第11話 侵蝕
ユルハはアパートメントの入り口にいた。危機感もなくアパートの入り口の前で立ち止まっているユルハに苛立ちを覚えるが、今は一刻も早く避難させるのが先だ。
「ユルハさん!」
大声で呼ぶと、ユルハが振り返った。その側にふわふわと浮かんでいるのは緑色の可愛らしい妖精の姿で、ユートの姿を見るとこんな時だと言うのにユルハは満面の笑みを浮かべた。
「やあ! 来てくれたんだね! マリアが見つかったんだよ!」
「見ればわかります! そういう問題じゃありません!」
「いやね、避難している最中に家の方に飛んでいくのを見かけて。そっちに行っても僕はいないよ! って思ってさ。急いで追いかけたんだ。追いついて良かった」
だからそう言う場合じゃない、と思う。周いにはもう人の姿はなく、それが余計にユートの気を急かした。と、黙っていた妖精がひょこりと顔を覗かせる。
──ニコ。だあれ? おしゃべりするの?
「あぁ、ごめんね。マリア。この人たちは君を探すのを手伝ってくれてたんだよ。君が十日もいなくなっていたから心配で心配で僕は胸がはち切れそうだったんだよ!」
ユルハの言葉にマリアは何か素敵なことを思い出したみたいに、パアッと顔を輝かせた。
──そうよ、ニコ。とっても楽しそうだったの。仲間に入れてもらったのよ。ワクワクするの。ぐるぐる回って、ドロドロ溶けて、シューシュー鳴くの! とっても美味しかったのよ。
夢見る少女のようにとびっきり甘い声でマリアは語る。
自分が十日も留守にしていた事なんて全く気にしていない。意識の隅っこにすら上がっていない様子だった。
流石にユルハもそれは予想外だったのだろう。マリア、と困惑した声で妖精の名を呼ぶ。
──あなたたちってとっても素敵! ニンゲンってとってもステキね、ニコ! でもわたしにはあなたが一番おいしいわ。
クスクスと笑うマリアの声は、麻薬のようにユルハの脳を揺らしたのだろう。一瞬の困惑などなかったように、ユルハの口元は緩む。
「うんうん、そっかそっか。マリアは僕のそばが一番良いよね。そうだよね。こわかったろう、もう大丈夫だよ!」
──えぇ、えぇ。とっても甘い想いをくださいな。たくさんたくさん分けてちょうだいな!
「もちろんだよ、僕のマリア」
全く会話が噛み合っていなくて、ユートは辟易した。
こうはなりたくない、と思いながら若干後退りすると、リッカにぶつかる。ごめん、と言おうとして、リッカの様子がおかしいことに気付く。真白の妖精は、どこかここではない遠くを見るように宙を睨んでいた。
「……ユート、間に合わないわ」
「え? 何が?」
「だってもう始まるわ」
リッカがそう言った瞬間だった。入れ替わるように、マリアがスッと顔を上げた。
──アラ?
間をあけて、パッとマリアの顔がほころんだ。
──あらあら、あらら。なんて事でしょう。ご褒美だわ! ドウシテドウシテ! だってここではわたしたち、踊れなかったはずでしょう?
「え、どうしたの? ……あれ、マリア。まり……っ」
そう言って、ユルハがこめかみを抑える。あれ、ともう一度掠れた声が出る。
「ユルハさん?」
「いや、あれ? マリア? ちが……、あれ?」
ユルハは自分が何を言おうとしているのか分からないようだった。その様子にハッとする。
空間侵蝕の起こった地域は、徐々にインスプリングの濃度が濃くなっていく。空間汚染が進めば人は物事を倫理的に組み立てることができなくなる。認識が理解に落ちない。暗闇の中で糸を掴もうとするように伝えるべき言葉を探して、探してもがく。
その内認識すら困難になり、呂律が回らなくなり、言葉を失っていく。人が狂い出す、その兆候。それは空間侵蝕による精神汚染の初期症状だ。
ユートの母親も、そうだった。
だから彼女は、意味のある言葉を発することなく、ユートにリュックをもたせてクローゼットに押し込んだ。隠したって安全な場所などないのに。母にはもうそれが分からなかった。何が必要かまで分からずに、ただユートにリュックを持たせた。そう。初めは何かがおかしいというように、宙を見上げた。
今のニコと同じように。
「……っ」
つまり、侵蝕が始まったのだ。
「ユルハさんこれを!」
唇を噛んで、ユートはDDを取り出すとユルハの口に有無を言わさずカプセルを捩じ込んだ。そのまま持ってきた水筒の蓋を開けて流し込む。
「……っんぐ」
ユルハの喉が嚥下する。飲み込んだのを確認してユルハを地面に座らせると、ユートは辺りを見渡す。
(まだ避難していない人もいるはずだ)
何人かここに来るまでにすれ違った。あの人たちは安全域まで辿り着けているだろうか。いや、そもそもまだ家に残っている人間だっていないとは限らない。避難した住民の確認はこれからで、報告を待っていたら間に合わない。
(探しに行かないと……っ)
どこに?
不意に当然の疑問が浮かび上がった。立ち上がった足が止まる。
一体、どこに探しに行けばいいというのだろう。
区画の外側は大丈夫なはずだ。浄化塔の浄化範囲はそれぞれ重なり合うように出来ていて、各区画の外側は他の区画の浄化塔の効力が効いている。だから危ないのは浄化塔の周辺だ。
視線を上げる。立ち並ぶ居住地区。戸建てが許されないティルナノッグでは、住居は全て集合住宅だ。閉じられたドアの向こうに人間がいる事をどうやって見抜く?
片っ端から町を見ていく? だがインスプリングによる精神破壊は早くて数十秒、遅くとも数十分程度で開始する。間に合わない。
出来ることなんてないのでは?
以前と同じように。
誰もが狂っていく町の中、たった一人正気を保ち彷徨った。あの時のように。
『お前のせいだ』
声が響く。
お前がファズだって隠してたから。ファズは侵蝕を招くから。
「……っ、は……」
喉が渇く。呼吸の音が、心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
薬を取り出そうとする手が震えているのが分かる。ピルケースが滑りそうになるのを握り直す。じゃあこのまま何もせずに見捨てる? それは出来ない。してはいけない。もし見捨てることを許容してしまったら、自分は心だって奴らと同じになってしまう。
妖精には、壊れる精神性がない。
妖精の感情は人間の模倣である。
だとしたら自分だって同じなのではないかと、本当はずっとそう──。
「ユート」
「……ぇ?」
その声はその時やけに鮮明にユートの耳に届いた。振り返った先で、今まで黙っていたリッカが静かな宙の瞳をユートに向けていた。
「お前は、人間を助けたいの?」
「……何、を?」
質問の意図が理解できない。こんな時に何を言ってるのだろう。ユートの表情をどう解釈したのか、リッカが再び言葉を重ねた。
「お前は、この町の人間が狂うのが嫌なの?」
「……あぁ、もちろん、それは……」
だけど方法が思いつかない。震える声で返した言葉に『そう』とリッカは短く返事をした。垂れ下がったリッカの触覚がふわりと持ち上がる。触角の先端が柔らかく明滅した。
───── ───
──── ────
──────── ────
ほんの数秒、瞬きの時間。
目に見えた変化は何も起きず、だが何かが起きたことだけは間違いない。
名残のように目の前のリッカの触覚の先端から、キラキラと星の粉のような残滓が落ちていく。
──……。
伏せた目を開いて、真白の妖精は微笑んだ。
もう大丈夫、というように。
「きみ、は……」
「……ぅ」
と、背後から聞こえた声にハッとする。気づけば地面に座らせていたユルハが身を
起こしていた。
「ユルハさん!」
「……ん、あれ……?」
急いでそばによると、起きあがろうとしたユルハの身体を支える。覗き込んだ視点がちゃんと合うことに、ホッとした。力が入らなかったのかズルリとユルハの身体が滑り、その身体を支えると『座っていてください』と声をかける。
「ユルハさん、分かりますか? 僕のことは?」
「あ、あぁ。わかるよ。わかるよユートくんだ。調停屋の、仕事を頼んだんだ。ぼくが、あれ。さっき、頭が、回らなくって。何が、起こったんだ?」
「いえ、それは……」
ここは浄化塔の機能が停止して侵蝕が起きたはずだ。ユルハの変化はDDが効いたから? それとも──。
──なあになあに、ツマラナイの!
と、ユルハの後ろで緑の妖精がクスクスと笑いながら跳ねた。
「つまらないってマリア……、どういうことだい?」
困惑したようにユルハが問うが、マリアはつまらない、という言葉に全くそぐわない明るい声で空中を踊るように飛び回る。
──せっかくワルツが出来ると思ったのに! ニコとダンスができると思ったのに!
くすくす、くすくす!
当て所なく妖精域を彷徨い歩いたあの日と同じように、目の前の妖精は笑っている。
──波間に揺れるみたいに踊るの! 線を弾いて歌うのよ! とっても楽しいのに!
妖精は知っている。妖精域で人が生きられないことを。インスプリングが毒だということを。だけど目の前のパートナーの存在など無いように、マリアは楽しい、とただ笑う。楽しいことを楽しいと言うのは彼女たちの本質だから。
(……いや)
今はマリアの言動に引っかかっている場合ではない。自分にそう言い聞かせてユートは後ろを振り返る。リッカは無表情で立っているだけで、何をしたという訳でもない。ただ──。
柔らかに明滅する光。
きっと今この妖精は、何かをした。
一体何を?
「君達! こんな所で何をしているんだ⁉︎」
不意にバタバタと作業着を着た男が走ってきた。
恐らく事態に当たっていた研究員だろう。声に驚いてマリアがパッと姿を消す。瞬きの合間にリッカの姿もかき消えていた。研究員は地面に座り込んだままのユルハとユートの元へと駆け寄ると、起こそうとしてくれる。
「僕は大丈夫です。この人を」
「大丈夫ってアンタは──」
やんわりと補助を拒否して立ち上がると、研究員はユートの方を向いて目を丸くした。その人物に見覚えがあることに不意に気付く。
『助けた? 襲ったんじゃなくて?』
つい先日聞いたばかりの声が、重なった。瞬間的にマズい、と思う。ユートが顔を背けるより早く、研究員の目が明らかに険しくなる。
「お前……」
遮る暇もなかった。キッと研究員の男の目が釣り上がる。
「ファズがこんな所で何をしてる⁉︎」
「……っ」
力任せに胸ぐらを掴み上げられて、息が詰まる。
「まさか……お前。この騒動もお前のせいか⁉︎」
そんな訳がないだろう、と言う前に鉛を飲み込んだみたいに息が止まった。お前のせいか、だなんて。
(そんなの、こっちが知りたい……っ)
向けられた言葉に対して、ユートはずっと否定する言葉を持てないままここにいるのだから。
「<
と、横からユルハの声がした。
ハッとした。同時にしくじった、とそれだけを思う。今のは咄嗟に否定しなければならない場面だった。
ユートがファズであることは公にされていないのだ。研究所の一部や検問官には知られた事とはいえ、一般市民には幸い知る人間はいない。
昔オーガストと話して、そう決めた。ファズは空間侵蝕を呼ぶ。根も葉もない噂だが、住人たちを脅えさせるには十分だから。オーガストに迷惑をかけない為にも、そう決めた。
「え、嘘、だよね? ユート君が、ファズなの? あの、子供殺しの……」
妖精モドキ。
さながらハーメルンの笛吹きのように、子供たちを妖精域に誘い出し狂わせた殺人鬼達。そんなの大昔の話で、今を生きるユートには知ったことじゃない。だが世間はそれこそ知った事ではないと、ファズへの差別に罪悪感など持ちやしない。
まことしやかに囁かれるファズの事件は、外部からニュースの入らない今を生きる人々にとってはセンセーショナルで刺激的な話題だ。ほとんど本物に会う機会もない事から、人々はファズを排斥する事に痛みを覚えない。こんな世の中だから、余計に。
違います、と言った方がいいのだろうと分かっていた。一応一般人には機密事項に当たる。だけど声が出てこない。否定が遅れればそれは肯定になる。
ユルハに視線を向けると、案の定ユルハはギョッとして慌てたようにユートから目を逸らした。
「…………」
自分がバラしたくせに研究員は舌打ちすると、ユートを掴んでいた手を乱暴に離す。立ってください、大丈夫ですか。えぇ。一度研究所に向かって見てもらいましょう。調子良くユルハに話しかけながら、立ち上がるのを助ける。
「……数分前にDDを飲ませてます」
必要な情報だと思って、俯いたままそれだけを口にした。こちらを睨みつけた研究員の口が、とっとと失せろ、と声に出さずにそう動いた。
ユルハは最後まで何も言わなかった。そんなもんだ。罵られなかっただけマシだろうと黙って背を向けた。
不意に、右肩にかすかな重みを感じた。
それが姿を消したリッカの手の感触であることが分かって、息が詰まった。その手のかすかな感触に泣きたくなった。黙って顔を伏せて歩きながら、どうして、と思う。
(どうして君は、妖精なのに──)
まるでユートを慰めるような、そんな仕草をしてみせるのだろう。
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