第8話 日本のアマゾンを目指して②


 天園村を目指し、九郎の運転する黒の軽自動車が江戸川の橋を渡っていく。助手席の啓介は車窓の景色を眺めながら、少し懐かしい気分に浸っていた。


「不知ず森神社の一件を思い出しますね」

「ああ、そういえば言っていなかったかね。今回の調査は、不知ず森神社での怪異にも関係しているとボクは睨んでいるのだよ」

「え、そうなんですか?」

「件の泥人形。あれは〈土蜘蛛〉と呼ばれる呪術の一種でね。平たく言えば和製の死霊使役術ネクロマンスなのだが、日本のオカルト界隈では、その来歴がかなり有名なのだよ」

「私も名前ぐらいは記憶に有ります。歌舞伎か何かの演目でしたっけ」


 啓介は中学生の時分に、学校の行事で鑑賞した思い出が有る。当時はよく分からなくて、退屈な劇だとしか思えなかったが。


「正しくは能だ。源頼朝みなもとのよりとも公に呪いを掛けて苦しめていた土蜘蛛の精を、源氏の武者達が退治しに向かう演目だね。この演目で表現されているように、土蜘蛛というのは源氏や朝廷に仇為すものの象徴なのだよ。そして源氏の敵といえば、何が思い浮かぶかね?」

「やっぱり……平氏でしょうか」


 源平合戦に代表される、両氏の血で血を洗う確執と争いの歴史は、日本国民の間で広く知られるところであろう。


「いかにも。ボクはそこに目を付けて、ここしばらくの間ずっと、平氏に関する情報を集めていたのだよ」

「あ……あの本はそういう事だったんですね。しかし何故、平氏と天園村に関係があると?」

「村中に有るという、蛙の置き物だよ。平氏と呪術の繋がりを語る上で外せないのは、〈日本三大怨霊〉の一つとされる平将門たいらのまさかど公だ。そして蛙……特に蝦蟇ガマは、彼と縁が深い存在とされていてね」


 平将門は啓介も名前程度なら知っているが、蝦蟇との繋がりは初耳だ。


「東京都内に今も残る〈平将門の首塚〉には、蝦蟇の置き物が幾つも寄贈されている。これは朝廷軍に殺されて京都で晒し首にされた将門公の首が、怨霊となって東京の地まで飛んで帰ったカエル事に端を発する風習でね。行方不明になった子供が無事に戻ってくるよう祈願したり、事件や事故から生きて帰れた事を感謝して、将門公に奉納されるようになったのだよ」

「へえ……日本三大怨霊なんて呼ばれる割には、人間に敬われる存在なんですね」

「前にも言っただろう。日本の上位存在は、善悪の二面性を併せ持つと。怨霊として恐れられる存在も、きちんと供養して敬えば人々を守護する神となるのだよ。今や将門公は、日本の霊的守護の根幹を成す存在だからね」


 九郎によるオカルティックな講義や、エロティシズムを煮詰めたような体験談を聞いているうちに、車は深い森へと続く山奥の道路へと吸い込まれていく。辺りからは人や車の往来が消え、とあるトンネルを境に道路さえも、アスファルトで舗装されていない砂利道へと変わった。


「この先に、本当に村なんて在るんですか……? 森の中って感じですけど……」

「村とはいえど、正確には日本の基礎自治体として登録されていない集落だ。集団生活を営む、宗教団体の施設みたいなものさ。誤解を恐れずに言えば、橋の下に住むホームレスと変わらないのだよ」

「な、成程……」

「この辺りはとある地主の私有地でね。彼女らと地主との繋がりは不明だが、住まわせてもらっているのか、勝手に住みついているのだろうね。無論ボク達も、不法侵入という事になる」

「またさらっと法を破りますね……」

「お互い様だよ。向こうも強くは言えないさ」


 ある程度奥まで進んだ所で、九郎は適当な道端に車を停めると、そのまま乗り捨てて歩き始める。


「ちょっと九郎さん。車放置する気ですか?」

「駄目かね?」

「こんな場所に停めてたら、盗まれたり荒らされますよ。せめて何処かに隠すとか——」

「じゃ、そうしよう」


 九郎がふっと口から黒い羽根を吹くと、車を覆い尽くして透明に変える。


「やっぱり便利だねぇ、ボクの【解読不能の愛ブラック・チェンバー】」


 車から降りてどのぐらい歩くのだろうと不安に思っていた啓介だが、十分程で突然視界が開ける。そこには山の麓の窪地に作られた、小さな集落が広がっていた。

 畑らしいものは無く、藁葺き屋根の粗末な家だけが点々と並んでいる。家屋には扉どころか壁さえも碌に存在せず、遠くからでも家の中がよく見えた。


「……おやおや。これはとんだ桃源郷だね」


 家の中には長い黒髪の女が白い着物一枚で、右の乳房を丸出しにして少女に乳をやっている。遮る物が無いせいで、まるで見てくれと言わんばかりの異様な光景だ。


「九郎さん……此処に入っていくのは流石にまずくないですか。騒ぎになりますよ」

「そうだね。何か方法を——」


「何しでるだ?」


 背後からの声に、啓介の肩がびくんと大きく跳ねる。


「おめら、こごのもんじゃねーな?」


 濁点で濁った部分に強いアクセントを付ける、独特な話し方だ。

 後ろに立っていたのは、黒い髪を後頭部で団子にし、白い手拭いを頭に巻いた壮年初期と見られる女だった。そばかすと、少し荒れてざらついた肌が服の隙間から覗いている。


「ああ、実はは東京の役所の人間でして。此方の地域の調査に伺っているんですよ」


 九郎は繕った丁寧な口調で、身も蓋も無い適当な嘘を吐く。


「とうぎょうのおやぐにんさんが、こんな辺鄙なとごろに何の用だ?」

「水質調査でお伺いしているんです。此方を流れている河の下流で、有害な物質が検知されたものでして。その原因を調べているんですよ」

「ってえど、水が汚れでるってこどだが? それは困るべな。おらだぢも、この河の水を飲んでるだよ」

「調査して、もし河が汚れているようなら、洗浄する事も可能です。しばらくの間、此処に滞在させてはいただけませんか?」

「そしだら、。大しだ物はねーげど、ねどまりしでいげ」


おそらくは、家に上げてくれるのだろう。


「ありがとうございます。失礼ですが、お名前をお聞きしても?」

「カエデだ。うぢの娘もカエデだげどな」


 カエデに付いて村を歩いていくと、チャネル内で語られていたような光景が見えてくる。村の至る所に、蝦蟇の置き物が置いてあるのだ。その多さときたら、路傍の石よりも蝦蟇の方が多いと確信できる程である。

 カエデの家は、村の中央を流れる河のそばにあった。母親が帰ってくると、中学生辺りに見える二人の娘が外まで出迎えに来る。


「かあぢゃん、おけーり!」

「後ろのひどだぢ誰だ?」

「とうぎょうって、大ぎな国がら来だ、おやぐにんさんだべ。しごどの邪魔しないようにするだぞ」


 カエデは娘達を奥の部屋に行かせると、「付いでごい」と九郎達に手招きする。彼女は襖で仕切られた小さな部屋に、二人を案内した。


「こごをつがえ。部屋だべな」

「ありがとうございます。少し休んだら、直ぐ調査に向かいますので」

「気にするな。ゆっぐりしでいげばいいだよ」


 カエデが廊下へ去っていくのを見送ると、九郎と啓介はようやく一心地つく。


「……思ったよりすんなりと受け入れてくれましたね」

「特に閉鎖的な社会でもないようだ。東京の事も知っている風だったし、ボク達の言葉も理解していたね」

「言葉……もの凄い訛り方でしたね。意味は何となく分かりましたけど、少し聞き取り辛かったです」

「千葉の方言とも少し違うし、この地域特有の方言かもしれない。ま、取り敢えずは協力的な人物を味方に付けれて助かったよ」

「そうですね。私、少しお手洗いを借りてきます」


 啓介は襖の個室から廊下に出て、トイレを探す。まだ行っていない方へ歩いてみたが、それらしい部屋は見つからなかった。


「参ったな……」


 カエデに場所を聞こうと、啓介はリビングと思しき部屋へ向かってみる。

 するとそこには、着物の上半身をはだけて乳房を丸出しにし、二人の娘に母乳を与えている彼女が座っていた。カエデの乳房は垂れて長く伸びながらも異常に肥大化しており、大きさだけなら九郎にも負けていない。またCDより大きな褐色の乳輪は、乳房から飛び出て生々しいぶつぶつに覆われている。

 カエデは啓介に見られているのに気付きながらも、全く動じる様子は無い。彼女はお世辞にも美人と呼べる器量ではないが、母親として子に乳をやる姿は何とも言えぬ神秘的な美しさがあった。


「あれ、とうぎょうのひど。どうしだだ?」

「あ、その……お手洗いをお借りしたくて」

「便所なら、あっぢのろうがを進んで右おぐだべな」

「す、すみません。ありがとうございます……!」


 そこから九郎の待つ部屋に戻ってくるまで、啓介は半ば放心状態であった。戻った彼に、九郎は開口一番切り出す。


「啓介くん。彼女の乳房を見たかね?」

「え⁉︎ い、いや。あれは不可抗力で……!」

「あれはおそらく、巨乳症だ。娘達の発育は普通だっただろう」

「い、言われてみれば……ですがそれが何か?」

「カエデの娘達は、それなりの年齢だ。にも関わらず、いまだに母乳を与えられている点に加えて、カエデや他の大人達に見られる乳房の異常な発達……ボクは何か人外の力が働いていると見ているのだよ」

「主人の要望、ってやつですか」

「いかにも。その手掛かりを得る為に、外を調べてみよう」


 九郎と啓介は、河に面している家の裏手へと向かう。河の幅はかなり広く、深さも膝の下辺りまではあるだろう。向こう岸には一軒も家が建っておらず、河原の向こうには暗く深い森が続いている。


「この河……どうも一種の境界線になっているように感じるね」

「下手に踏み込むと、戻ってこられない可能性が……?」

「どうだろう。その割には、村人が河に対して恐れを抱いている感じがしない。むしろ怪異の方が、人間を拒んでいるような気さえするよ。単なる妄想だけどね」


 その時。啓介は妙なノイズを向こう岸に感じる。彼の霊的聴覚が、何かくぐもった鳴き声のようなものを検知した。

 咄嗟に森の方を見ると、そこに何か人影のような形が見える。


「……九郎さん、あれ」

「ん。何だね?」

「森の方に何かがいます。……あ、出てきた」


 人型の物体は、草の奥から出て此方に近づいてくる。九郎もその存在に気付いた。


「九郎さん、こっちに来ますよ……!」

「……まずい。隠れよう」


 啓介の恐怖に黒い羽根が呼応し、二人の姿を景色と同化させる。絶好の位置から観察を行える二人は、森から出てきた存在の全容を対岸越しに把握できた。

 それは遠目に見れば、全裸の太った男だ。奇妙なのは、身体に体毛が一本たりとも無い事。剃っているのではなく、毛穴そのものが無いのだと感じさせる程に、つるつるとした肌。代わりにその表皮には、グロテスクなぶつぶつが沸いている。

 顔は人間のものだが、赤ん坊が人相を変えずに歳をとったような不気味な風貌をしており、常に目を細めて布袋様のような笑みを浮かべていた。

 そして最も不気味なのはその下半身だ。でっぷりと太った腹の下には生殖器が無く、脚は太ももが異様に発達して、筋肉質になっている。また足の裏の骨が太ももや脛と同等の長さになっており、足の指も手のように長く発達しているのだ。

 この全容は、まさしく〈蝦蟇人間〉と呼ぶに相応しい。

 蝦蟇人間は九郎達に全く気付いておらず、初めからカエデの家を目指していたようだった。そしてまだ娘に授乳している彼女の姿を、じっと見つめている。カエデには蝦蟇人間の姿が見えていないのか、異形の存在を前にしても全く気にしている様子は無い。

 そして蝦蟇人間は不意に喉を大きく膨らませると、蝦蟇の鳴き声と人間のダミ声が混ざったような不快な音を撒き散らして、のそのそと森の奥へ帰っていった。


「く、九郎さん……!」

「いきなりビンゴだ。あの蝦蟇の怪物がこの村で信仰されている神の正体だろうね。これは、あの森を調べる必要が出てきたよ」

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