第6話 研究所

 ただ、母が狂うのを見ていた。

 

 第四次空間侵蝕。歴史に刻まれた一番真新しい大規模な空間侵蝕、その最後の被害地がユートの住んでいた都市だった。


 暴動は起こらなかった。

 空間侵蝕はまず大人の正気を奪う。暴れる前に、心が壊れる。都市には興奮した人々の熱狂や、鳴き声ともつかない呻き声が充満していた。

 

 パニックになった母はユートをクローゼットに押し込んで、何故かたくさん水と食べ物を持たせてくれた。まくし立てられた言葉は早口で、ユートには上手く聞き取れない。八歳の男の子が持つには重い黄色のリュックを両手に抱えて、クローゼットの隙間から、ただ母を見ていた。

 昔別れた父の名を呼ぶ、母を見ていた。


 脳裏に妖精たちの笑い声が響き始めたのは、いつからだっただろう。


 あさがきて。

 よるがくる。

 その繰り返し。


 おなかがすいた。

 台所へ行って水を飲んで、ビスケットを食べた。


 母は動かなくなっていた。ママ、パパ、と彼女の唇が微かに動くのを見た。

 ユートの名前は、呼んでくれない。


 友だちに『お前のせいだ』と言われた。

 実際『妖精モドキ』はいるだけでその地に妖精侵蝕を招くのだと言われていた。だけどユートは自分がファズだなんて知らなかった。都市がこうなるまで、知らなかったのだ。


 この都市を出なきゃ、と思った。


 出てどこへ行けば良いのかは分からなかったけれど、歩いていればどこかへ着くだろうと思った。重い黄色のリュックを、少しだけ軽くする。水は必要だし、食べ物も必要だ。着替えはいらないだろう。


 ゴトリ、と音を立ててリュックから滑り落ちたものがあった。幼いユートには不似合いな大ぶりのナイフだった。じっと眺めて、やがて小さな手でそれをリュックに押し込んだ。


 動かなくなった母に毛布をかけた。夜になったら寒いかもしれないから。

 外は少し寒かったけれど、幸い初夏だったから凍えることはなかった。


 歩いている間もずっと妖精達の笑い声はついてきた。

 キャッキャ、とはしゃぐような声や、クスクスクス、と囁きのような笑い声。ずっとずっと響いていた。それはやはりユートがファズだからなのだろうか。


(ついて、くるな……っ)


 友達の言った通りファズは空間侵蝕を引き寄せるものだから、妖精もついてくるのだろうか。


『お前のせいだ』


 ぐるぐると言葉が回る。


(ちがう。僕は、わるくない……)


 幼いユートは幾度も思う。


 声はずっとついてきた。たまらなくて走り出したこともあったけれど、すぐに疲れて諦めた。


 意識は朦朧としていた。歩くのをやめれば楽になれるはずなのに、ユートは歩き続けた。


 妖精の笑い声は付いてくる。

 ずっとずっとついてくる。

 その声が聞こえるたびに、ユートの柔らかい部分からペリペリと大事なものが剥がれ落ちていく気がした。


 右足を出す。

 左足を出す。


 それだけの動作がとても辛い。


 喉が乾く。

 水を飲んだ。


 お腹が空いた。

 ビスケットを食べた。


 妖精の笑い声は、ずっと付いてくる。


 いつまでもいつまでも、どこにも辿り着かない。

 もう何日も歩き続けた心地がしていた。

 

 そしてある時、妖精達の笑い声がピタリと止んだ。


『──こどもだ! 子供がいるぞ!』


 悲鳴のような声がした。

 人間の声、人間の言葉だった。


『きみ! 大丈夫か! 意識はあるか⁉︎』


 切羽詰まった大人の声がする。


 喉は枯れていた。だけど挨拶をしなくては。きちんと笑わなくては。自分は妖精ではなく人間なのだと、ちゃんと示さなければ。

 だからユートは歪んだ視界の中で、懸命に笑顔をつくった。


「こんにちは。ぼく、ユートです」


 思えば、あの時笑ったのが全ての間違いだったのだろうか。



   ◇

   


「おはよう」


 目が覚めると、真白の妖精がユートの目の前に座っていた。

 意識のピントが合うまでに一分強。それでもぼうっとしたままユートはベッドの縁に腰掛けたリッカの姿を認識する。

 

「ああ、おはよう」


 また日の出と共に起きたのだろうか。その癖文句を言う様子もなく、リッカはユートが起きるのをじっと待っていた。


 昨日は第五区画の聞き込みをして、収穫のないまま家へ帰ってきた。ユートがファズである事についてリッカがそれ以上聞く事はなかった。興味がないからだと分かっているだけに楽で、同時にどうでもいいと思われている事は少し複雑でもある。そう思ってしまう自分に嫌気がさす。


 時計を見ると八時を回っていた。思わず時計を二度見して、リッカを振り返る。


「起こさなかったの?」


 昨日はあんなに乱暴に起こされたのに、一体どうしたというのだろう。

 リッカは事もなげにこくりと頷く。


「朝は弱い、って聞いたから。いけなかった?」

「いや、いけなくは……ない」


 ただ驚いただけだ。そんな思いやりみたいな、人間のような行動をリッカがするとは思わなかった。コルムならやるかもしれないが、アレは何というか妖精の中でも特別変なのだ。


 お詫びにではないけれど、コルムに頼んで朝食にフルーツの缶詰を出してもらった。昨日奮発して買っておいたのだ。ジュースを飲んでいる時嬉しそうだったから、もしかしたら好きかなと思って。大正解だったようで、リッカは目を丸くして無言でパクパクと口に放り込んでいた。

 

 その様子をじっと見ていると、妖精がどうだの考えている自分が少しだけ馬鹿らしくなった。



   ◇ 



 リッカを連れて事務所に行くと、カウンターの横でアイノがラジオを聞いているところだった。


『第九地区は明日から二日間、緊急点検に入ります。第九地区の住民は、本日午後十六時までに、所定の施設への移動を完了させてください。繰り返します。第九地区は……』


「おはよ。二人とも」

「おはよう」

「おはよう、アイノ」


 律儀に名前を繰り返したのはリッカだ。名前を呼ばれたアイノが笑顔になる。ペットが懐いてくるような感覚なのだろう。


「点検? 今月って第九地区だっけ?」

「んー? 緊急点検らしいわよ。今朝急に決まったんだって」

「それは大変だな。何か先月もこういうのなかったっけ?」

「そうねぇ」


 ティルナノッグは区画ごとに浄化システムを配備していて、年に一回、毎月一区画ごとのペースで点検を行っている。

 その際浄化システムが正常に作動しなくなることを危惧して、点検中の区画への入場は全面的に禁止される。その間点検区画に住む住民は、別の区画に移る事になるのだ。基本的には年に一度のことだが、ごく稀にこういった緊急点検が始まることがある。命に関わる事だから皆協力的ではあるが、度々になればその内不満も出るだろう。


「今日は新しい仕事ないから、依頼の続きお願いできる?」

「あ、それなんだけど。今日リッカを預かってもらうことは出来ないかな?」


 付いてきたリッカが眉を吊り上げる。そう言えばちゃんと説明していなかった。


「何。お前またわたしを引き渡すつもりなの?」

「違うよ。逆だよ逆」


 そう弁明すると、アイノは合点がいったようであぁ、と頷く。


「もしかして今日定期健診の日?」

「そう。この間アイノが言った通り、あんまりリッカを連れていくのはよくないかなって」

「確かにそうねぇ」


 妖精愛護を謳っている都市だから、強制的に連れて行かれたりはしないだろうが、少なくともユートは長々と事情聴取を受けたし多少の聴取は受ける事になるだろう。パートナー登録はアイノが勝手にしていると思うが受理にはタイムラグがあるし、研究所預かりになる可能性もゼロではない。


 うんうんと頷くとアイノはリッカを手招きした。


「リッカ。ユートは今日病院なの。身体に悪いところがないか見に行ってくるから、リッカは私達とお留守番ね」


 あんなトコ行くもんじゃないわぁ、とアイノがため息をつく。


「ユート、身体に異常があるの?」

「いや、違うよ。ただの健診」

「……当然帰ってくるでしょう?」

「もちろん帰ってきますよ」


 丁重に返事をすると、リッカは満足そうに頷いた。それを見て、アイノが含み笑いを溢しているのをジト目で睨む。


「いやぁ、若いって良いわ〜。『僕の居候が可愛すぎて困るんですけど』って何かのタイトルになりそ」

「アイノの頭が今日もご機嫌なようで何よりだよ」

「えぇ〜。でもほら、可愛いでしょ?」


 可愛いも何もリッカは妖精だ。

 ニヤニヤと笑われて辟易する。脳内お花畑か、と思うがお花畑の方がマシかも知れない。アイノの脳内は得体の知れない植物園って感じだ。


「……今何かすごく失礼なこと思わなかった?」

「気のせいだよ」


 サラリと交わして、可愛いねぇ、と懐疑的にリッカの方を見る。


 今日はアイノに遊ばれたのか長い髪を二つに緩くくくっている。着るものは特に頓着していないからか、初日に買ってもらったワンピースに貸したままのユートのジャケットを羽織ったままだ。キョトンとして、紫紺の瞳がユートを見ている。


(まぁ……)


 可愛いかどうかで言うと可愛いで異論はない。


 ただやはりリッカの容姿はどこか人間離れしているのだ。まとう空気感も含めて完成されている。掲揚するとすれば美しいのだ、この妖精は。


「……リッカ、どっかで見たことがある気がするのよね。何かモデルさんとかに似た子いる?」

「僕に聞かないでよ」


 娯楽雑誌の類は読まないのだ。


「じゃあもう行くから」


 これ以上いると何を言われるか分かったものじゃないと、ユートはカウンターに放り出していた鞄を肩にかける。待って、帰りにこれ買ってきて、とアイノが紙切れを渡してくる。ため息をついて受け取ると、今度こそユートは事務所を出た。



   ◇



 ユートの特異体質は一般的には口外されていないが、ユートを保護してくれたティルナノッグの研究機関では誰もが知る事でもある。


 ファズという名は後々付けられた蔑称で、元々それらはフェアリー・ギフテッドと呼ばれていた。かつては妖精の寵児と呼ばれた、インスプリングに精神を侵されない体質を持った人間たち。


 フェアリー・ギフテッドは元々第一次空間侵蝕の際に見い出され、外部調査を行える破格の人材として重宝されていた。だがある時、管理されていたフェアリー・ギフテッドが都市部の子供たちを妖精域に誘い出して大量に狂わせるという事件を起こしたのだ。


 当時から一般人とは違う優位性を持ったフェアリー・ギフテッドを人間かどうか疑問視する声やフェアリー・ギフテッド自体を危険視する声はあり、一部では嫌悪の対象となっていたのだが、それが事件を契機に爆発した。一説によれば、中世の魔女狩りようなことが各地で起きたといわれている。迫害と呪いの対象となったフェアリー・ギフテッドは祝福を関した名を廃され、今では『妖精モドキ(ファズ)』と呼ばれる死神の代名詞になっている。

 

 無論、事件以来ファズだと自己申告する馬鹿は現れなくなったし、加えて空間侵蝕の被害にでも遭わなければファズである事は決して知られることはない。ユートのように生きてファズと認識されるケースは非常に稀だ。

 

 貴重なサンプルなので放っておけば標本にでもなっていたかもしれないが、幸いティルナノッグの市長によってユートは手厚く保護された。研究には嫌と言うほど付き合わされたが、命の危険を感じたことはない。



「──血圧、脈拍、心拍、どれも異常なし。脳波も正常です。ありがとう、ユートくん。今日もご苦労様」



 定期健診という名の定期観察を終えて、ユートはポッドから立ち上がった。

 民間の環境が随分と逆行したのと打って変わって、研究所の設備はいつ見ても時代が違う。多くの資源と技術がここにつぎ込まれていることは想像に難くない。


 定期的にユートを放り込んで脳波などの変化を調べているのは、表向き外へと出向くユートの特殊体質に変化が生じていないかのチェックだと聞いているが、多分他にも色々あるのだろう。聞く気はない。あまり知りたくもない。ただユートをいつも担当してくれる研究員のアンリが室長と呼ばれていることは把握している。研究所の組織図を把握しているわけではないが、ただの健康診断を担当する職位でないだろうとは想像がつく。


 ──ごクロウサマぁ!


 と、アンリの後ろで、研究に協力している妖精が跳ねた。


 ──ネェネェ、ユート。今日はフキゲン? ソレトモ愉快? 何だかいつもと違うワ!


 キャッキャと人の脳内ではしゃぐ妖精に辟易しながら、表面上は笑う。


「少し疲れただけだよ」


 ──ソーオ? だっていつもヨリ美味しいワ! ユラユラしてるもの!


「こーら、アマンダ。やめなさい。ユート君も疲れてるんだから」


 検査を終えたアンリが、ごめんなさいねとユートに謝った。たしなめられた妖精は相変わらずキャッキャと笑っている。


「構いません。はしゃいでいるだけですし」


 意識的に笑って、ユートもそう返した。


 研究所の上層部で働くメンバーはあまりユートへの嫌悪感がない。ファズなんて珍しいから好奇心が先に立つのだと以前笑って話してくれた。確かに彼らのユートへの態度はたまに実験動物への愛玩を思わせる事があるが、あからさまに敵意を向けられるよりはマシだと思っている。もちろん居心地がいいわけではないのだが。


「ユート君、そういえばうちの娘は元気かしら?」


 あまり長居したくなくて、さっさと部屋を出ようとしていたユートに研究員が声をかけた。


 娘とはアイノのことだ。普段は全く会話に上らないから意識しないのだが、ユートをいつも見てくれている研究員はどうもアイノの実母らしい。アンリの胸元の名札には『アンリ・マキネン』とあったので、アイノの事務所に勤め始めた頃本人に尋ねてみた事もあるのだが『まぁよくある苗字だしねぇ』とはぐらかされた。


 その反応に多分触れられたくないのだろうと思い、きちんと尋ねたことはなかったのだ。


 何より月一で研究所には来ているが、アンリからアイノのことを尋ねてきたのは今回が初めてだった。アイノが母親とあまり折り合いが良くないことは察していたので、ユートもアイノの事をここで話題に出した事はない。珍しいな、と心中で思いながらも『アイノですよね? 元気ですよ』と無難に返す。


「そう。たまには顔を見せなさいと伝えてといてくれる? 同じ都市にいるのにもう三年以上顔を合わせてないものだから」


 流石に忙しいとはいえ家族が顔を合わせない期間にしては異常な期間ではないかと思ったが、顔には出さず『わかりました』とだけ答えて、もう一度礼を言うとさっさとユートは部屋を出た。


 今度は呼び止められなかった。


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