第7話 市長
「やあ、ユートじゃないか」
ユートが研究所の一階まで降りてくると、不意に親しげに声をかけられた。
声だけですぐに誰かは分かった。そもそもユートに友好的に声をかけてくる人間は限られているが、それ以前の問題だ。会うことは少なくても、事務所のラジオや街中のテレビで彼の声を聞かない日はない。
オーガスト・アンダーソン。
このティルナノッグを設立した市長で、インスプリングの浄化システムの発案者。現代の英雄にして幼いユートを保護してくれた恩人だ。
保護当初、全く人と会話ができずただ膝を抱えてうずくまるユートをオーガストは何度も訪ねてくれた。
『大丈夫だよ』
『君のことは私が守るからね』
そう言って撫でてくれた大きな手の感触を、今もわずかに覚えている。
「お久しぶりです。市長」
「相変わらず堅苦しいな。もう少し気を許してくれてもいいんじゃないか。父親のようなものだろう」
パパって呼んでくれてもいいんだよ? とユーモアたっぷりにかけられた提案を、ユートは丁重に辞退する。じゃあハグでもする? と今度は両手を広げるオーガストの誘いをもう一度ハッキリと断ると、オーガストは快活に笑った。
父親のような、は流石に言い過ぎだ。オーガストが何かとユートを可愛がってくれるのは事実だが、一緒に暮らした事がある訳でもない。何よりオーガストが愛しているのはユート自身ではなくユートの持つ特異体質だろう。彼は妖精を愛していて、それに類する研究への執着は並ではない。
──オーガスト。ユートが怯えているわ。
ふわりと、オーガストの後ろの空気が真紅に揺らぐ。春風のようなふわりとした思念の伝達は人に意志を伝えることに良く慣れた妖精のものだ。
現れたのはオーガストの隣にとても良く似合う、美しく華やかな妖精だ。妖精には珍しくサイズはほとんど人間の女性と変わりない。ドレスのように広がった鮮やかな紅の髪を空にゆらめかせて、オーガストの後ろに浮かんだまま艶やかにユートに笑いかける。
「やあ、グレース。君も挨拶を」
──こんにちは、ユート。ごめんなさい。貴方に会ってはしゃいでるのこの人。コドモだから。
たしなめられる筈の妖精が、良い年をした大人をたしなめている。
これもお馴染みの光景だった。妖精であるグレースとオーガストの付き合いは長く、十五年近く一緒にいると聞く。
ティルナノッグは十一年前に設立された都市だが、この浄化システムを完備した都市の完成にはグレースの力が必要不可欠だったらしい。グレースには空間侵蝕の現れる場所を感知する能力があり、それによって安全に都市完成後、市民の移住を完遂できたのだとか。
それで思い出した。
「市長。そういえば急遽第九地区が点検になったのだとラジオで聞きました。トラブルがあったんですか?」
ユートの言葉に、あぁ、と思い出したようにオーガストが応じる。
「特段トラブルと言うわけではないんだ。安心したまえ。計器に微小な問題が生じてね。何たって命を預かるシステムなんだ。用心するに越したことはないだろう」
そう言ってウインクを投げてくる。もう四十を過ぎていると言うのに、様になっているから怖い。
「心配しなくても、この都市で災害を起こしはしないよ。それはこの都市を作った私の矜持だ。都市に住む人の事はきちんと守るよ」
──奥様は守れなかった代わりに。
グレースが、悪意のない毒をたっぷりと込めて続けた。
手厳しいなあ、と困ったようにオーガストは笑っている。オーガストの妻はティルナノッグ設立の一年前に空間侵蝕で亡くなっている。当時オーガストの子どもを身籠もっており、切迫早産で入院していた病院でそのままだったらしい。
ユートも一度写真を見せてもらったことがある。詳細まで覚えていないが、とても美しい人だった気がする。
「市長を疑っている訳ではないですよ。ただこの間も緊急点検があったから、システムの調子が悪いのかなって思ってしまって」
「冷静な君ですらその調子なのだから、これは市民は不安だろうなぁ。少し考えなくちゃいけないね」
──哀れな子羊達が一匹残らず消えてしまう前に?
「こら、グレース。流石に今のは余計だ。私の市民は哀れでもなければ、消えることもしないよ」
オーガストの言葉を軽く笑ってグレースはいなす。たゆたう妖精は妖艶に微笑むとふわりと姿を消した。参ったな、と呟いてオーガストはユートに向き直る。
「ごめん、気を悪くしないでくれ。グレースはいつもあんな感じだから」
「妖精の言うことにいちいち腹を立てたりしませんよ」
マトモに取り合っては、こちらが疲れるだけだと理解している。
オーガストが困ったように笑うのを見て、ユートは自分の失言に気付いた。オーガストは妖精を愛していて、理想を持ってこの都市を運営しているのだ。今の言い方は妖精を侮っているようで、良く思わないだろう。
急いですみません、と弁明する。
「グレースが嫌いなわけじゃないんです。ただ仕事で妖精と関わる機会も多いから、そう思っていないと腹を立ててしまうこともあって。僕が未熟なだけです」
「いや、気分が悪くなるような冗談を言ったグレースが悪いんだ。後で伝えておくよ。気を遣わせてしまったね。こちらこそすまない。それに君の立場を考えると、妖精を嫌いたくなる気持ちも分かるよ」
オーガストが労るような目でユートに微笑んだ。その同情的な視線に少し居心地が悪くなる。ファズはとある面において妖精と同一視される事がある。
それを言外に指摘されている気がして、オーガストに悪気はないのだろうが放っといてほしいという気持ちになる。態度にはもちろん出さないが。
「それよりも君のおかげで市民が不安になっていることが分かって良かった。こういうのはやっぱり肌で直接感じないとね」
さて、と暗くなった空気を振り払うようにパッとオーガストが表情を明るくした。
「そういえばユート、もうひとつ君に大事なことを伝えるのを忘れていた。この間妖精域でインスプリングに汚染された男性を保護してくれたのだと聞いたよ。ありがとう」
「あ、いえ……」
オーガストにまで話が行っているのに驚いて、ユートは曖昧に返事をする。あの男性に殺されかけた事も事情聴取で全て話しているから、オーガストには伝わっているだろう。恐らくリッカのことも。
「あの、彼は無事だったんでしょうか?」
研究所で聞いた噂が本当だとすると手遅れだったのだろう。少し迷って尋ねると、予想通りオーガストは口籠もった。
「うーん、正直に話すと無事とは言い難いかな。でも生きている。それだけで僥倖だよ」
なるほど、やはり正気には戻らなかったらしい。あの男性の心が壊れたことにユートが責任を感じるつもりはさらさらないが、それでも多少は苦いものを感じる。
「実を言うとその事で君に聞きたいことがあってね」
「聞きたいことですか?」
ユートの知っていることは事情聴取で話ている。これ以上話せることはないのだが。
「うん、君が見たという妖精のことだよ」
思わずびくっと肩が震えた。
「妖精が人に害意を向ける事例はとても珍しいからね。報告にあった事が全てかな? 彼が元々連れていた妖精が彼に危害を加えた。その後いなくなってしまった。それ以外に気づいたことは何もなかった?」
「……えぇ、特には」
かろうじて、ユートは言葉を濁すにとどめた。
本当は今この場でリッカの事を話したほうがいいのではないかと思ったが、アイノの言葉がユートにブレーキをかけていた。丁重に扱われる保証はない、とアイノは言ったし、目の前にいるオーガストは研究所のトップでもある。
妖精好きのオーガストがリッカに酷いことをすることはあり得ないと思うのに、どうしてかユートの直感が話すなと告げていた。
答えに行き詰まっていると、そろそろ時間だ、とオーガストが時計を振ってみせた。
「特別思いつくことはないかな? もし何か思い出す事があったら、協力してもらえると嬉しい」
「それはもちろん。引き止めてしまってすみません」
「なに、引き止めたのは私の方だ。話ができて嬉しかった。じゃあまたね、ユート」
そう言ってオーガストは軽くユートにハグをすると、そっと『彼にもよろしくね』と耳打ちした。
「──っ!」
パッと身体を離すと、オーガストは茶目っ気たっぷりに片目を閉じて、さっさと行ってしまった。動揺したまま、ユートはかろうじてその背中に一礼する。
(何で……)
確かにこれからある人物に会いに行こうとしてた。だがそれをまさかオーガストに悟られているとは思わなかった。
この研究施設に来ると、ユートには必ず寄る場所がある。それは元々ユートが研究施設に保護されていた頃からの習慣ではあるが、同時にオーガストにとってはあまり好ましくない人物だと言うこともユートは承知していた。
(何か、心臓に悪いことばっかだな)
まだ昼だというのにどっと疲れた。オーガストの姿が見えなくなったのを確認して、ユートもその場から踵を返す。そうしてロビーではなく反対方向、研究所の奥へと向かって歩き出した。
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