第一章 妖精都市

第1話 白の妖精

 ガタガタッと不規則な音を立てて車体が揺れた。


 草花に彩られた石や鉄屑の転がる風景を横目で見ながら、ユートは中古のバギーのハンドルを握り直す。


 今走るここは元々大きな都市だったはずだ。

 その証拠に元は高いビルだったと思われる建物が、小山のようにある程度整列して連なっている。まっすぐに伸びる平らな部分は主要道路だろう。人類の面影を残すコンクリートの上に塗り掛けの油絵みたいに緑や黄色、赤の色彩がまだらになっている景色は、見慣れたとはいえあまり気分のいい光景ではない。趣味の悪いおとぎ話の挿絵のようだ。


「っと」


 慣れた動作で坂の途中でバギーを止めて、ユートは運転席から飛び降りた。瓦礫の隅で何かが驚いたように引っ込んだ。ねずみだろうか。

 

 坂に見えるが実際のところ登っていたのは融けた建物の残骸だ。文明など百年前に滅びました、と思わせるような緑と花々に覆われた鉄の骸は、実際のところ住む人間がいなくなってから十年かそこらしか経っていない。

 これでも状態は良い方で、侵蝕が早い地域ではわずかひと月で人間の痕跡は融け落ちると聞く。この町は近年で最後に起きた『侵蝕』の跡地なのだ。


 この世界で人間の住める土地は限られていて、外に出られる人間も限られている。百年前までは世界はもっと密接に複雑に繋がっていて、この星で人の手が入ってないところを探すほうが難しかったと聞くが、今となっては世界のほとんどが未開地に逆戻りだ。


 空を見上げると大型の猛禽類が悠々と空を飛んでいた。人間にかつて土地を追われていた動植物の方が余程自由に暮らしていて、籠の中に入っているのは人間ばかりだ。


「流石にこの辺りはもう残ってないか」


 うつむくと視線を遮る黒髪をかきあげて、ユートは残念そうにため息をついた。ユートの今日の業務は外部偵察だが、別段誰かに監視されているというわけでもない。人の痕跡が残っている都市では、加工すれば使えそうな鉄屑なんかが拾えるから持って帰ると金になるから漁るのはいつもの癖だ。


 外で他所の人間に会った事はないが、外部調査に割ける人員は限られているのだろう。十年経てばさすがに探索し尽くされているようで、残っていないのもやむ無し。


 遠回りしてみたけれど甲斐はなかったな、と運転席のドアに手をかけたところで、遠くの方でシャァァァァァン──!  とガラスが割れたかのような高い音が響いた。


「──っ!」


 反射的にバギーの横にしゃがみこむ。

 だが今の音は近くじゃない。もっと遠くだ。

 すぐには危険がないと判断すると、ユートは立ち上がって周りを見渡した。


 昔はそれなりに立ち並んでいただろう建物はそのほとんどが今は融け落ちて高さをなくし、丘陵地のような地形を幾つも形成している。バギーの運転席を開けると車の中から双眼鏡を取り出し、音のした方向に目を凝らした。


「……何か、いる?」


 本来動くものがいないはずの景色にチラチラと何かが動く。建物の残骸の隙間に見えるのは砂煙、そしてその煙の中から飛び出したのは──。


「車⁉︎」


 驚きに目を見開いて、だがすぐにユートはバギーに飛び乗った。エンジンをかけて、躊躇いなく粉塵の方へとハンドルを切る。

 車なら乗っているのはまず間違いなく人間だ。そして見えたのは車だけではなかった。車を覆い尽くすほどの大きなモヤがキラキラと尾を引いて、猛烈な勢いで走る車を追いかけていく。 


(妖精だ)


 それは世界未曾有の大災害と言われる『空間侵蝕』と同時に発生した生物のことだ。


 二つの核を持ち、己の形を持たない、この世界を侵した空間に生息していた唯一無二の生命体。


 とはいえ、本来妖精が人を襲う事はほとんどないはずだ。なのにあの妖精は明確に意志を持って車を追いかけている。何故? と疑問が浮かぶが、そんな悠長な事を言っている場合ではない。


 粉塵を頼りに車を走らせる。踏み砕いた石で車体が揺れた。速度をほとんど殺さずに、ギリギリでカーブを曲がり切る。


(いた!)


 何とか先回りできた。まだ高さのあるビルの上から大きく手を振ると、向こうもこちらを発見したのだろう。助けを求めているのか、もはやそういった判断すら難しいのかは分からないが、車はこちらに向きを変え猛然と向かってきた。どちらでもいい。好都合だ。


 助手席に放り投げていた双眼鏡を無造作に掴んで、こちらに向かってくる車に焦点を合わせる。


(運転手と……後ろに一人、か?)


 よく見えないが後ろの座席に一人、人が横たわっているのがチラリと見えた。ヤバイな、と呟く。この辺は汚染度の高い危険区域だ。薬が切れれば大の大人は遅かれ早かれ精神に支障をきたす。


 助手席の鞄から目当てのものを取り出すと、運転席から飛び降りる。

 車が一目散に向かってくる。

 後ろから迫ってくる無形の妖精との距離も僅かだ。

 距離とタイミングを目視で図りながら、手に持ったそれのピンを引き抜いた。


(今──っ)


「目を閉じて耳を塞げ‼︎」


 聞こえたかどうかは分からない。どちみち確認している余裕はない。

 そのまま右手を大きく振りかぶって投擲した。瞬時に身を翻して地面に伏せて耳を塞ぐ。


 瞬間、背後で鋭い音が弾けた。

 同時に急ブレーキの音と、滑ったタイヤの音が甲高く響き、止まる。


「…………」


 ツン、と鼻腔をくすぐったのは火薬の匂いだった。半開きにしたままの口からゆっくりと息を吐き出すと、ユートは目を開ける。


 悲鳴は聞こえない。


 軽くかぶりを振って立ち上がると、そこには急カーブして止まった車の姿だけがあった。彼らを襲っていた妖精の姿は影も形もない。


「ハァ」


 ホッとして大きく息を吐き出した。

 ユートはさっさとバギーに乗るとビルの上から下へと降りていく。停止した車の所へたどり着くと、ノロノロと運転席から一人の男性が出てくる所だった。

 バギーの音で気づいたのか、運転席のユートと目が合うと、柔和な顔つきをした男性はへらりと笑って片手を上げて見せた。


「大丈夫ですか?」


 バギーから降りて駆け寄るが、男性は何度か耳を押さえて首を振って見せた。鼓膜がやられたのかもしれない、と一瞬不安になるが、いや助かったよ、と男性は苦笑まじりに言葉を発した。またホッとする。


「まさか妖精が人を襲うだなんて思わなくて。キミすごいね。さっきのは何? 爆薬?」

「スタングレネードです。火薬式の」

「あぁ、それで逃げたのか。妖精は火薬の匂いが嫌いだって聞いたことあるなぁ」


 疲れたように男性は笑う。良かった、耳は聞こえるようだ。

 あと多分先ほどの妖精は逃げたのではなく消滅したのだ。形を持たない物はこの世界では生きづらく、無形の妖精は驚くほど外界からの刺激に弱い。わざわざ教えなくてもいいだろうからユートも敢えて訂正はしない。


「すみません。一応耳を塞ぐように伝えたんですが、あの騒動の中だと聞こえませんでしたよね」

「ははは、運転するのに必死だったよ。でもありがとう。おかげで命拾いした」


 疲れたように笑う男性には怪我をした様子もなく安堵する。男性の無事を確認すると、ユートは男性の乗っていた車の方に視線をやった。


「後ろに乗っている方は大丈夫ですか?」


 双眼鏡で見た時には倒れていたように思う。今も起きてこないとなると、薬が切れかかっているのではないだろうか。だとしたらとても危険だ。幸い薬はユートも持ち歩いているから、切れたのであれば飲ませてやれる。

 そのつもりで尋ねたのだが、男はあからさまに顔色を変えた。何か後ろ暗いことがあるような反応だ。


「……あぁ、娘でね」


 ゴニョゴニョとそう答えると、すぐに話題を変える。


「ところでこの辺りは汚染が進んでないのかな? もうそろそろ私はDDが切れるはずなんだけど、君は?」

「汚染が進んでない? そんなはずはありません。この辺は高濃度の汚染地帯ですよ」


 まだ薬が効いてるんでしょう、と続ける。

 空間侵蝕に遭った地域では、例外なく人は狂う。精神に直接作用する汚染物質『インスプリング』が蔓延しているせいだ。この汚染物質を中和する薬、通称『We-

 D』は貴重品で一般的には出回っていないものだ。その薬を持っていて、外部に出ている時点でこの男性もきっと一般人ではない。それにしては妖精の知識がないのが気にかかるが。


「そうか」


 ユートの言葉に、男は目に見えて高揚したようだった。うんうん、と機嫌よく満足そうに深く頷いている。よく分からないが話ができる時点でこの人は正気だ。まだ大丈夫だろう。

 男性はそのまま上機嫌にユートに質問を重ねてきた。


「ところでティルナノッグという都市はここから近いかな? そこを目指していてね」

「ティルナノッグならここから車で一時間くらいですよ。僕もこれから帰るところなんです」

「おお、それは運がいい! 良ければつれていってくれないか?」

「構いませんよ」


 それならば先に薬を飲んでもらった方がいいだろう。先ほどDDが切れる頃だと言っていたし、ティルナノッグまではもたないかもしれないポーチから薬を取り出して一粒男に渡すと、ユートの足は当然車の方を向いた。


「ちょっと君。何を……」

「薬ですよ。都市まではまだ距離があるから。貴方はともかく、娘さん具合が悪いんでしょう」


 精神汚染は時間との勝負だ。疲れて寝ているのあれば、薬が切れてるかどうかも判別出来ない。睡眠時は精神汚染の進行速度は緩やかになるが、それでも先に飲ませた方がいいことに変わりはない。


 後部座席に少女が横たわっているのが窓から見えた。躊躇せずに後ろのドアに手をかける。


「止めろ!」

「え──?」

 視界に入ったのは、新雪を思わせるような真白の髪だった。後部座席に絹のように広がった髪と、その隙間に見える白磁の肌。

 

 遠く、遠く。

 もう今はずいぶんと古い記憶。

 窓から見た、純白の景色がフラッシュバックし──。

 

 視界がぶれた。


「……っ⁉︎」


 いや違う。引っ張られて無理矢理車から引き剥がされたのだ。


 振り返ると鬼気迫った顔をした男がすぐ背後にいて、視界の端で拳を振りかぶっているのを捉えた。


「ちょっ!」


 咄嗟に飛んできた拳を弾いて流すと、バランスを崩した男の肩を思いっきり突き飛ばして、すかさず距離を取った。


 ひっくり返った男は、したたかに腰を打ち付けたようだった。うめきながら、ギリと歯軋りしてユートを睨みつける。ユートからすると全く意味が分からない。睨みつけたいのはこっちの方だ。


「何のつもりですか?」


 一応腰のポーチに刺したサバイバルナイフに片手をかけて、とりあえず問いかける。

 男がユートを襲おうとする理由が分からない。


 チラリと見えた少女の姿。見えたのは純白の髪と透き通るような肌をした華奢な肢体。そう、少女は何も身につけていなかった。一糸まとまわぬ姿で無造作に後部座席に転がされていた。普通ならば誘拐の類だと推測するだろう。だがこと寝かされていた少女に関しては、そうとは言い切れない。何故なら──。


「その子、妖精でしょう?」


 その名を口にすると、男は言葉に詰まった。

 空間侵蝕と共に現れた未知の生命体は、初めの頃姿を持たなかった。二粒の核を持つモヤのような生物。ちょうど先程男を襲っていた形態がそうだ。だけど彼らは人の文明に興味を持ち、少しずつ人の形を取るようになってきた。その姿がまるで世界各地で語られていた妖精のような姿だったから、彼らはいつしか『妖精』と呼ばれるようになったのだ。


 特徴は様々だ。翅があったり、指先が尖っていたり、尾ヒレがあったりなかったり。とかく彼らは気ままで、自由な姿を取るのだ。


 共通するのは頭の触角。人に似た姿を取った彼らには、カタツムリの触覚にも似た器官が必ずある。

 そして後部座席で眠っていた少女の頭からは、見紛うこともなく二本の触角が生えていた。


 だとしたら別に裸で寝ていても、最悪そういうものだと言われたら納得する。

 人の姿を取っていても、服を着ることを嫌う妖精は多い。初めから妖精が寝ているのだと言えば、ユートも納得した。こんなに焦っては、やましい事がありますと自ら告白しているようなものだ。


 面倒な人間を助けた、と正直思った。放っておけばよかった、という苦い後悔も過ぎるがすぐに振り払う。どちみち自分にそんな器用な真似は出来ないだろう。

 代わりに、騙すならもっと効率的にやってくれ、と心中で悪態をついた。それならユートだって気持ちよく騙されるのに。


「何を聞いたのかは分からないけれど、ティルナノッグは妖精と人間の共栄都市です。確かに人と同じ大きさの妖精は珍しい。妖精が数多いるティルナノッグでもほとんど見ない種です。ただ貴方がその妖精を売ろうとしているなら、あの都市に関しては商売になりませんよ」


 相手の気持ちを逆撫でしないように、慎重に言葉を選びながら話す。


「ティルナノッグでは妖精の権利は人間同様保障されています。妖精が人と共に暮らしを営んでいる都市なので、妖精の売買は犯罪です」

「……っ、なるほど。では私を裁くか?」

「まさか」


 ユートは肩をすくめる。人身売買なら黙ることは無理だろう。だが相手は妖精だ。こと妖精に関して、ユートは人間を敵に回す気はない。


「生憎僕は妖精の権利問題にうるさいタイプじゃないんです。物騒な事はやめて、警戒を解いてもらえると有難いです」


 まだ完全に敵対していない事を示すために、言葉に敬意を示す。

 ユートの言葉に男はじっと何かを考え込んでいるようだったが、それも数秒だ。やがてふっと力を抜くと、両手をだらりと下に落とした。

 

「……そうか。すまない。私の、早とちりだったようだ」


 ホッとした。他人との揉め事は面倒臭いのだ。妖精を理由にだなんて尚更ごめんだ。別に殺されそうになった訳ではないし、ユートとしては可能な限り物騒な事は避けたい。他人に負の感情を持つのは、とてもエネルギーがいる。


「妖精ならWe-Dは要りませんね。売れはしませんが妖精の保護は出来るので、然るべき機関に話を通しますがそれで良いですか?」

「あ、あぁ。助かるよ……」


 努めて先ほどよりは冷淡な口調を心がけた。男の一挙一動に注意を払いながら、流石に自分の後ろを走らせるのは怖いから先に進んでもらおう、と決める。


「その子に危害は加えてないですか? 加えていたら、犯罪になってしまうので」

「加えていないよ! これは、その。ここに来る途中で偶然拾ってね。こんなご時世だし、少しでも金になるんじゃないかと思ったんだ。当てが外れて、残念だ。その、恩人の君にも無体を働いてしまったし。許してもらえるかな?」

「今回だけ無かったことにします」


 こんな世界だ。誰もが裕福な訳ではないし、地域によっては今日の安全すら補償できない。いささか攻撃的になってしまうのも、多少は仕方がないことだと自分に言い聞かせる。


(とはいえ不可解ではあるんだけど)


 妖精は基本寝食を必要としない。好んで睡眠を取っている妖精を一人知ってはいるが、非常に稀有な例だ。滅多に見ない。だが後部座席に横たわった妖精は、一瞬ではあったがそりゃあもうぐっすりと眠っているように見えた。


「本当にすまないね」


 そう口にしながら、男が後ろに手を回したまま一歩下がった。その右手が不自然に動いたのを視界に捉えた瞬間、ユートは地面を蹴った。

 軽く、乾いた銃声が響いた。


 火薬の匂いがツンと鼻腔をくすぐる。震える男の手に握られた拳銃に、ユートは信じられないというように男の顔を見る。信じられないのは男も同様のようだった。最もこっちは至近距離で撃った銃弾が地面を抉っただけで終わったことに動揺しているのだろう。


「……何のつもりだ?」


 数分前と全く同様の問いを、今度は警戒もあらわに繰り返した。流石に銃まで出てくると、ユートも何事もなくとはいかない。己の命の安全が最優先だ。男が銃を携行しているのに気付いていなかった事に舌打ちする。


(銃……、くそっ、バギーの中だな)


 野生動物の対策にスタングレネードなどの類も所持しているがそれも同じくバギーにある。今はナイフ一本しか持っていない。


「も、申し訳ないけど、妖精を保護されては困るんだ」


 そう言って男は震える手で銃口をこちらに向けた。銃を撃つのには慣れていないのか、銃口は呆れるくらい震えている。


「き、キミには、シんでもらわないとい、いけない」

「……ちょっと」


 そこで違和感に気づく。男の呂律が回っていない。震えている銃口は、慣れているとか慣れていないとか多分そういう問題じゃない。薬はさっき渡したはずだ。もしかして飲んでいなかったのか?


「シんで、シん、でもらわないと。キミには。ようせい、保護サレては、こま、こまる、こまるから。こまる、から」


 確定だ。明らかに様子がおかしかった。男の視点はもう定まっていない。これはインスプリングによる精神汚染の症状だ。


「くそっ」


 悪態をついて、ポシェットを漁って経口薬を掴む。目の前で狂われては寝覚めが悪い。


「とりあえず薬を──っ」


 ユートの言葉は再び発砲音で遮られた。だけど銃口は明後日の方向を向いていた。遠くのビルの表面の土が軽く抉られるだけだ。


「あれ、スマナイね。スマ、すまない。助けてもらっタ、のに。カアさん、おかえり。連れて、キタヨ。キタカラ、ワタシは、あぁあァ、あぁぁアァァァァ、おかエリィィィァ、あぁァァぁぁあ────‼︎」


 ──ウルサイ


 突然、思考に声が割り込んだ。

 否、声ではない。脳にそのまま言語情報をねじ込まれるかのような無遠慮な伝達手段。それが良く知る妖精のコミュニケーション手段だと認識するより先に、男の身体が横にぶっ飛んだ。


 ビルの残骸に男の身体が派手に叩きつけられ、砂煙を上げてそのまま沈黙する。


「大丈夫か⁉︎」


 弾かれたようにユートは男に駆け寄った。

 男の口からはモスキート音みたいな音が途切れながら漏れている。その口に取り出した薬を無理矢理捩じ込んだ。腰に吊るしてある水筒を片手で開けると、有無を言わさず流し込む。


 喉から漏れてくる壊れたラジオみたいな音が少しずつ、少しずつ小さくなりやがてひゅー、ひゅーという空気の漏れる音に変わっていく。その音を聞いて、一旦安堵する。


 奇跡的に男の手に握りしめられたままの銃を取りあげると、セーフティをかけて上着のポケットに突っ込んだ。視点が合わない男の瞳を無理矢理閉じると、もう普通に眠っているように見える。無事なのだろうか。分からない。目を覚ましてもらわないと無事かどうかを確かめる術がない。


 ──…………。


 と同時に、脳にものすごく不機嫌な思念を叩き込まれて、ユートはソレの存在を思い出した。


 先程男を吹き飛ばした主。そんな人間離れした技をなし得るモノは、この場ではたった一人しか思い当たらない。


 恐る恐る振り返ると、果たしてそこに少女の姿はあった。正確には少女の姿をした妖精が立っていた。


「あ……」


 声をかけようとして、咄嗟の言葉に詰まる。


 妖精への交渉は人間への交渉より簡単な事もあれば、遥かに難しい事もあった。彼らには人の常識が通じない。予測できる心の機微というものがないのだ。だからいつも翻弄されるばかりで、今回もユートは何から話せばいいのか検討もつかなかった。


 だけどそれが理由ではない。

 ただ彼女を目の前にして、意味のある言葉が何一つ出てこなかった。


 ひび割れたコンクリートの道路に、純白の肢体を堂々と晒して少女はたたずんでいた。腰まで伸びた雪白の髪は真っ直ぐ鋭利で、その髪と同化して溶け込むように揺れる触覚が対照的に柔らかい流線を描いて揺れている。こちらを見る瞳は、宙を思わせる深い紫紺。

 たたずむその姿は、ただ、美しかった。


 ──お前、ニンゲン?


「ぃっ⁉︎」


 直後、脳に叩き込まれた信号に思わずユートは呻いた。頭を押さえてしゃがみこむ。新手の精神攻撃か、と問いたくなるようなまるで無遠慮な思考の伝達だ。普通の妖精はもっとそよ風みたいに思考に言葉を落とす。なのにヘッドセットでいきなり爆音が流れたかのような衝撃を、その妖精は脳にねじ込んできた。


 ──…………。


 同時に湧き上がる不機嫌な気配。

 しゃがみこんだユートの行動を、自分の発言を無視したかのように感じたのかもしれない。すぅ、と妖精がわずかに呼吸を吸うかのようなモーションに入ったのを視界の端に認めて、血の気が引いた。これは絶対マズいやつが来る──!


 もしかしたら銃口を向けられた時よりも根源的な恐怖に突き動かされて、ユートは慌てて口を開いた。


「待って待って待って! 聞こえてる! 聞こえてます! 人間だよ! 人間です!」


 銃を突きつけられた訳でもないのに意味もなく両手を頭上に掲げて、必死で妖精の次の言葉を遮った。


「ついでにもう少しボリュームを下げてもらえないかな! さっきから君の声が頭にガンガン響いて倒れそうなんだ! こっちはか弱い人間なので手加減をしてくれると非常に助かるんだけど!」


 そこまで早口でまくし立てると、妖精はキョトンとしてユートを見ていた。じっと凝視してくる瞳に映る感情は全く分析できない。通じたのかさえ分からない。どうか通じていますようにと心から願いながら、ユートは妖精の次の行動を待つ。妖精はじっとユートを見ていたが、視線を上に彷徨わせ、少し考えるそぶりをした後、もう一度ユートの方を向いた。


 ──これで良い?


 良かった。通じていたようだった。

 そよ風のような、とはいかないが、少し声の大きいおばちゃんが喋ってるくらいのもので、命の危機を感じる事はない。コクコクと頷くと、妖精は満足そうに頷いた。


 ──お前、そこのうるさい奴の仲間なの?


「いや、初対面だよ。というか初対面で襲われかかったところを君に助けられた。あぁ、そうか」


 そこまで言ってようやく気付いた。理由はどうあれユートは先程この妖精に助けられたのだ。


「助けてくれてありがとう」


 妖精はキョトンとして、不思議そうに首を傾げる。


 ──わたしがお前を助けたの?


「うん。いやまぁ、放っといてもあの人は狂ってたかもしれないけどさ。そうか。もしこれであの人が無事だったら、あっちも助けてくれたことになるのかな。じゃあやっぱりありがとうだ」


 誰かを見殺しにするのは後味が悪い。目の前で発狂するのを見届けてしまえば、向こう一ヶ月くらいは目覚めが悪くなる自信がある。

 妖精はユートのいうことを理解できないようだった。考えるそぶりはしたものの、最終的には興味が沸かなかったようでその話題自体を無視した。


 ──それで、お前はわたしをどこへ連れていくつもりなの?


「え?」


 話題を変えた妖精の問いかけに、ユートは戸惑う。


「どこへも何も、君はどこかかから連れてこられたんじゃないの? もう自由なんだから、どこへ帰っても良いけれど」


 人の住める土地は限られているが妖精に制限はない。元いた場所に帰ればいい。


 ──どこへ?


「いや、知らないよ。覚えてないの?」


 妖精は少しだけ考え込んで、やはり首を傾げる。そして無垢の瞳をユートに向けると、信じられない言葉を吐き出した。


 ──なら、お前がわたしを連れて行きなさい。


「は?」


 まさしく予想の斜め上だった。ポカンとして妖精を見ると、彼女は艶やかに笑う。


 ──わたしがお前を助けたのだから、お前はわたしに尽くすべきでしょう。


 至極当然、自然の成り行きである、という堂々とした意志が感じられた。無垢の笑顔にはおよそ遠慮というものは存在しない。いや、そもそも妖精にそういった類のものは期待できないのだが。


「え、いや。ちょっと待って。でも……」


 ──…………。


 ぶわっと広がる不機嫌の気配。生命の危機を知らせる警鐘がガンガンと頭に鳴り響

 く。


 星を宿した美しい紫紺の瞳がこちらをじっと見ている。その不機嫌さを殊更揺さぶるのは得策でないと判断し、ユートは固まった笑みのままこっくりと首を縦に振った。



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