第9話 発露
アイノに頼まれていた買い物を済ませて事務所への帰路についた時には、時刻はもう十七時を回っていた。事務所の手前まで来たところで、不意に景色に溶け込むように一人の少女が事務所の壁にもたれて立っていることに気づいた。
「──」
一瞬、その立ち姿に見惚れた。
瞳を伏せた端正な横顔。頬のところで緩んで膨らむ白い髪が一束溢れて胸元に落ちていた。少女の背丈には長すぎるパーカーからスラリとのびる足は透き通るような白い肌をしている。
「……、っ」
声をかけようとして、未だに自分が彼女の名を呼んだことがない事に気付いた。喉が粘つくようで、何を意識しているんだろうと自問自答する。
ヴィレの言った通り、何も気にしないなら名前くらい呼べば良いのだ。これでは変なプライドが邪魔をしていると言われても仕方がない。
悩んでいる内にリッカの方が顔を上げた。
「遅い」
開口一番、大層ご不満な様子だった。
「……ごめん」
先に声をかけてくれたことに一瞬ホッとして、ホッとしている自分に呆れながら、ユートはリッカに近づいた。
「どこかへ行ったかと思ったわ」
「行かないよ。そっか、人間の気配は探れないのか。ごめん」
憮然とした様子のリッカに、どうしてか安堵する。
自分がどれだけ悩んでいようが、この妖精はちっとも変わらない。何かを引きずるような面倒くさいこともなく、ユートが謝るとすぐにリッカは先の話題など忘れて別の話を始める。
「今日はコルムとピザを作ったわ」
「ピザ?」
「そう。お前も有難く食べなさい」
「それはどうもありがとう」
高飛車な言い方に苦笑をこぼす。態度はともかく、ユートの帰りを待っていてくれたことに対して悪い気はしなかった。
(本当は、分かってる)
相手が何者かにこだわっているのなんてユートだけだ。当のリッカはユートが人間であることも、自分が妖精であることもどうでも良いのだろう。妖精だと言うだけで嫌われる理由なんてリッカにはないことは分かっていた。
そしてこうして一緒にいると、妖精と一緒に暮らす人間の気持ちも分からなくはないのだ。
妖精は愛らしい。
いつだって今を楽しみ、何かを引きずると言うことがない。
この閉塞的な環境で時にそれは救いにもなるのだろう。この都市に住む市民の半分は、外部からの避難民だ。家族の誰かが欠けている事も少なくはない。ユートだってその一人だ。
(家族が、欲しくなるんだろうな)
そして妖精は、家族になりうるのだろう。
彼らに感情がなくとも、その存在は価値になりうる。
妖精に対して偏見があるのは自覚していた。ユートは彼らを人間と同じようには思えない。この都市が歌う共栄という言葉に幻想を、妖精に権利を与えるという事実に滑稽さを見てしまっているのは事実だ。
(だけど……)
隣を歩く少女を他の妖精とはどこか違うと思ってしまうのは、一緒にいた時間分の贔屓目なのだろうか。
「──君は、どうして僕と一緒に歩くの?」
ふと、疑問を声に出していた。
事務所の玄関に続く階段の途中で振り返ったリッカは、不思議な顔をしてユートを見下ろす。ニコの元を訪れた帰り道から、リッカはユートと一緒にいる時は地面に足をつけていることが多い。
「いけない?」
「もちろん、いけなくはないけど。君は飛べるんだから、飛んだほうが楽なんじゃないかなって」
珍しく、リッカはユートの質問を考えるそぶりを見せた。何度か首をひねって、だけど答えは出てこない。しばらく待っていたが、結局リッカは答えなくてユートの方が先に折れた。
「ごめん。考えなくていいよ。忘れて」
そう言って、玄関へとリッカを促す。リッカも了解したのか、すぐに違う話題にうつった。実際興味がなくなったんだろう。妖精はそういうものだから。
家へ帰ると、リッカが教えてくれた通りコルムがピザを用意してくれていた。コルムの教え方が上手いのか、ピザはとても美味しかった。
リッカはユートの隣にちょこんと座って、ハフハフと息をしながらピザを頬張っている。ご飯を食べている時は本当に生き生きしてるよな、とユートは苦笑した。
(生まれたて、か)
妖精の生まれたて、というのがどういう状態かユートは分からない。本来の妖精はいつも笑っているものだし、何かと愉しい事を見つけては飛び回っているイメージがある。それに比べると口調こそ高圧的だがリッカは割と穏やかだ。
妖精は成熟すればするほど、人の模倣が上手くなってくるものだと聞く。オーガストのグレースなんかが良い例だ。彼女はとても人間らしい。だけどリッカは、それこそ出会った時からユートの知っている妖精像とはやや違いが──。
(あれ?)
何か、引っかかった。
それはヴィルヘルムと話をした時に感じたのと同種のもので、もう少しで出てきそうなのに、喉に引っかかって出てこない。今、自分は何に引っかかった?
「ユート?」
食事の手が止まっているユートにリッカが声をかける。ハッとして、取り繕うようにユートは笑った。
「これ、美味しいよ。ありがと」
そう伝えると、リッカはふいにピタリと動きを止めた。何かを考えるように視線が宙をさまよっている。何か変なことを言っただろうか。
「頑張って作ったもんな。よかったなぁ、リッカ」
隣に座るコルムがリッカの頭を撫でる。満更でもないのか、リッカも撫でられるがままに任せていた。その様子を見て、はたと違和感の正体に気づいた。
(そういえば、コルムも……)
頬杖をついて、妹か弟でも見つめるようにリッカを見ているコルムの視線はとても温かい。感情がないなどとは間違っても言えない愛情が通う視線に、その異常性に初めてユートは気付く。
コルムは違う。
他の妖精とは別物だ。
当たり前すぎて、今まで考えた事もなかっただけだ。
◇
シャワーを済ませて自室に戻ると、リッカは部屋の真ん中でふかふかと浮かんでいた。重力はどうなっているのかと思うほど、彼女たちは空間においても自由だ。ただ髪が下方に落ちているところを見ると、一応Gはかかっているのだろう。
ユートの姿を認めると、リッカがパッと顔を明るくさせた。
「どうしたの?」
「分かったの」
「何が?」
「おいしかった、ありがとう」
訳が分からない。それはユートがリッカに教えた言葉だが、リッカが顔を輝かせる意味が分からない。
「どういう……」
「コルムに言ったら喜んだわ。昨日ユートと一緒に行ったおうちでも、そうだった。嬉しい、って言われたわ。ありがとうは人を嬉しくさせる言葉なのね」
「あぁ……」
そう言えば、そのようなことがあった気がする。本当に何を言い出すのだろう、と怪訝に思ったユートの目の前で、リッカがそっと自分の胸に手を当てて、はにかむように笑う。
「だから、うれしい、はきっとこんな気持ち。さっきユートがありがとう、って言ったから、わたしは嬉しいと思ったの」
目を見開いた。
(な……)
言葉が出てこなかった。
だってそれは、あまりに人間らしい仕草だ。人間らしい、理解の仕方だ。
「今分かったわ。ユート、コルムも歩いているでしょう?」
何の話かやはり脈絡がなくてすぐには分からない。だけど今回は何とか思い出した。これは帰り道にユートがした質問の続きだ。興味を無くしたわけではない。ユートが何気なくした質問の答えをリッカはきっと、ずっと考えていたのだ。
「きっと一緒がいいと思ったからよ」
リッカが笑う。
「ユートと一緒が、嬉しいと思ったからだわ」
『妖精は感情はないって言われるけど快楽中枢だけは存在するから』
不意にヴィルヘルムの言葉が蘇った。
快楽中枢。妖精は『楽しい』を理解する。逆に言えば、それ以外を解さない。
(どうして──)
どうして忘れていたのだろう。
リッカと初めて出会った時。リッカが初めてユートにコンタクトを取った時、その思念は『不快』を表していた。
妖精には『快』はあっても『不快』は存在しない。
『楽しみ』はあっても『喜び』は存在しない。
それはいつだって単なる模倣であって感情ではないはずだ。だけどあの時のリッカは生まれたてで、学習した感情など存在しないはずで──。
「キミは……」
声が掠れる。だけどこくりと唾を飲み込むと、ユートは意を決して、リッカに尋ねる。
「君は、『嬉しい』が、わかるの──?」
ユートの問いに、リッカは目を丸くする。
何故そんなことを聞くのだろう、と無垢の瞳は云っていた。深い紫紺の瞳には、星が二つ揺れている。妖精であることを示す、妖精核が揺れている。
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