第16話 女体喰らいの呪い峠②

 九郎を襲っていた感度の鋭敏化は下腹部にも発生し、立ち上がることさえ困難になる。


(身体が動かせない……こんなのがいつまでも続いたら、気が狂ってしまうのも無理はないね……!)


 びくんと肉体が痙攣し、九郎はポーカーフェイスのまま一度目の絶頂を迎える。触手が侵入してたくし上げられたセーターから覗く腹筋の丘陵に、どくどくと溢れる母乳が河を作っていた。シートにも、無様な染みが広がっていく。

 九郎は退魔の刀である〈むらくも〉と〈くさなぎ〉を出そうとするが、【解読不能の愛ブラック・チェンバー】は発動しない。残念な事にこの怪物は悪霊の類ではなく、人間に対して一切の願望を向けない神の一柱であったのだ。

 今こうして九郎を犯しているのも、ただそういう動きがプログラムされているからに過ぎない。彼女の乳首を執拗に舐り続ける触手の動きには一切の遊びが無く、金属を研磨する機械の如く効率的かつ事務的に、刺激を与え続ける。

 次善の策として九郎は、自分の首に手を当ててばさっと黒い羽根を散らせる。すると全身を襲っていた痙攣が止まり、身体を動かせるようになった。

解読不能の愛ブラック・チェンバー】は〈自分自身を騙す〉時限定で、自分自身の願いを反映させて発動する事ができるのだ。


「……よし。一旦は何とかなりそうかな」

「九郎さん、大丈夫なんですか⁉」

「大丈夫とは言えないね……首から下の感覚を遮断して、気休めの応急処置をしただけだ。運転はできそうにないから、啓介くんが代わってくれないかな?」

「わ、私ですか⁉ ……やってみます」


 啓介の手を借りながら九郎は助手席へと移動し、啓介がハンドルを握る。


「ごめんね……シート、濡らしちゃった」

「き、気にしないでください。それよりどこに向かいます? 山から出ますか?」

「それは最終手段にしよう。この怪異……仮にヤマノキ様と呼称するが、この山に放し飼いにされていると言っていただろう。裏を返せば、自力で山の外に出る事はできないという事だ。此処でボクらが無暗に境内チャネルから連れ出してしまうと、その封印が解けてしまう可能性が高い。……それに、こいつも一柱だけではないだろうからね」


 九郎が考えていたのは、ヤマノキ様がどうして女の身体に寄生するのかだった。


「啓介くん、山を登るんだ。山頂付近に寺院が見えるだろう。あそこを目指してくれたまえ」

「わ、わかりました!」


 覚束ない手つきで啓介はエンジンを起動し、アクセルを踏む。自家用車を持っていない彼にとって、運転の機会は年に数回。小旅行でレンタカーを借りる程度である。交通量が極めて少ない一本道であったのが唯一の救いだ。

 その横で九郎は、感覚の無い自分の身体で進行している更なる事態を予感していた。乳首に吸い付いている触手が、服の下でうぞうぞと動き始めたのである。そして両の乳首から離れたかと思うと、側頭部の頭蓋を通り抜けて頭の内側へと挿入される。


「ぐぴゅっ」


 出てはいけない声が漏れ、九郎は目を剥く。

 脳を直接弄られる感触など、生きたまま体感する事はそうそうないだろう。鼻腔内の粘膜に水が入った時の不快感を強烈にしたような感覚が頭の中で際限無く誘発され、九郎は長い舌を出して苦しむ。首から下の感覚を遮断してしまっているせいで、他に意識を逸らせないのが余計に苦痛を増していた。彼女にしてみれば、生首だけの状態で脳姦をされているのに等しいだろう。

 ぐちゅぐちゅと脳を犯されると、九郎にとっては自慢である自身の頭脳を性処理用の玩具ととして使い潰されているような錯覚があり、それが更なる興奮を生む。

 だがこのままでは死ぬと判断した九郎は、身体に掛けていた【解読不能の愛ブラック・チェンバー】を解除した。

 それがまずかった。快楽の逃げ場を求めた先には今まで黒い羽根によって堰き止められていた快楽の洪水が溢れんばかりに溜まっていたのだから。

 座席を移動した時の大きな動きは乳房を大いに揺らしており、常人であればショック死する程の刺激を生じていた。その残滓は時間を経て尚残っており、乳腺を一瞬で炎へと変える。

 胎内でも見えない所で、触手内の突起を露出させた凶悪な形状の先端が内壁を舐り始めており、その勢いは最早穿孔と形容するに足るものだった。


「あぎいいいいいいいいいっ!?♡」


 頭蓋の内府側へと逆流してきた快楽が、一瞬九郎の正気を焼き切りそうになる。二度目の絶頂を迎えた彼女は、全身の穴という穴から体液を噴き出してぐったりと首を傾けて浅く息をしている。鼻腔からは興奮によって鼻血が流れ、身体の痙攣も危険な発作へと変わり始めていた。


「く、九郎さん。しっかりしてください! もう直ぐお寺に着きますから!」


 最早返事のできる状態ではなくなってしまった九郎を乗せた車は山頂へと辿り着き、彼女を車内に残して啓介は寺院へと駆け込んだ。入り口付近に人の姿は見当たらず、藁にも縋る思いで啓介は叫ぶ。


「助けてください! 山で怪物に襲われたんです!」


 すると寺の奥から、一斉に喧しい声が響き渡った。あまりの重奏に音は潰れてしまっているが、啓介はそれが人間のものだと判る。


「……静かにせい。女達が興奮してしまったじゃろうが」


 奥から出てきたのは、煙のように長く白い眉と髭を流して歩く、僧衣を纏った老人の男だった。瘦せこけた頬と落ち窪んだ目のせいで、彼自身が怪異の如き恐ろしさを湛えている。


「あ……すみません。でも緊急なんです。連れがこの山で怪物に襲われてしまって……!」

「怪物ではない。山の神だ。……お前の連れとやらは女か?」

「そ、そうです」

「付いてこい。先ずはそれからだ」


 老人に案内され、啓介は奥の部屋へと通される。そこは襖で区切られており、中からは先程の声が止む事無く響き渡っている。中に入ると広い畳の間が在り、そこには四人の女がいた。皆一様に白い着物を着せられており、焦点の合わない虚ろな瞳をしている。

 老人が何かお経のようなものを唱えると、数分掛けてようやく女達は静かになった。


「……この女達はヤマノキ様に取り憑かれた犠牲者達でな。この寺から出さずに、わしが面倒を見ている。ヤマノキ様に取り憑かれた女は、この山から出してはならん決まりなんじゃ」

「ヤマノキ様を結界の外に出してはいけないからですか……?」

「……ほう。お前、少しは物を知っているらしいな。ヤマノキ様は女の胎内に寄生し、子宮内に卵を産み付ける。そうやって苗床にした女は肉体の感度を暴走させられ、生きたまま快楽に狂い続ける肉人形と化すのじゃ。そしていずれ四十九日後に卵が孵化すれば宿主の魂は食い尽くされ、数体のヤマノキ様を産み落とす事になる。魂を食われた女は廃人となり、肉体への刺激に過剰な反応を繰り返すだけの抜け殻になってしまうんじゃよ」


 この女達の中に、もう魂は入っていないのだろう。生命活動こそしているようだが、最早死体と変わらないのかもしれない。


「はっきりと言っておく。わしの力では、お前の連れを助けてやる事はできん。できるのは苦痛を和らげてやるのと、魂を食われた後の面倒を見てやる程度じゃ」

「そ、そんな……! 私に何かできる事は無いんですか⁉」

「看取ってやるのが関の山じゃろうな。神の理を退ける方法など存在せん」


 突き付けられた現実に、啓介は一瞬言葉を失う。だがその胸中に渦巻いていたのは、絶望ではなく湧き上がるような怒りだった。


「神……また神か……! そんなに偉大な存在が、どうして人間に寄生するような真似をするんです!?」

「……何じゃと?」

「どいつもこいつも人間の命を餌みたいに扱って……人間に信じてもらえなければ、現世に干渉もできないくせに!」


 見殺しにしてしまったカエデの最期と、今目の前で呻いている哀れな女達の姿が重なり、溜まりに溜まった鬱憤が啓介の感情に掛けられていた枷を外していく。


「そんな神なんて、私は信じない! 私が……私が信じるのは――」


『――ボクを信仰したまえ』


「私は、九郎さんを信じる!」


 鬼気迫る啓介の叫びが、堂内にこだまする。老人はそれを冷めた目で見ていたが、周囲を満たす静寂が彼に違和感を気付かせた。

 目の前で大声を出されたにもかかわらず、座敷の女達が騒ぎ出さないのだ。


「……よく言った、啓介くん。それでこそボクの信者だよ」


 開いた襖の隙間に、いつの間にか九郎が立っていた。その両手に二振りの刀を下げて。


「な……誰じゃお前は」

「啓介くんの神サマさ。君も信じてみるかい?」


 九郎は刀を逆手に持ち替えると、切っ先を自分の腹へと向ける。彼女の能力など知る由もない老人はその行動に血相を変える。


「ばっ……馬鹿な事をするでない! 刀で刺した所で、神を殺す事などできぬぞ!」

「ご老人。であれば神を殺すのは、一体何だと思うかね? 聖なる槍だろうか? それとも不死さえ殺し尽くす、毒竜の血が塗られた矢じりだろうか?」

「何を言っておる……? 気でも触れたか!」


 九郎が刀を握る両手を重ねると、二本あった筈の刀剣はいつの間にか一本の刀身へと変化していた。その刃は先程までの漆黒から一変し、不吉な輝きを帯びた青に染まる。


「答えは――新たな神の誕生だよ。父なる神であったクロノスも、母なる神であったティアマトも、新たに生まれた自身の子たる神によって殺された。それは新たに生まれた信仰によって、旧い信仰が廃れて形骸化していく歴史の比喩メタファーだ。拝火教の女神であったアナヒタが、仏教の一部として習合されたようにね」


 九郎の背中からは黒い翼が開き、一帯に羽根をばら撒く。すると空中に、幾つもの顔が現れ始めた。老人はそれが、周囲の女達のものであると気付く。彼女等は九郎に向かって、一心に祈りを捧げているように静かであった。


「さあ、愛し合おうか異教の神よ。ボクの臓腑を暴いた先で、君の死体が見てみたいよ」


 その軌跡に一瞬の躊躇いも無く、九郎は自分の腹へと刀を突き刺した。同時に、胎内から聞き覚えのある金切り声で絶叫が響き渡る。間違いなく、あの忌まわしき神のものだ。


「く……苦しんでる……?」


 目の前で起こる奇跡に、啓介も驚きを禁じ得ない。それでも疑いの気持ちは微塵も起こらなかった。

 九郎が腹の中で刃を捩って脇腹から抜くと、触手の根元に在った眼球を刃に貫かれた神が縮んだ姿で体外へと引き摺り出される。彼女は流れるような太刀捌きでその矮躯を宙に舞わせると、下から上への縦一文字に切り裂いた。

 山中の大気に神だったものの断末魔が響き渡り、無数の魂が天へと昇っていく。それはかつてかの怪物に魂を奪われ、既に肉体の朽ち果てた哀れな犠牲者達のものだろう。

 しかして四つの魂だけは、自身の肉体へと吸いまれていったのである。呻くばかりだった肉体はぴたりと静かになりその瞳に生気が戻る。

 彼女達は互いに顔を見合わすと、名前も知らぬであろう隣人達と涙を流して抱き合い始めた。


「こんな事が……! 人の身で、神を殺してしまいおった……!」


 老人は直ぐに、吐いた言葉を飲み込む。


「あるいは……既に人ではないのか?」

「どうだろう。今晩は寿司が食べたい気分だけどね」

「……ふん。まあいいわい。用が済んだのならさっさと去れ。その女達も連れてな」


 九郎は老人に会釈をすると、女性達に麓まで送り届ける事を伝える。そうして異邦人達が寺から去っていく刹那、四人の女達は老人に向かって頭を下げた。


「助けて下さってありがとうございました! この恩は一生忘れません!」

「……わしは何もしとらん。二度とこの場所へは近付くな。ええな」


 老人はそれ以上取り合わず、一人で寺の奥へと引っ込んでいく。その時、足を包む足袋にぽたりと水滴が落ちた。


「……何じゃ、雨でも降ってきたか?」


 空は晴天。不思議に感じる老人がふと頬に熱を感じて指先で触れてみると、いつの間にか流れていた涙で覆われていたのだと知る。


「ああ……そうか」


 涙の理由は、既に心の内で理解していた。


「わしのやってきた事は……無駄じゃなかったんだな」



 時は過ぎて、夕方頃。啓介と九郎は、新代町の住宅地に建つ個人経営の寿司屋に来ていた。九郎お気に入りの店で、地元では知る人ぞ知る穴場の名店である。

 還暦過ぎの無口な大将が寿司を握る前で、二人はお任せの握りと刺身盛りを肴にビールのジョッキを傾ける。

 赤酢のシャリと大将の目利きで仕入れる日替わりオンリーのメニューが有名で、注文に迷う必要が無いからと会話を楽しみたい客に人気の店だという。

 九郎は好みのネタであるイワシの握りが出てきた事に機嫌を良くしながらも、時折胸の辺りを押さえていた。

 その仕草が啓介は妙に気になってしまう。


「九郎さん、お身体の方は大丈夫なんですか?」

「……いやあ、それが少し困った事になってね」

「まだ痛むようなら、病院に行った方が良いですよ」

「それがその……痛むとかではなくてだね。霊障の後遺症なのか、乳房の感度が尋常でなく上がってしまったみたいなのだよ。特に乳腺が酷くてね。母乳が出るだけでイクようになってしまった」


 そう言いながら、彼女はびくんっと身体を一瞬震わせる。


「……ね?」

「へ!? 今、え!?」

「ねえ啓介くん、そのイワシもらっていーい? ボクのサーモンと交換しよ!」


 隣ではしゃぐ女神の笑顔が可愛らしくて、彼女の信者として少し誇らしい気持ちになる啓介であった。

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