第9話 姉ちゃんと由梨江さんは水と油の関係


 よく見るとそれは、由梨江さんが姉ちゃんに手渡したマスタードだった。その中身が勢いよく由梨江さんのドレスに命中したのだ。

「きゃっ! な、なんてことをするんですのよ! このアフロっ!」

 これには由梨江さんも我慢ならなかったのか、僕から手を放して、マスタードをかけてきた張本人──姉ちゃんの方を向いて怒りを露わにした。

「やーい! やっとこっちを向いたな、このゴス痴女め!」

 凄む由梨江さんに、姉ちゃんが舌を出して憎まれ口を叩く。

 単にシカトされた意趣返しをしただけだと思うけれど、なんであれ、姉ちゃんのおかげでどうにか助かった……。

「わたしを無視するからそうなるんだ。ざまあ! マジざまあ~!」

「くっ。なんて品のない方。これだから釘宮病患者は下品で嫌いなんですわ……」

 ドレスに付いたマスタードをハンカチで拭きながら、由梨江さんは吐き捨てるように言う。

 ていうか、あれ? 今さっき由梨江さん、釘宮病って言わなかったか?

「由梨江さん、釘宮病を知っているんですか?」

「当然ですわ。アニメオタクなら知らない方はおりませんもの」

 え、釘宮病ってそんな認知度の高いものだったの? もっとごく一部の人間しか知らないネットスラングだと思ってた……。

「釘宮流と聞いた時からそうに違いないと思っておりましたけれど、ここまで下品な方は初めてですわ。釘宮病患者なんてこの世から消え去ればいいのに……」

「あのー、どうしてそこまで釘宮病を嫌うんですか? 釘宮病の人となにかあったんですか?」

「……あれはそう、ちょうどゼグアゲの放送が始まって、2クール目に突入した頃のことでしたわ……」

 あ、話してくれるんだ。ダメ元で訊いてみただけに、やけにあっさり口を割ってくれたので、正直拍子抜けな気分だ。

「その頃からわたくしはゼグアゲが好きで、特に偉大なる堀江さま……ほっちゃんが演じているサブヒロインが特にお気に入りで、毎週欠かさず観ておりました」

 由梨江さんの静かな語りに、僕は「なるほど」と相槌を打つ。

 一応姉ちゃんも空気を読んでいるようで、不機嫌そうに眉をしかめながらも、由梨江さんの話に黙って耳を傾けていた。

「そのサブヒロインは主人公の殿方と幼なじみの関係で、密かに恋心を抱いていたんですの。まあ主人公からは、お節介キャラとしか見ていない感じでしたけれど。

 それはメインヒロインが登場してからも変わらないままで、一向に関係が進展しないものの、比較的良好な関係を築いていたんですの。

 そんなある日、とある新キャラが現れましたの。それがいわゆるツンデレキャラで、事あるごとに主人公にちょっかいを出してくるんですの」

「くぎゅ(釘宮さん)が演じているキャラだな」

 と、笑みを浮かべて補足する姉ちゃん。

 やはり釘宮病としては、たとえムカつく相手でも、ファンである声優さんの話が出ると嬉しいものらしい。

「そのツンデレが主人公に恋慕していたのは明白でしたわ。例によって主人公が鈍感だったので、どんなアプローチも空振りで終わっていたのですけれど、その代わり、危機感を覚えた幼なじみも本格的に恋のバトルに参戦するようになりましたの。

 ですが、他のヒロイン以上に手応えがないものばかりで、はっきり言って芳しくありませんの。むしろ出遅れている感じすらあって、負け色が濃くなっていく一方なんですの。

 それが悲しくなって、ゼグアゲの掲示板スレに想いの丈をぶつけてみたら、

『幼なじみキャラが主人公とくっつくワケないだろwww』『幼なじみというだけで負けフラグ決定。ちなみに俺はツンデレ派』『ていうか、くぎゅが演じるキャラ以外の勝利なんてないから。マジありえないから』なんて、明らかに釘宮病とわかるレスが返ってきたんですのよ!」

 だん! と心底頭に来た表情で、地面を踏み鳴らす由梨江さん。

「一体なんなんですの、あの方々は! 鼻から幼なじみキャラに勝利はないみたいな言い草をして! そんなの、まだわからないじゃありませんの! 幼なじみとくっ付いた主人公だって他の作品にも少なからずいるのですからっ!

 だいいち、なぜあのツンデレが勝つだなんて言い切れるんですの! 主人公と過ごした時間なら、幼なじみの方が圧倒的に多いんですのよ⁉ それをあんなぽっと出の浅ましいツンデレキャラに負ける道理なんてありえませんわ! むしろ皆無ですわっ!」

「はんっ! 浅ましいのはどっちだ! お前はなんにもわかってないなっ!」

 と、それまで比較的おとなしくしていた姉ちゃんが、ここぞとばかりに胸を張って高らかに吠えた。

「わ、わたくしがなにもわかっていないですって!?」

「その通りだ。幼なじみキャラなんて、一緒にいる時間が長ければ長いほど異性として意識されにくくなるものなんだよ。特に、今回みたいな家が隣り同士で家族ぐるみの付き合いなんてしていたらなおさらだ。主人公にしてみたら、もはや家族のようにしか見られていないんだよバーカバーカ!」

「うぐぅ……!」

 痛いところを突かれたと言わんばかりに、由梨江さんがたじろぐ。

「で、ですが、ツンデレキャラと結ばれるよりは断然マシですわ! 昔ならいざ知らず、今やツンデレなんて疾うに旬も過ぎたオワコン! むしろ最近では視聴者から敬遠される傾向にすらありますのよ! そういう意味では、たとえお節介でも主人公の世話をよく焼いてくれる幼なじみと結ばれた方が、まだ救いがありますわっ!」

「ひでぶ……っ!」

 今度は姉ちゃんが秘孔を突かれた人みたいに顔をしかめた。

「そ、そんなことねえし! まだまだ需要あるし~!」

「負け惜しみも甚だしいですわね 幼なじみこそ万人に愛されるキャラだと認めるべきですわ!」

 お互い引く気はないと言わんばかりにいがみ合う二人。ゼグアゲとかいうアニメに興味のない僕には至極どうでもいい争いにしか見えない。

 というか。

「ふと思ったんだけど、そのアニメってちゃんとメインヒロインがいるんでしょ? しかも恋愛ものじゃなくてロボットアニメなんだよね? そういうのってサブヒロインとかじゃなくて、メインヒロインと結ばれるものなんじゃないの?」

「「…………………………」」

 あ。なんか二人して急に黙った。

「と、とにかく! あなたみたいなろくでもない釘宮病患者を、このまま許すわけにはいきませんわ!」

「上等だ! こっちだってお前みたいな脳内メルヘン畑の堀江病患者を、一発も殴らずにこのまま帰してたまっか!」

 思いっきりなかったことにされた!

 そこまで都合の悪い話だったのか……。

 そうこうしている内に、間合いを取るようにその場から飛び退いた姉ちゃんと由梨江さんが、苛烈な視線を交錯させながらそれぞれ臨戦態勢に入った。



「見せてやんよ。ツンデレは正義の証だということを!」

「望むところですわ。白黒はっきりつけて、お終いにして差し上げます」



 釘宮流VS堀江流。

 動機は至極くだらないけれど、予想もつかない戦いが、今まさに火蓋を切ろうとしていた。


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