第12話 人と妖精

 いつの間にか随分と遅い時間になっていた。

 日没は二十二時前くらいだからまだ暗くはないが、太陽はもう随分と傾いている。


 侵蝕があった七区を離れたところで、肩にあったかすかな重みが離れ、姿を消していたリッカが後ろにふわりと現れた。ストンと地面に降り立ったリッカがユートの側を歩き始めたのを見て、ユートは自然歩調を落とす。


 並んで歩いていると何も言わないのも気詰まりで、ユートは適当に話題を探した。先程のことを気にしていると思われたくなかった。


「さっきさ、どうして研究員が来た時に姿を消したんだ?」


 マリアの方は知らない人間が突然出現したことに驚いてだろうか。彼女の性格を知らないユートには預かり知らないことではあるが、少なくともリッカが人間に驚くところはうまく想像できない。不快に思ったら逆に吹き飛ばしそうだ。


 リッカはけろりとして『アイノに言われたの』と答える。


「え?」


 ただ沈黙が苦痛だったから何の気なしに聞いた事だったのに、予想もしていなかった答えが返ってきてユートは弾かれたように顔を上げる。


「何を?」

「あの服を着ている人たちの前で姿を見せないほうがいい、って」


 どうして? そう問いかけて、リッカが知るはずがないとすぐに思い直す。アイノが妖精であるリッカにそれを説明しているとは考え辛い。


「……いつ?」


 代わりにそう尋ねた。


「ユートがケンコウシンダンに行ってる時」


 そんな前に?

 疑問が持ち上がる。姿を見せるなと言うのは見せれば不都合なことがあるからだ。


 誰にとって?

 リッカにとってか?

 リッカが他の妖精とは違う、とユートがアイノから聞かされたのは今日のことだ。リッカの言葉が本当なら、それ以前からアイノはリッカの異質に気付いていたという事になる。


(……待てよ)


 思い返せば、元々リッカをユートの元へ留め置くように誘導したのはアイノだった。研究所に連れて行くことを迂遠ではあるが、回避するように動かしていたと言ってもいい。


(一体どうして?)


 リッカが妖精とは違うから?

 感情がきちんとある事がそんな問題か?


 疑問が浮かんでは消える。何だか嫌な予感がした。楽観的なアイノがリッカを研究所から遠ざけようとしたのであれば、控えめに見ても穏当な理由ではない。


「……いや」


 感情がある事が問題だと言うのであれば、もう一人ごく身近に問題になる妖精がいる。そういえば出会い頭から『変わり者だから』と感情があることが当然のようにコルムを紹介したのも、アイノだった。


「ユート?」

「あぁ、ごめん。何でもない」


 そう答えながら、ユートは内心浮かび上がった仮説にたじろいだ。

 もしコルムやリッカが普通の妖精とは何かが明確に違うのだとしたら? それが原因でアイノがリッカを研究所から遠ざけたとしたら? ヴィルヘルムがリッカをオーガストに会わせるな、といった理由も関係があるのかもしれない。


 そこまで考えて、唐突に気付いた。


(──だからどうしたって言うんだ)


 リッカは妖精だ。そうやってずっとユート自身も線を引いてきた。


(今更知りたいだなんて、都合が良い)


 それはユートのくだらないプライドを納得させるために知りたいだけで、リッカ自身の事を知りたいのとは違うはずだ。彼女を心配して、何かあれば助けたいからとか、そんな綺麗な感情じゃないはずだ。


 リッカの事だって初めは厄介ごとだと思っていた。

 偶然妖精域で出会って、偶然一緒にいることになっただけの異物。いずれいなくなるから、嵐が過ぎるのを待つようにそばにいるだけ。当たり前の感覚を持った人間であればきっと彼女を捨て置かないだろう、何しろここは妖精共栄都市なのだからと己を納得させて、そばに置いているだけだ。


 だから知りたいのは、安心したいだけだ。

 リッカの事を知って、自分なりに納得できる着地点を探して、まだ自分はリッカを保護しているのだと優位な立場を取り繕いたいだけだ。自分が知りたいのはそういう卑しい理由からで、純粋にリッカを知りたい訳じゃない。今だってさっき気遣ってくれたことに素直に礼も言えなかった。話題を探すなら、まず礼を言えば良かったんだ。


 模倣をしているからボロが出るんだ、と心の中で己の声が囁く。


『<妖精モドキ>?』


 頭の中にユルハの困惑した声が蘇る。


『この騒動もお前のせいか⁉︎』


 あの研究員の声がこだまする。


(本当は、そんなの僕が知りたい──)


 本当は気づいていた。

 目の前の妖精の気高さや優しさに素直になれないのは、自分の優しさがハリボテなのだと目の前に突きつけられる気持ちになるからだ。リッカの飄々とした在り方を見ていると、周囲を気にしている自分が惨めに思えて、だけどそう思っている自分が一番嫌になるからだ。


「ユートは」

「ん?」


 ふと、隣を歩いていたリッカが口を開いた。


「妖精が嫌い?」

「……っ」


 思わず立ち止まると、リッカもつられて足を止めた。ユートを見つめるリッカの瞳には非難の色はなかった。畏れも、戸惑いも、憐憫も。あらゆる感情の見えない、星を宿した宙の瞳。穢れのない無垢を閉じ込めたようなその目を見ていられずに、ユートは目を逸らす。


 違うよ、とそう言いたいのに言葉にならない。


 誤魔化せばいい。いつものようにそうじゃない、と笑って答えればいい。感情が分かると言ってもリッカのソレは人のものよりずっと単調だ。すぐに納得するだろう。


(何でもない顔をして、そんな事はないと答えれば、それだけで……)


 だけど一方で、ユートはもう知っているのだ。


 朝目を覚ますとユートの顔を覗き込んでいる少女の妖精は、ユートが自然に目覚めるまでもう起こそうとはしない。毎朝ユートが目覚めると『おはよう』とただ笑う。目覚めるまでの数時間など無かったことのように、笑いかけてくれるのだ。


「──うん」


 気付けば、懺悔のように溢れていた。


「僕は、妖精が嫌いだ」



   ◇



 妖精域からティルナノッグに救出されたあの日。


 ファズであるユートの事を、研究機関は思いがけず丁重に扱ってくれた。外から来たユートに寝る場所を与え、食べるものをくれた。事情を聞く研究員の声は優しく親切で、母を思い出して涙が溢れたユートを抱きしめてくれた。だからここは安全な場所なのだと、ユートは心から安堵した。


 お前のせいだ、なんてもう言われなくて済むのだと。そう思った。


『ねぇどう思う? ファズって本当に人間だと思う?』


 廊下でそんな話し声を聞いたのは、ユートがティルナノッグに来てから一週間が経った頃だっただろうか。話の内容に思わず身を隠した。その頃のユートはまだ八つではあったものの、ファズが非常に珍しく、その呼称が自動的に自分を指すものだとは分かっていたのだ。話しかけられた研究員は、少し考えてすぐに答えた。


『構造は人間と同じだけどな。脳も臓器も人と同じだし、ちゃんと機能もしてる。すでに乗っ取られた状態だったりとか?』


『あぁ、ファズは妖精に精神を乗っ取られた人間であるって説? ならあの感情は模倣しているだけってことかな。確かにそれなら壊れる精神性が残っていないのも説明がつくけど……』


 聞いていて、息が浅くなった。研究員達の声は聞き覚えがあって、それは妖精域から連れてこられたユートに優しくしてくれた人達だった。自分がどんなふうに見られていたのか、少しも理解できていなかったのだと知った。


 あの人達はユートを助けてくれた。まだユートが小さな子供だったから? 否、ユートが生きたまま手に入れることのできたファズの稀有なサンプルだったから。


 今思い返しても、彼らの言葉はユートの人間性への中傷ではないのは理解している。

 いつの間にか広まっていた研究所内での公然の秘密であるファズの存在。


 関わりのない研究員達は明らかな中傷を口にしたけれど、少なくとも幼いユートの周りにいた研究員達は、あくまで研究の一環としてユートの体質を証明しようとしていただけだ。その仮説は彼らの知的好奇心と探究心に基づくもので、決してユートを傷つける意図はなかったのだろう。だけど。


(自分は果たして人間なのだろうか)


 その疑問は、あの頃から呪いのようにユートについて回るようになった。誰かに優しくする度に、困っている人を助けるたびに身の内から己が問いかける。その優しは作りもの?


『お前のせいだ』


 名前も思い出せない友達はそう言った。空間侵蝕が起こった原因はお前にあるのだと。ファズが空間侵蝕の呼び水になるだなんてただの噂なのに、否定しきれないのは自分が人である確信を持てないからだ。だってユートは泣かなかった。友達が狂うのを見ていたのに。母親が狂うのを目の前で見ていたのに。


(同じなんだろうか)


 あの小さくて、煩くて、愉しみだけを享受する残酷な生命体と。

 

 そう思うと、ますます妖精が嫌いになった。遠ざけないと、どんどん同じものに見えてしまうのが怖くて。きっとそれは同族嫌悪と呼ぶものなのだと知っていたけれど無視をした。意識するのは同じだと認めているようなものに思えて、表向き平気なフリをして取り繕った。


 いつしか他人を助けるのは、不安を埋めるための強迫観念になっていた。

 中身が不確かなら、表面だけでもそれらしくしないと崩れそうだったから。だからといって、リッカを突き放していい理由になんてなりはしないと分かっていたのに。むしろユートをファズだと否定するのは同じ人間ばかりで、リッカはユートを肯定してくれた。


 だから──。


「──ごめん、八つ当たりなんだ」


 目の前のリッカに、振り絞るようにユートはこぼす。


「妖精が悪い訳じゃない。君たちが人より下等な生命体ではないのは分かってる」


 はじめから価値観が違うだけだ。価値基準が何もかも違うだけで、そこに善悪はない。人が持つものと同様の感情がないことを下位だと感じるのはユートの偏見だ。


 元からリッカはユートが人間だとかファズだとか気にもしていなかった。気にしていたのは自分ばかりで、器の小ささを思い知る。


「だから……」


 と、黙っていたリッカがふいに口を開いた。


「お前って本当に面倒臭いわね」

「は?」


 真面目な話をしていたはずなのに、急にリッカが額に皺を作ってものすごく嫌そうな表情を浮かべるものだから、ユートの口からも間抜けな声が漏れた。


「そ、それを言うなら君は随分と人間臭くなったと思うけど」

「学習しているの。目覚めてからずっとよ。もう随分と世界のことを覚えたわ」


 そう言って、呆れたようにリッカはため息をついた。


「妖精が好きでも嫌いでも全然構わないわ。嫌いなら避ければいいのよ。嫌いなものには触れない方が心を保てるもの。わたしは気にしない。だってお前、妖精のことは嫌いでもわたしのことは嫌いじゃないでしょう?」

「な⁉︎」


 当然のように言われて二の句が繋げなくなる。はくはくと口を動かしているユートに、リッカは淡々と続ける。


「それにお前は本心だと妖精が嫌いな訳でもないわ。お前は自分が嫌いで、可愛くて、だからとても怖いのよ」

「──っ」


 目を見開いた。だってそれは、きっとユートが口にしないユートの本質だ。クスリ、とリッカが笑う。


「良いじゃない。人を助けるのは悪いことじゃないでしょう? 動機が何であれ助けられたヒトは喜ぶのでしょう。結果に感謝するのでしょう。それの何がいけないの?」


 まるでユートの心を的確に読むように、リッカが言葉を紡ぐ。だからついユートも口が緩む。


「だけど、全部自分の為だ」


 零れ落ちた言葉に、リッカはそれがどうしたという感情を浮かべる。


「だからそれの何が悪だというの? 問題はそれが出来なかった時にお前が苦しむと言う一点だけ」

「……苦しまないよ」


 口の中が乾く。今まで踏み込まなかった部分を一気に踏み抜かれて吐き気が出そうで、それでも絞り出した。


「苦しむならまだいい。それだけで自分が人並みの罪悪感を持っているのだと分かる。……だけど多分、僕は平気なんだ」


 ユートが人を助けようとするのは強迫観念だ。本心から誰かを助けたいと思っているわけじゃない。だってユートは本来そこまで他人に興味がない。


「割り切れるんだ、僕は。割り切れるんだよ」


 助けることをやめたその時、何も感じない自分を自覚することが怖かった。それが当たり前になってしまう自分が怖くて、焦燥感で手を伸ばすのだ。いつだって。自分の心を守るために必死に。

 うつむいたユートを、リッカが覗き込む。それからふぅ、と呆れたようにため息をついた。


「変なヒトね。そんなに『感情』というのは尊いモノかしら?」


 ト、と軽い足取りで地面を蹴って、踊るような動きでクルリとリッカは背を向ける。


「確かに時にそれは美しいものなのでしょう。だけど制御できなければただ危ういだけよ。わたしから言わせれば、感情というのは人間という生命体の中で最大の欠陥だもの。あまりに非合理で、種が生き残るためには不自由だわ」


 視界でふわりとリッカのワンピースが揺れた。たった数日でまるでリッカは分かったようにヒトというものの事を口にする。彼女の言葉は非人間的で、だけど言葉を紡ぐ音は突き放すようなものでは決してなくて、ユートは何も言えないままただ風になびくリッカの純白の髪を見ていた。


 伏せた星の瞳が、ふっと和らぐ。


「──だけど少しだけ分かった事がある」

「何を?」

「人間の『綺麗』という余分はきっとその欠陥から生まれているのね」


 ユートの方を向いた唇が、柔らかく弧を描いた。


「だからきっと、わたしはお前が好きなんだわ」


 今度こそ完全に、返す言葉を失った。


 妖精が人間に好意を口にするのは大して珍しいことではないけれど、人の持つそれとは決定的に違う。人を真似た彼らの唇から紡がれる『スキ』は甘やかで、同時に吹けば飛ぶような軽さを持っている。だから本来なら彼女の言葉は真に受けるべきではない。だけど──。


「どうして、そう思うんだ?」


 震える声で聞き返した。


 自分に向けられる純粋な好意の声を最後に聞いたのは、一体どれほど昔のことだろう。幼い頃、まだユートが自分を普通の人間だと疑いもしていなかったあの頃、母がくれた『好き』がきっと最後だ。


(何を、考えて……)


 どんな答えを期待しているのだろうか。分からない。

 どんな答えが返ったところで、妖精であるリッカの『好き』がユートの望むものである事なんてないだろうに。こんな自分を好きだというリッカの真意が分かるはずもないのに。


 ただ、リッカは他の妖精とは違う。彼女に感情はある。だから返ってくる言葉を期待してしまう。そこに『本物』を求めてしまう。


「さぁ?」


 果たしてリッカは小首を傾げて事もなげに言ってみせた。脱力しそうになるユートに『理由が必要?』とリッカは首を傾げる。


「元々感情自体が曖昧なものでしょう。感情は沸き上がる物であって理論立てて作る物ではないのでしょう。お前達人間は生まれた感情に後から理屈をつけたがるようだけど」


 難儀なものね、と軽く切って捨ててリッカはいかにも人らしい仕草で鼻を鳴らした。


「でもお前もその人間だものね。理屈をつけたいのは仕方がないのかしら。そうね……、言葉にするならお前はとても複雑だけど根っこの部分は素直だからかしら?」

「そ……」


 何か言いかけて、黙ってしまう。思いの外気恥ずかしくなるような答えが返ってきて、どう返事をしていいのか分からなかった。


 と、ふわりとユートのそばに寄ったリッカの小さな手が、ユートの頬を両側から挟みこんで上を向かせた。目の前に浮き上がったリッカの目を息を呑んで見合えると、リッカの長い触覚がまるであやすようにユートの額を撫でる。ねぇ、と悪戯っぽい微笑を浮かべてリッカが笑う。


「嬉しいのならお礼を言ったら? コミュニケーションが完結しないと人間って心が耳障りな音を立てるもの。特にお前はね」


 こくりと唾を飲む。何故だろう。生まれたばかりと言われる彼女の目はどこまでも深くて、何もかもを見透かされている気分にさえなる。


 瞳に浮かぶ一粒の星は、まるで決して届かぬ夜空のようだ。吸い込まれるようにその瞳を覗き込んで、ふっと、気が抜けた。


 完敗だ。

 勝てる訳がない。


 ふはっと吹き出して笑うと、リッカがキョトンとする。


(うん、僕の負けだ)


 ユートが何年もかけて悩んできた感情を、目の前の妖精は面倒だとたった一言で斬って捨てるのだ。その上で同じくらい簡単に、そして傲慢にユートの手のひらに好意を転がしてみせる。だけどそれは確かにユートにとって救いだった。

 

 きっととっくの昔に、ユートはこの妖精が大切になっていた。


「……うん、本当。そうだな」


 頬に当てられた手に自分の手を重ねて、ユートは笑う。


「ありがとう、リッカ」


 心に支えてきた何かが溢れたみたいに、その名前が自然に溢れた。

 真白の妖精の名。昔母が教えてくれた雪の名前。リッカが不意をつかれたように、大きな目をさらに見開く。だけどすぐに満足そうに笑った。


「──もう帰らなくちゃね。あまり遅くなるとお前寝坊してしまうわ」

「その時は起こしてよ」


 つい軽口を叩いて、何時? と真面目に尋ねられて答えに詰まった。八時くらい? と適当に答えると、神妙にリッカは頷いた。これは多分本当にアラームになってくれるだろう。


 歩き出したユートの後ろを小走りでリッカが追いかけてくる。その軽い足音に思い出したようにスピードを落とした。そうやって一緒に歩くことが嫌じゃなかった。嬉しいとすら思った。


 それを素直に認めるのに、もう抵抗はなかった。




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