで表立ってオーガストが調停屋を訪ねてきたことは一度もないのだ。


(アイノに用事か?)


 よく考えればアイノは元研究員で、オーガストと面識があることは何ら不思議ではない。二人が話しているところを見たこともなければ、お互いの口から名前も聞いたことはないが。


「驚かせて悪かったね。用件の前に、そちらのお嬢さんを紹介いただいても?」


 オーガストの声に我に返る。

 後ろにいたリッカは先程から一言も発していない。ただ小さな手が背後からユートの服の裾をキュッと握ったのに気付いて息を呑んだ。

 

 リッカが不安を感じることの可否はもう疑うことはなかったけれども、それが本当に不安なのか、はたまた警戒なのかを察するには──つまり少女の心情をはかるには、ユートはまだリッカのことを十分に知らなかった。

 一瞬ためらって、ぎゅっと上からその手を握りこむ。幸いにもリッカはその手を振り払うことはしなかった。


「リッカと言います。僕の、妖精です」


 オーガストの目を真っ直ぐ見て答える。その言葉に一番驚いたのはきっとユート自身だ。


 脳裏にはヴィルヘルムに言われた言葉がチラついている。『オーガストに会わせない方がいい』と言った彼の真意を、ユートはまだ聞いていない。あの時やはり問い詰めておけばよかった、と後悔する。


「おや。君が妖精と一緒にいるなんて喜ばしい変化だね、ユート。初めましてリッカ。わたしはオーガストという」


 対するリッカは無言だった。


 細められたアメジストの瞳は冷ややかで、ユートは自分の勘違いを自覚する。不安ではない、警戒している訳でもない。これはリッカに初めて会った時の、不快感に近い。リッカは目に見えてオーガストを嫌悪していた。


 しかしオーガストはその視線を真っ直ぐに受け止めて穏やかな微笑みを返すだけだ。そしてすぐにユートに向き直る。


「さて、用件だったね。もちろん君に会いにきたんだよ、ユート。それから君の妖精さんにも」


 スッとオーガストが目を細める。何故だろう。今までオーガストと会った時はそんな事はなかったのに、今日はとても嫌な予感がする。


「単刀直入に言おう。ユート、その妖精を研究所に譲ってはくれないかい?」



   ◇



 一瞬頭がフリーズした。

 何を言われたかが分からなくて、目を瞬かせる。


 譲る?


(誰を?)


 我に返ったのは、リッカがユートが後ろ手に繋いだ手を握り返したからだ。リッカを一瞥すると、止めていた息を吐き出す。


 疑う余地がない。リッカのことに決まっている。


「どうして、と聞いても良いですか?」

「あぁ、もちろん。立ち話も何だ。アイノ、そこのスペースを借りてもいいかい?」


 オーガストが事務所のソファスペースを指して、親しげにアイノに問う。


「えぇ、どうぞぉ」

「ついでに人払いもお願いしていいかな? あまり誰かれ構わず聴かせたい話ではなくてね」


 アイノは了承するようにヒラヒラと手を振って、入り口の方へと向かった。休業中の看板でもぶら下げにいったのだろう。

 

(そうか、それで四時には帰ってこいって言ったのか)


 市長からの要請ならアイノも断れまい。疑問に思うのはそれをアイノがユートに伝えなかったことだ。招かれるままソファに向かうと、くんと後ろに手が引かれた。リッカだ。


「……大丈夫だよ。裏でコルムと待ってる?」


 コルムが店先にいないと言うことは、多分家の中にいるのだろう。カウンターの奥はアイノの自宅だ。コルムと一緒なら落ち着けるだろうと思ったのだが、リッカは首を横に振った。


「一緒にいるわ」

「そっか」


 今度は抵抗せずにリッカは付いてきた。その代わりユートの側には座らずユートの後ろ、ソファの背に腰掛ける。ユートが座るのを見届けると、オーガストはソファに深く腰かけて、何から話そうかな、と呟く。


「……そうだな。ユート、君はインスプリングが何故妖精には無害なのかを知っているかい?」


 口火を切ったオーガストが最初に発した内容は不可解な内容だった。少なくともリッカを寄越せという理由とは繋がりそうもない。


「……インスプリングは精神に作用する物質で、妖精は壊れるような精神性を持ち合わせていないためでしょう」


 何故今そんな事を問うのだろう、と思いながらユートは素直に答える。不思議だ。今まではこの事実を口にする事を苦々しく思っていたのに、今日は感情に波風が立たない。


「うん、その通りだ。ただ君の言葉には一点だけ誤りがある」

「誤り、ですか?」

「あぁ。何せ実のところインスプリングなんていう物質は存在しないからね。もっと正確に言うと、人類にそれを観測できたことはないんだよ」

「は?」


 そんな事があるはずがない。現に妖精域では人は狂うし、この都市では正常に人が生きていける。


「観測できないものを浄化は出来ないでしょう? ましてや薬なんて開発出来るはずが……」

「その通りだ。よく分かったね。出来ないんだよ」


 理解が及ばない。戸惑ったようにオーガストの目を見返すと、穏やかにオーガストは続きを語る。


「空間侵蝕が発生した当時、人類にはこれに太刀打ちできる手段がなかった。起これば最後、どれだけの規模で起こっているかも分からないし、どこに逃げれば良いのかも分からない。どうして人が狂うのかも分からない。何せ当時の科学力を持ってしても、空気を構成する成分には人体に影響する異常が認められなかった。ガスマスクをしていても狂うからね。


そんな中、空間侵蝕が発生した時に自身の死を悟ったある町医者が、看護師と協力して自分の異変を記録に残したんだ。狂っても決して計器を振り解かないように、自身をベッドに縛り付けてね。妖精域でも有線によるネットワークは生きるから、空間侵蝕の被害を免れた隣町の病院に計器の情報とビデオカメラの映像を送り続けた。最終的には脱水症状で亡くなったらしいけれど、そのお陰で人の脳を狂わせる何かを人類は初めて計測することが出来た。それはある種のドラッグの末期症状と似た状態だったそうだよ」


 淡々と説明される内容にユートは唾を呑み込んだ。生きたまま、ベッドに己を縛り付け、データを送り続ける。聞いているだけで、気分が悪くなる。


「かくして、妖精域に入ることによって人の脳に影響を及ぼす観測不明の何かは『フェアリー・ハルシニウム』と名付けられた。今では通称である『インスプリング』の方が通りが良いけれどね。そして現在に至るまで、人類は人の脳の異変を介してでしか『何か』の存在を立証できていない」


 人類には認知できない。だが実際に浄化は出来ている。そんな事が可能なのだとしたら、それが出来るのは妖精だけだ。妖精から浄化の方法を導き出すしかない。


「妖精に協力してもらったんですか?」

「惜しいね。確かにそうだよ。各国の研究機関は当時人の姿を取り始めた妖精から意思疎通がはかれる個体を見出し、協力を求めた。その環境に適応する妖精から人類が生き残るヒントを導き出そうとしたんだね。だけど当然、君が最初に答えた壁にぶち当たる」

「『妖精には壊れる精神性はない』」


 その通り、とオーガストが相槌を打つ。


「壊れるこころが存在しないから、妖精には浄化の必要がない。つまり人類に適応できる解答が妖精からは得られない。むしろ妖精はインスプリングを娯楽物質として取り込んでいる。ユートは見た事がないだろうけど、妖精はいくら人型を取っていても人間とは全く別の生命体だ。頭を切断すると粒子になって消えるだけだよ。およそ肉体とよべる構造が存在していない」


 想像して気持ちが悪くなる。オーガストの口調は実際に見た事があるような口調だ。いや、実際見た事があるのだろう。


「これで詰みだ。人類は潔く滅びるしかない。かくしてこの世界は旧人類を歓迎せず、美しい妖精たちの園になる訳だ」

「市長、冗談はそこまでにして下さい」


 流石にイラッとして、ユートの声が怒気を含む。


 事実浄化システムは作動しているし、妖精域の浄化薬である『DD』はこの世に存在する。何かしらの回答を人類が導き出したことはすでに証明されている。


「研究が行き止まりになった矢先に、人類の生存域に新種の妖精が現れたの」

「アイノ?」


 話を聞いていたのだろう。入口を閉めて戻ってきていたアイノが、ユートの疑問を引き取った。オーガストが頷いて、アイノに慇懃に手の平を向けた。続きを促されたのだと分かったのか、アイノが後を引き取った。


「今までの妖精と違って、その子は人とほとんど同じ形をしていたのね。瞳には対の妖精核。美しい緑の髪と触覚を持つ、十歳くらいの女の子の容姿をした妖精だったらしいわ。だけど他の妖精と違って、その子は自身が何かをほとんど理解していなかった」


 思わずユートはリッカを振り返った。目が合ったリッカの長いまつげが揺れる。それはまるでリッカの事を聞いているようだ。


「もちろんその子は研究機関に連れて行かれてくまなく調べられた。そうして驚くべき事実が発覚した。その子は人と同じ身体構造を有していたの。使われていない臓器は随分と収縮していたけど、脳は変わらず存在して、人以上に機能していた。


そう、その妖精には『こころ』があったの」


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