第二章 迷子の依頼
第4話 迷子の依頼
「ユート」
自分より一オクターブは高い少女の声が、覚醒前のぼんやりとした脳を揺らした。
「ユート」
今度は明らかに不機嫌が滲み出る声音だった。ゆさゆさと身体を揺らす力は存外強く、喉からくぐもった声を絞り出してユートは布団をかぶり直す。
──…………。
と、脳に直接染み込んでくる抗議にハッとした。何だか分からないが、何かを忘れている気がする。ぼやけた視界には枕が映っている。心地よい微睡みから逃れられなくて『うぅ』と呻きながら、布団に顔面を擦り付けた。その、瞬間。
──ユート!
ガン、と頭を殴られたような衝撃が脳を揺らした。飛び起きるどころかそのダメージで枕に勢いよく突っ伏した。脳がガンガンと鳴っている。ズルズルと死に際のナメクジみたいに布団からはい出すと、明るい陽射しに照らされた白い少女の姿が目に入った。
(あれ……)
途端に昨日の記憶が蘇ってくる。
そうだ、自分は一人ではなかった。昨日から一人居候がこの部屋にはいる。その妖精様は朝の爽やかな日差しを背に、華奢な体躯には似つかわしくない仁王立ちで冷ややかにユートを見下ろしていた。
「…………おはよう」
虫ケラでも見るかのような視線に耐えかねて、とりあえず挨拶することにした。
時計をチラリと見る。七時十分。正直もう少し寝たい。だが目の前の不機嫌な妖精様を放って眠ることは許されないとユートの本能が告げている。
「オハヨウ?」
聞きなれない言葉だったのだろう。
首を傾げたリッカに、話題を逸らすなら今とばかりにユートは『朝の挨拶だよ』と起きぬけの少し枯れた声で返事をする。
「朝起きたら『おはよう』って挨拶するんだ。コミュニケーションだよ」
「…………オハヨウ」
「うん、おはよう」
この様子だとリッカはあまり寝ていないのだろうか。妖精に睡眠は特に必要ではないが、昨晩は寝ると言ってソファで丸まっていた。寝てないの? と尋ねるとフルフルとリッカは首を振る。
「寝たわ。空が明るくなったから起きたの。昨日お前が七時になったら起きるって言ってたから待ってたのよ」
「ずっと?」
思わず尋ね返すと、特に何の不満がある訳でもなくリッカは肯定を返した。
(今って、日の出は何時くらいだったかな)
恐らく四時か、五時かその辺りだ。だとすると、二〜三時間は起きるのを待っていたのか。そう考えると流石にうっすらと罪悪感が湧き上がってくる。
「……ごめん。朝は弱いんだ」
「そう。じゃあ次からはもっと容赦なく起こす」
「待って。アレはやめて」
脳内に直接シャウトを叩き込まれるのは、寝起きには辛すぎる。
そう主張すると不本意ながらもリッカは同意してくれた。
ずるずると起き出して、寝ぼけ眼で自分の衣服を整える。
リッカは後ろでふよふよと浮きながら、ぼーっとしていた。そういえば自分の部屋に誰かがいることは滅多にないことで、思ったより自分がリッカの存在を意識していない事に気付く。
コルムやアイノも部屋に入ってくることは基本的にない。話す必要がある時はリビングがあるというのもあるが、ユートは元々プライベートスペースに他人を入れたくないタイプだった。
人が嫌いなわけでは決してない。だけどある一定より先、他人に踏み込まれることを異常に嫌っている自分がいることをユートは自覚している。
(平気なのは、この子が妖精だからかな)
妖精には感情がない。
これは研究所が出している公式見解だ。妖精の感情は全て人間の模倣であり、彼らに感情はない。正確に言うと快楽中枢のような機能はあるらしいが、専門家の間では今の所それは感情ではないとされている。ただ事実として、妖精は人を嫌いにならないし人間を否定しない。
妖精はいつだって、笑っている。
ユートにとって、それは気持ち悪いことだった。何でも受け入れられると言うことは、何も受け入れていないということだ。妖精はいい加減で、おしゃべりで、自分の快ばかりを追い求める生物だ。
目の前にいるリッカは妖精で、どれだけ自分の内面を知ったところでリッカがユートを嫌うことはないのだろう。その事が気持ち悪いと思うのは自分の性格がひねくれてるからか、と思ってため息をついた。
(そういえば)
チラリとリッカを見て、不思議に思う。
(この子は他の妖精と違って、あんまり笑わないんだな……)
珍しくはあるが生まれたてだからだろうかとすぐに考えるのをやめて、ユートはさっさと着替え始めた。
◇
コルムに用意してもらった食事を終え、ユートが調停屋の事務所に移動したのは十時を回った頃だった。
事務所兼住居でもあるこの店には、特に就業時間という概念がない。仕事とプライベートの区切りが非常に曖昧だ。依頼がある時は別だが、朝の弱いユートは大抵は十時過ぎ、遅ければ昼前から仕事を始め、依頼がなければ昼ごはんを食べて部屋に戻ることすらある。全体的に緩いのだ。
「今日何か依頼ある?」
カウンターに座るアイノに声をかける。
「んー? あ、おはよリッカ。ユートに意地悪されてない?」
「こら、人聞きの悪い事を言うな」
開口一番ご挨拶である。対するリッカは『ワルイこと?』と首を傾げている。
「おお、その様子だとちゃんと面倒見たんじゃん。良い子良い子〜」
「頭を撫でるな! そりゃあんなこと言われたら邪険に出来ないだろ!」
ろくな扱いをされないとか何とか。ごめんごめん〜とアイノは笑って、誤魔化すようにクリアファイルをユートに滑らせる。
「あるわよ、依頼。私の手が回ってなくて返事できてないのよね。昨日の夕方に入ってたんだけど」
ファイルを受け取って、チラリとリッカの方を見る。ちょうどいいところに奥からコルムが顔を出してリッカを呼んだ。そのままリッカの相手をしてくれるようだったのでコルムに任せて、ユートはファイルの中身を改める。
「妖精の捜索願い?」
「そう。二日前から行方不明なんだって。今日見つかっていなかったら三日ね」
「それくらい誤差の範囲内では?」
そもそも妖精に日付感覚があるかどうかも怪しい。一週間くらいなら蝶にでも釣られてフラフラ飛んでそうだ。そう言うとアイノは苦笑する。
「うーん、ユートのはちょっと偏見が入っているかなぁ? ま、同意見で役所も手を貸してくれなかったみたいだけど。でもその子毎日必ず帰ってきてたらしくて、こんな事今までなかったんだって。パートナー登録もしてあるし、役所が動いてくれないことにえらくご立腹みたい〜」
「アイノの見解は?」
「妖精は気まぐれだからね。三日いなくなるくらいはよくある事でしょ。でも夢中になって帰るの忘れちゃってるかもだし、クライアントのために連れ戻してあげるのは吝かではない、ってとこ?」
あくまでも人間の心を慮って、という事らしい。元専門家が言うのだから事件性は薄いのだろう。
「分かった。すぐに行ってくるよ。お金も要り用だし」
「あら、ユート無駄遣いはしないでしょ?」
「服とか食べ物とか単純に出費は倍になるでしょ、一人増えたんだし」
もちろん家賃と称して、ユートの生活費は給与から天引きされている。
アイノがその辺りきっちりリッカの分も引いてくることは想像に難くない。そう思って原因の一端を作ったアイノへの当てこすりも多少込めたが、アイノは目をぱちぱちと瞬かせてニヤリと笑った。
「パートナー登録したら、市からちょっと補助が出るわよ?」
「……しつこいんだけど」
頬を引き攣らせて、だけど少し心は揺れた。これから一緒に生活するのであれば、多少の補助でも欲しいのは本音だ。諦めたようにため息をつく。
「……やりたいなら勝手にやっとけば?」
「マジで? 了解! やるやる!」
斡旋しといて意外だったのか、アイノが俄然やる気の声を出す。自分の仕事をしてほしい。
「……何でそんなに登録させたがるんだ?」
「うん? そうねぇ」
にんまりとアイノが笑う。
「ちょっとした親心?」
「何それ」
「さあさあ、お客さんが待ってるわよ! キビキビ動く!」
ユートの疑問に答えることなくアイノは笑顔で出発を促した。
アイノの所で働き始めてもう三年になるが、相変わらずこの人は食えない。
依頼人が難癖つけて殴り込んでこようが、妖精が事務所の中をひっくり返そうが、特に慌てた様子を見たことがない。『妖精モドキ』と嫌われているユートを無条件で引き取ってくれたところからも、ただの良い人でない事は何となく察している。昔は研究所にいたと言うが、なぜ今は調停屋に席を置いているのか、いまだにユートは知らない。
「……わかったよ」
答えが返ってくることを諦めてため息をつくと、ユートはコルムと話しているリッカを呼び寄せる。当然ながら、リッカの面倒を見るのはユートの役目だ。アイノも仕事があるし、外へ出ることもある。事務所に預けていく訳には行かない事はよく承知していた。
依頼人はニコ・ユルハという男性だった。ユートが訪ねると、感極まったように喜んで部屋の中へと通してくれた。妖精と住んでいただけあってリッカにも非常に好意的だ。
「君も妖精を連れているんだね! それなら僕の悲しみもよく分かってくれるだろう⁉︎ 役所の奴ら『もう少し待たれてみてはいかがですか』しか言わないんだ! 慇懃無礼とはきっとああいうことを言うんだよ! あんなの門前払いと変わらないじゃないか! あぁ、僕のマリア! きっと道に迷って帰れなくて嘆いているに決まっている。早く助けてあげなくちゃ……!」
大袈裟に嘆く依頼主のまくし立てるようなご挨拶に、ユートが事前に装備した沈痛な面持ちが引き攣った。
たまにこういう手合いがいる。妖精を己の伴侶か何かと勘違いして、必要以上に神聖視している人間だ。そも何かを嘆いている妖精なんて見たことがない。役所の人に若干同情しながら、一通りユルハからマリアの思い出話を聞くこと一時間半。ようやく口を挟む余地を得て、それで、とユートは口火を切った。
「マリアはどのような状況でいなくなったのでしょうか?」
「あぁ。三日前、第五地区に買い物に出かけていたんだ。マリアは妖精域へ出ない代わりに、人が多い場所へ出かけることを好んでいてね。買うものが無くても良くあのエリアをうろつくのさ」
「外へ行かないんですか? 珍しいですね」
何せインスプリングは人間にとって有害なだけで、妖精たちにとっては好ましいものなのだ。元々妖精域の生物である妖精にとって、それが有益な成分だと言うのは確かに理に適っている。ただ必要不可欠なものではなく、人の世界で言う嗜好品に当たるという話も聞いた。
そんな彼らが妖精域ではなくティルナノッグで暮らす事を選ぶのは、他でもない人間からもインスプリングと同じ成分が摂取できるかららしいが、詳しいことは謎である。ただ大抵の場合妖精は妖精域と行き来をしており、気まぐれに出かけて、気まぐれに帰ってくるものだ。それはパートナー契約をしている妖精でも変わらない。
「妖精域よりも人と一緒にいる方が楽しいらしいよ。いや、あの子たちにとっては食事に当たるから美味しい、と表現するのが正しいのかな? でも僕のそばにいるのが一番いい、と、天使のような笑顔で言ってくれるんだよ」
新婚夫婦か、とツッコみたくなる緩み切った顔でユルハが惚気る。幸せそうで何よりだ。
第五区画は娯楽の中心地だからいつも人で賑わっているし、人間が多いところを好む妖精なら確かに打ってつけだろう。
「じゃあ第五地区で行方不明に?」
「そう……。いつの間にかいなくなってしまっていたんだ。まぁそういうことは稀にあるんだけど、今回は夜になっても帰ってこなくて」
「そういうことは初めてですか?」
「初めてだとも! マリアは絶対に僕のところに帰ってくる。知り合ってまだ二年だけど、その間一度だってこんなに帰ってこないことはなかったんだ!」
一度だって、ときた。それなら確かに心配するのも頷ける。
「いなくなったのはどの辺りでしょうか?」
地図を広げて、詳細の場所を確認する。四日前にいなくなったのだからそこにいる可能性は低いが、念のためだ。そういえば写真ももらわないといけない。
写真がないか尋ねようとすると、その前にコトリと机に写真たてが置かれた。
「これ?」
「あ、うん。ありがとう」
写真を渡してきたのはリッカだった。先程までユルハが入れてくれたジュース(かなり高価)を大人しく飲んでいたのだが、暇になって家の中を物色していたのだ。ユルハが何も言わないのでユートも放置していた。
「あぁ、ありがとうお嬢さん。そう、この子が僕のマリアだ」
写真の中には、太陽に透けた若葉のような翅を持った妖精の姿があった。大きさはちょうど人間の子供くらい。
「この写真、借りて良いですか?」
「もちろん。元のデータはあるしね。可愛い子なんだ。変な人間に攫われたりしていないと良いんだけど……」
肩を落とすユルハに慰めの言葉をかけて、ユートはリッカと共にその場を辞した。帰り際にリッカがユルハにオレンジジュースのお礼を言っていた。
おいしかった、ありがとう。
ユルハはとても驚いて、だけどとても嬉しそうに笑った。
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