第16話 姉ちゃんと再戦の日
日曜日。つまり、姉ちゃんと由梨江さんの再戦の日。
その日は雲一つない快晴で、絶好の行楽日和となった。
そんな晴れ晴れとした陽気の下、僕は市内でも比較的大きい自然公園の中で、レジェンドさんと由梨江さんの三人で、姉ちゃんが訪れるのを今か今かと待っていた。
周囲に僕ら以外の人影は見当たらない。ここは自然公園の中でも人気のないスポットなので、あまり人が寄り付かないのだ。基本芝生か、少し離れた場所に木々があるだけで、他になんにも無いしな……。
しかしながら、今からここで行われる勝負のことを考えたら、逆に好都合とも言える。ガチのケンカなんて他人に見られでもしたら、絶対通報されるだろうし。
「そろそろ時間か……」
右手に着けた腕時計を見ながら、隣りに立つレジェンドさんが重々しく呟く。
つられるように僕もスマホを取り出して、待ち受け画面に表示されているデジタル時計を見た。
時刻は午前九時五十七分。約束の時間は十時からなので。あと三分足らずしかない。
だと言うのに、一向に姉ちゃんが現れる気配はない。さっきから何度も電話をかけているけれど、無機質なコール音が鳴り続けるだけで全然連絡が取れなかった。
昨日まで姉ちゃんと一緒に修行をしていたレジェンドさんの話では、ちょっと用事を済ましてからこちらに向かうと言っていたみたいだけど、もしかしてその用事とやらで手間取っているのだろうか。
おいおい、元から時間にルーズな方ではあったけれど、まさかこんな大事な時まで遅れてくるつもりじゃないだろうな? 僕の命運がかかっているというのに、冗談じゃないぞ。
「ったく、どこほっつき歩いているんだよ、姉ちゃん……」
「あらあら。まだ連絡がつきませんの?」
そう溜め息混じりに言って、由梨江さんは僕の眼前で暇を持て余すように日傘を回した。
「困った方ですわね。向こうから再戦を申し込んできましたのに、その当の本人が連絡の一つも無しに行方知れずだなんて。まあこちらとしては、このままわたくしの不戦勝ということでも構わないのですけれど。無駄な体力を使わなくて済みますし」
「まだ来ないと決まったわけじゃあ……」
思わず反論しようとして口が出たが、結局僕はそのまま言葉を呑み込んだ。
今になってもまだ姿を現わさないのだ──このまま姉ちゃんが来なかったら、本当に不戦勝ということにせざるをえなくなる可能性もある。由梨江さんの言うことはもっともだ。
対戦相手がいない以上、勝負なんて成り立つはずがないのだから。
「あるいは、わたくしとの勝負を前にして逃げ出したのかもしれませんわね。前回あれだけみっともない負け方をしたら、無理もありませんわ」
「………………っ」
嘲笑を含んだ由梨江さんの言葉に、僕はなにも言い返せず歯噛みした。
姉ちゃんに限って、そんなことはありえないと断言したいところではあるが、今の僕に真実を知る術はない。
信じたくはないけれど、本当に由梨江さんとの勝負に臆して逃げ出してしまったのだろうか?
今までの努力すら棒に振って、このまま来ないつもりなのだろうか……?
いや、この際姉ちゃんの努力なんて知ったことじゃないけど、勝手に僕を巻き込んでおいて逃げ出すだなんて絶対に許さんぞ! 絶対にだ!
どうする? 由梨江さんに無理を言ってでも勝負の時間を伸ばしてもらうか?
ああでも、由梨江さんにしてみれば戦わずして勝利できるまたとない機会だし、了承してくれるとは思えない。本当にどうしよう~!
「大丈夫さ、湖太郎くん」
と、内心狼狽しまくる僕に、レジェンドさんが穏やかな口調でそう声をかけてきた。
「なにも心配する必要はない。早絵なら必ず来るよ。メロスを助けに行くイノケンティウスのようにね」
「逆ですよメロス」
あと、イノケンティウスじゃなくてセリヌンティウスだ。
どうしてこの人は、こうも肝心な時にポンコツなのだろう……。
けれど、レジェンドさんなりに勇気付けてくれているとわかって、僕はいくらか平静を取り戻した。
そうだよな。我が家の恥とも言っていい存在である我が姉ではあるけれど、だれかとケンカする時は決して怯んだりはしなかった。どんな相手でも、勇猛果敢(たまに無謀とも言える場面もあったけど)に突っ込んでいった。
そんな姉ちゃんが……だれよりも釘宮病を自負している姉ちゃんが、釘宮病をバカにされたまま、おとなしく引き下がるはずがない!
「ほら、噂をすればなんとやらだ」
「えっ──?」
姉ちゃんを信じて待とうと決意したその時、レジェンドさんがとある方向を指差したのを見て、僕は慌ててその指の先を視線で辿る。
すると、そこには──
「ふはははははははははっ! 私、参上!」
とある木の枝──そこで姉ちゃんが偉そうに腕を組んで仁王立ちしながら、哄笑と共に僕らを見下ろしていた。
「姉ちゃん⁉ いつの間にそんなところに⁉ いやいや、それよりもまずは──」
予想もしていなかったところからの登場に、思わず目を剝いて驚いてしまう僕。
本当になんでそんなところにいるんだとか、そんなところに上っている暇があるならとっとこっちに来いよとか、それ以前に今まで一体なにしていたんだよとか、色々問い詰めたいところではあるけれど、その前にこれだけは訊いておかないといけないことがある。それは──
「その妙な格好はなに⁉」
休日なのに学校の制服を着ている時点ですでにおかしくはあるのだが、それすら霞んでしまうほど、姉ちゃんの姿が奇抜だったのだ。
なにを血迷ったのか、どこぞの王様みたく赤いマントを羽織っていたのだ。
そしてこちらも意味不明なのだが、なぜか片手にタコスを持って。
「おっ。良い質問をするじゃないか湖太郎。これは負けられない戦いを前にした女の勝負服だよ。このマントを探すのに、結構苦労したんだぜ? ほら、マントを売っている店なんてなかなかないし」
「知らんがな! つーか、今までそんなことしてたのかよ⁉」
しかも、ちゃっかりタコスとか買っていやがるし。連絡の一つも寄越さないから、こちとらなにかあったのかとずっと心配していたのに!
「よし殴る。今からお前を殴る。姉ちゃんが泣くまで、殴るのをやめないっ!」
「お、落ち着きたまえ湖太郎くん。どうどう」
レジェンドさんに諫められ、僕はしぶしぶ拳を収める。
ちっ。レジェンドさんに免じて、今回は殴らないでおこう。けど、あとで長々と説教だ。
「それに見たまえ、あの早絵の姿を。見事に釘宮を体現しているではないか……!」
「く、釘宮を体現している……?」
言っている意味がまるでわからなかった。
「安心するといい、湖太郎くん。今の早絵は以前の二倍、いや五倍は強くなっている。釘宮力でいうなら、十万近くはあるだろう」
「十万とか言われても……。そもそも、基準がよくわかりませんし……」
「釘宮さんの声に初めて惹かれた者なら五。私なら五十三万といったところだね」
「どんだけ釘宮さんに心酔しているんですかあんたら」
どういったものなのかは未だに判然としないけど、釘宮さんのことがよっぽど好きなんだなというのだけはよくわかった。
意訳すると、すごくどうでもいい。
「あっはっは! どうだ湖太郎。痺れるだろ? 憧れるだろ~?」
「全然まったく痺れも憧れもしないし、むしろ今すぐくたばれとすら思っているよ」
「え、なんでお前そんなキレてんの? コロシアム不足なの?」
それを言うならカルシウムだ。逆になんで怒っている理由がわからないのか、こっちが訊きたいくらいである。
「もういいからさっさと下りてきなよ。みんな待っているんだからさ」
由梨江さんなんて、さっきからずっと退屈そうにスマホいじってんぞ。見ていて気まずいったらない。
「やれやれ。忙しない奴だな」
そう呆れたように肩を竦めたのち──文句を言ってやりたいところだが、ここはぐっと我慢の子だ──姉ちゃんは一切の躊躇なく、アパート二階建て分はありそうな木の高さから飛び降り、華麗に着地してみせた。
そして背に羽織ったマントを靡かせながら、姉ちゃんは勝気に微笑んで、
「待たせたな、ゴスロリ。この日が来るのを楽しみにもしゅもしゅ」
「いや、喋りながらタコス食うなよ!」
ここ重要! 結構重要なシーンだから!
タコスとか食っている場合じゃないから!
「もしゅもしゅごっくん。改めて、お前を倒すこの日を楽しみに待っていたぜ!」
今度こそタコスを食べ終えて、姉ちゃんは勢いよく由梨江さんを指して気炎を吐く。
「わたくしとしては、あなたとの勝負なんて面倒にしか思っていないのですけれどね」
やれやれ、と由梨江さんは気怠げにスマホをポケットに仕舞いつつ、淡泊に先を続ける。
「ですが、これも湖太郎さんを手に入れるためと思えば、致し方ありませんわね」
バチコーン☆ と僕に向けてウインクをする由梨江さん。
由梨江さんは本当にブレないなあ。少しくらいブレても罰は当たらないだろうに……。
「さて、時間になりましたし、さっさと始めましょうか。これ以上、あなたと無駄な時間を過ごしたくありませんから」
言いつつ、由梨江さんは開いていた日傘を畳み、近くにあった木に立てかけた。
対する姉ちゃんも、羽織っていた赤マントを豪快に脱ぎ捨てて、
「へっ。すぐにそんな舐めた口を叩けなくなるようにしてやんよ!」
と、威勢よく言い放った。
「いよいよだね……」
隣りに立つレジェンドさんが、興奮を抑えたような吐息混じりの声で僕に話しかける。
あるいは、単なる独り言だったのかもしれない。それでも僕は、つられるようにごくりと生唾を嚥下し、
「そう、ですね……」
と重々しく頷いた。
そうこうしている内に、姉ちゃんと由梨江さんは互いを見据えながら、それぞれ構えを取り始めた。
ついに始まる。姉ちゃんと由梨江さんの再戦が。
僕の命運がかかった、一瞬も見逃さない勝負が。
「かかってきなさい。この釘宮病が」
「上等だ。この堀江病がっ!」
そうして、戦いの幕は切って落とされた。
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