第10話 日本のアマゾンを目指して④

 一部始終を目撃した啓介は、恐怖から来る全身の震えで半ば痙攣に近い状態になりながらも、その場から離れたい一心で後退りしていく。常識で考えればカエデは命に関わる程の重傷を負っている筈だが、彼女の為に助けを呼ぶ勇気さえ今の啓介には残っていなかった。

 命辛々で九郎の眠る部屋に戻ってきた啓介は、そのまま気絶するように眠りへと落ちた。


 夜が明けると、襖を開けてククが二人を起こしにやってくる。


「おはようございます、お二方。朝食の準備ができておりますよ」


 その声に啓介が飛び起きると、横では九郎がパソコンを開いて既に仕事に取り掛かっているところだった。


「ありがとうございます。着替えが済んだら、直ぐに向かいますので」

「今日は森の調査に行かれるのでしたね。この辺りには凶暴な獣はおりませんが、山道が無いせいで遭難しやすくなっております。くれぐれも、お気を付けくださいませ」


 ククがお辞儀をして去っていったのを見送ると、九郎は啓介の顔をじっと見つめる。


「……悪い夢でも見たのかね。随分とうなされていたよ」

「夢……あれは夢だったんでしょうか。それならばいいんですが」

「何かを見たのだね。是非聞かせてくれたまえ」


 啓介は昨晩目にした光景を、可能な限り鮮明に思い出して九郎に伝えた。


「成程……やはりあの蝦蟇人間がニグシ様――つまりは肉芝仙で、ニグシモというのは肉芝仙によって卵を産み付けられた女性を指していたのだね」

「カエデさんは無事なんでしょうか。あれだけの絶叫を聞いても誰一人助けにこなかったり、さっきのククさんが何事も無かったかのように振る舞っているのを見ると、自分だけが幻を見たんじゃないかって気分になります」

「実際ボクも、そんな悲鳴を聞いてはいない。だが君の体験とこの現状は矛盾しないよ。カエデが襲われたのが神の領域だったのだとしたら、誰も気付けないのは当然だ」


 啓介がスーツに着替え終わると、二人は食堂へと下りていく。既に朝食を終えたのか女達の姿は見当たらず、二人分の食事だけが用意されていた。席に着いて黙々と食べ進める九郎に対し、昨晩の光景が脳裏から離れない啓介の食指は重い。

 食事を終えると、朝早くから九郎達は河に向かって出発した。先ずは啓介の体験を裏付けする為に、カエデの家へと寄っていく。

 中を覗き込むと、そこに彼女の姿は無かった。代わりに二人の娘達が、母親のいなくなった大座敷で留守番をしている。


「おーい! お母さんは何処に行ったのかなー?」


 九郎が声を掛けると、娘達は無邪気に河の方を指で示す。


「かあぢゃんなら、にわだっでいっだだよ。ニグシモ様になりに行ぐだ」

「ありがとう。良い子にして待っていたまえ!」


 二人は河の境界線へと足を踏み入れる。


「あのククという女は、一つ勘違いをしている。ボク達が調査するのは、森ではなくその奥に隠された神の世界なのだよ」

「娘のいる母親を生贄にするだなんて、許せません。カエデさんを連れ戻さないと!」


 河を越えると同時に、視界に一瞬ノイズが奔る。周囲の景色に変化は無いが、二人は神の世界へと足を踏み入れたのだろう。その根拠に、奥の森からは不気味な蝦蟇の鳴き声が絶えず響き渡っていた。


「この鳴き声の数……あんな化け物が何体もいるって事ですよね」

「彼らはこの場所を使って何世代にも渡って女達を養殖し、苗床として使って数を増やしてきたのだろうね。この集落は言わば、人間牧場だったという訳だ」


 森の方をよく見ると、その入り口に人の姿が見える。乱れた白い髪に、上半身をはだけて半裸になった女。啓介の話と符合するに、カエデに間違い無いだろう。


「追うよ。彼女の向かう先に、この村の真相へと繋がる手掛かりが有る筈だ」

「九郎さん。念の為、姿を消していきましょう」


 九郎の能力で周囲の景色に溶け込んだ二人は、なるべく音を立てないようにしてカエデの消えた森の中へと入っていく。彼女は枝葉を掻き分けながら、ふら付いた足取りでゆっくりと歩いており、見失う心配は無さそうだった。

 そのまま数十分間道無き山の中を登っていくと、九郎達は森の中で開けた空間に出てくる。それは不知ず森神社のように人為的に手入れされた空間かと思われたが、その正体は直ぐに分かった。空間の中央には、巨大な滝が流れ落ちていたのである。

 そして周囲の樹木には、無数の肉芝仙達がしがみついて、讃美歌でも歌うように不気味な合唱を周囲に響かせているのだった。

 九郎達は動けない。それは死を意味するからだ。

 カエデは滝壺の中へ歩いていくと、臍の辺りまで水に浸かった辺りでくるりと反転し、丁度九郎達と向き合う形になる。当然カエデには二人の姿は見えていない筈だが、それでもにたにたと不気味に笑う顔は、今の自分の姿を観衆達に誇示しているかのように見えた。

 そして遂に、彼女の待ち望んだ瞬間が訪れる。左の乳房が突然ぼこぼこと蠢き始めたかと思うと、肥大化した乳首が開いて、その奥から漆黒の胎児が顔を出した。カエデは痛みに絶叫しながらも、恍惚とした表情でだらしなく舌を垂らし、身体を大きく仰け反らせる。乳首は裂けんばかりに拡張され、粘液に塗れた巨大なおたまじゃくしがずるんとひり出されて、足元の水へと産み落とされる。

 胎児の顔を持つおたまじゃくしは計七匹が誕生し、出産を終えたカエデの乳房は綺麗に萎んで、肥大化しきった乳首のみが残されていた。

 気が狂ったように目の焦点が合わないカエデの下へ、生み落とされた子供達は殺到する。そして彼女の身体中に、鋭い牙で食らいついた。性的興奮に勃起した乳首からどくどくと母乳を垂れ流す右の乳房や、引き締まって美しい腹もただの食肉として引き裂かれて内臓を飛び出させ、噴き出した鮮血が彼女の白い髪を赤く染めていく。するとカエデは、痛みを感じていないかのような夢心地で歌い始めた。


 白ぎ乳っごは しろまんま ひどの子の飲む 骨の芝

 あがぎ乳っごは あかまんま 神の仔の飲む 肉の芝

 あがぐ染まりしおらが芝 神の腹まで とどげやとどげ


 短い歌を歌い終えると同時にカエデはぐらりと傾いて水面に崩れ落ち、そのまま水飛沫を上げて群がるおたまじゃくし達にしゃぶられて、二度と起き上がる事はなかった。

 あまりに壮絶な光景に、啓介は言葉を失う。最も恐ろしかったのは、彼女があまりにも幸せそうに死んでいった事だった。まるでそれこそが、人間にとって一番の幸福であるかのように。

 その光景を九郎は、今までに見せた事のない程に目元へ不機嫌を滲ませて睨んでいた。カエデの最期は、九郎にとって死の冒涜として映ったのかもしれない。

 黙ってその場を去る九郎の後ろを、啓介は逃げるように付いていくしかなかった。帰る道すがらで、彼は自身の自惚れを思い知る。

 一体何時から、自分は誰かを救える程の存在になったというのか。ましてや神に抗うなどと、思い上がりも甚だしい。啓介にできる事など、神の戯れが自分に向かないよう、震えながら祈る程度しかないというのに。

 河の境界を再び越えると、視界が乱れて二人は元の世界へと帰ってくる。すると偶然にも、カエデの娘達が河の畔で遊んでいた。啓介はつい、彼女らに声を掛けてしまう。


「ごめん……君達のお母さん、連れ戻せなかったよ」


 娘達は一瞬不思議そうに目を丸くして、互いに顔を見合わせる。


「そんなの、あだり前だべな。かあぢゃんは天園あまぞのに行っだだよ。帰っできだら困るだべ」

「おらたぢもいづが、かあぢゃんみだいに立派なニグシモ様になるだよ。べな!」


 彼女達は、自分の母親が死んだ事を既に知っているのかもしれない。そう思った途端、啓介にはそれ以上まともな会話ができる気がせず、そそくさと逃げるようにその場を去る。

 先に村の出口へと向かっていた九郎の前には、ククが待ち構えていた。


「森の調査は済んだのですね。どうです。川に穢れなど無かったでしょう?」

「……そうやって閉じた試験管の中で、いつまでも混ざっているといい。繕おうともしない嘘程、見苦しいものはないよ」

「二度と訪れる気は無さそうで何よりです。ですが貴女も天園へ行きたくなれば、いつでも戻ってきてくださって結構ですよ。……貴女の乳房であれば、きっと良い仔が産めるでしょうから」


 ククの横を通り過ぎていく九郎に続いて去ろうとする啓介に、ククは一瞥もくれなかった。彼女にしてみれば、彼などいないも同然だったのだろう。

 沈黙のまま車が駐めてある場所へと二人が歩いていくと、前から一人の人物が歩いてくる。ダウンコートとジーンズに身を包んだ女性で、村の人間ではなさそうだった。彼女は九郎達に軽く会釈をすると、そのまま言葉を交わさずにすれ違っていく。

 女が村の敷地に足を踏み入れると、そこにはまるで彼女の来訪を予感していたかのように、ククが待っていた。

 黙りこくっている訪問者へククは近付いていくと、コートのファスナーを開ける。その奥から覗いたのは、カエデに勝るとも劣らない歪な大きさの下品な乳房と、美しく引き締まった身体であった。

 ククがそのまま指先で女の大きな乳首を愛撫すると、白い母乳が染み出してくる。甘い声で喘ぐ女の母乳を、ククは舌で舐め取って唾液の糸を引いた。


「お久しぶりです。カワズの家の。……素晴らしい母体に育てましたね。天園のお母様も、きっとお喜びでしょう」

「お、俺……私を、次のニグシモ様にしてください。今日までずっと、この日の為に生きてきたんです……!」

「勿論ですよ。今晩にでも、貴女をニグシ様にお捧げするとしましょう。きっと良い仔が産めるでしょうから」


 女だけの村へ凸したという探索班からの続報は絶え、その日を境に大師もまた、二度とチャネルへの書き込みを行う事は無かった。その後チャネルの勢いは落ち、いつの間にか電網の奥へと消えていった。

 真実を知るのは、天園へと向かった母親達のみか。はたまた彼女らも、何一つ知らぬままに捧げられただけなのかもしれない。その魂が彼女達の願ったように安らかである事を、祈るばかりだ。

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